伴宿禰善男
とものすくねよしお
- 生没年 811(弘仁2)〜868(貞観10)
- 系譜など 国道の子。子に中庸がいる。伴大納言の通称がある。
- 略伝 830(天長7)年、校書殿に祗候。以後、仁明天皇の知遇を得る。841(承和8)年、大内記。842(承和9)年、蔵人。同年7月の承和の変後、式部大丞。翌年従五位下・讃岐権守。847(承和14)年、従五位上・蔵人頭・右中弁。翌年従四位下に昇り、参議に右大弁などを兼ねた。以後要職を歴任し、855(斉衡2)年、従三位。同年、右大臣藤原良房らと『続日本後紀』の編纂に従事。859(貞観1)年、正三位・民部卿。翌年中納言に昇進し、さらに864(貞観6)年には大納言に至る。大伴氏が大納言に就くのは実に730(天平2)年の旅人以来のことであった。ところが866(貞観8)年、応天門が放火される事件が起こると、善男は犯人として断罪され、伊豆国に流された。子の中庸が隠岐に流されたほか、関係者の多くが流罪に処せられ、伴氏・紀氏らは政界から駆逐された。同年、藤原良房は太政大臣から臣下最初の摂政に昇った。
系図へ