大炊王
おおいのおおきみ
- 生没年 733(天平5)〜765(天平神護1)
- 系譜など 舎人親王の第七子。母は当麻氏。藤原仲麻呂の長男真従(まより)の未亡人粟田諸姉を妻とする。即位後、皇后・夫人などを立てた記事は史書に見えない。子には斎宮となった山於女王などが伝わるが、確かではない。天皇を廃された後は廃帝・淡路公などと称され、淳仁天皇の諡号が追贈されたのは明治になってからのこと。
- 略伝 立太子以前は妻と共に仲麻呂邸に居住していたと『続日本紀』にある。757(天平宝字1)年4月、孝謙天皇の推挙により皇太子に就く。この時25歳。翌年8月、即位(淳仁天皇)。761(天平宝字5)年、保良宮滞在中に道鏡が孝謙上皇に接近したことが契機となってか、翌年には上皇との不和が決定的となり、政務は上皇と天皇の間で二分されるに至った。764(天平宝字8)年の仲麻呂の乱の直後、孝謙上皇に対する謀反を理由に天皇を廃され、親王に貶められ淡路に幽閉される。翌年の天平神護元年10月、逃亡を計って捕えられ、その翌日変死。薨年33。
陵の所在地は淡路島の南淡町。また琵琶湖の北、滋賀県西浅井郡菅浦の須賀神社は淳仁天皇を合祀する。同地には淳仁天皇の菩提寺と伝える長福寺跡があり、天皇の墓と称する供養塔がある。
関連サイト:三原町探検紀行 幽閉地の跡という野辺の宮、淳仁天皇を祀る大炊神社など
系図へ