藤原朝臣仲麻呂
ふじわらのあそみなかまろ
生没年
706(慶雲3)〜764(天平宝字8)
系譜など
南家
武智麻呂
の二男。母は阿部氏の女で、御主人の外孫。同母兄に
豊成
、異母弟に乙麻呂・巨勢麻呂がいる。藤原房前の女
袁比良
を正妻とし、
執弓
(真先)・
久須麻呂
をもうける。室には他に奈賀岐娘(大納言紀麻呂の女)が知られる。男子には他に真従・朝猟・小湯麻呂・薩雄・辛加知・刷雄・執棹がおり、女子には児従・東子・額がいる。758(天平宝字2)年以後、
藤原恵美朝臣押勝
と称した。
略伝
続紀の伝に率性聡敏、ほぼ書記に渉る。大納言阿倍宿奈麻呂に算術(測量などを含む高等数学か。または算道、一種の卜占術)を学び精通する、とある。
733(天平5)年頃、大学少允。
翌天平6年、29歳で従五位下。
天平11年、従五位上。
天平12年10月、関東行幸の際前騎兵大将軍となり、11.14、正五位上。
天平13年、従四位下。同年7.3、民部卿となり恭仁京の造営に主導的役割を果たす。9.12、恭仁京における庶民の宅地班給・左右京の設定に従事。
天平14年8月の紫香楽宮行幸の際は平城京留守官。
743(天平15)年、従四位上参議。同年5.27発布された墾田永年私財法は仲麻呂の意図が関与した可能性が高いとされる。同年6.30、参議民部卿に左京大夫を兼ねる。
天平16年閏1.4、市人に定京のことを問う。同年閏1.11、難波宮行幸の際は恭仁京留守官。脚病により恭仁京に帰還した
安積親王
の急死後、留守官を解任される。
天平17年、正四位上。平城還都後の同年9.4、近江守を兼ねる。
天平18年3.5、式部卿に遷任、文官の人事権を掌握する。同年4.5、兼東山道鎮撫使。同月22日、従三位。
天平20年3月、正三位。
749(天平勝宝1)年、中納言を経ず大納言に昇進。同年8.10、新設の紫微中台の長官(紫微令)を兼ねる。以後、
光明皇后
の勢威を背景として、その権力は左大臣諸兄・右大臣豊成を凌ぐようになる。「是によりて豪宗右族皆その勢を妬む」(仲麻呂没伝)。
天平勝宝2年1.10、吉備真備を筑前守に左降させ、16日、従二位に昇る。
天平勝宝3年、自邸(田村第)に入唐大使等に餞する宴を催し、自ら歌を詠む(19/4242)。
天平勝宝4年4.9、東大寺大仏開眼供養会終了後の夕、孝謙天皇は田村第に還御、御在所とする。同年晩秋にも孝謙天皇・光明太后が仲麻呂邸に幸し、この時の歌が万葉に残る(19/4268)。
天平勝宝5年5月、仲麻呂邸で少主鈴山田史土麻呂が、
大伴家持
に故上皇(元正)の「山人」の歌を誦む(20/4293。舎人親王薨去の天平7年以前の作)。左注に仲麻呂の家で家持が「事を奏す」とあり、仲麻呂は当時私邸で政務を執っていたことが判る。
勝宝6年2.3、来日した鑑真らを河内に迎え、慰労する。
勝宝8年10.23、東大寺に米一千斛・雑菜(漬菜か)一千缶を献上。
勝宝9年1.9、石津王を養子とする。同年4月、
大炊王
が立太子。大炊王は夭折した長子真従の未亡人粟田諸姉を妻とし、田村第に住んでいた。同年5.4、孝謙天皇は平城宮改修のため田村宮に移る。5.20、紫微内相に就任し兵事を掌握。同日、養老律令を施行せしめる。6月、反仲麻呂クーデタの動きを事前に察知し、勅五条を制し、兵部省・五衛府を中心として大幅な人事異動を断行する。6月末、山背王の密告により
奈良麻呂
・
大伴古麻呂
らの謀反計画が発覚、与党を捕縛し拷問にかけ、多数が杖下に死す。
757(天平宝字1)年11.18、内裏肆宴で皇太子大炊王と歌を詠む(20/4486・4487)。
天平宝字2年2.10、内相(仲麻呂)宅で渤海大使小野田守等への餞宴。右中弁大伴家持はこれに参席して作歌するが誦せず(20/4514)。同年8.1、孝謙天皇(41歳)、母皇太后への孝養などを理由に譲位し、同日大炊王即位(淳仁天皇)。同日、仲麻呂の上表により、先帝に「宝字称徳孝謙皇帝」、光明皇太后に「天平応真仁正皇太后」の尊号を奉る。8.25、大保(右大臣)に就任し、
藤原恵美
の姓と
押勝
の名を賜る。さらに永世相伝の功封三千戸・功田百町を賜わり、私鋳銭・私出挙と恵美家印を用いることを許される。同月、官号改易。官職名を中国風に改める。
760(天平宝字4)年1.2、淳仁天皇、田村第に行幸。6月、光明皇太后崩じ、継いで武部卿乙麻呂が薨ず。皇后と弟が相次いで死去し、押勝の勢威は蔭りを見せ始める。この頃『藤氏家伝』を編集させる。また『日本書紀』に次ぐ史書(『続日本紀』の原本)及び『氏族志』(新撰姓氏録に引き継がれる諸氏の系譜書、現存せず)の編纂にも着手。
宝字5年10月、天皇・上皇が保良宮に行幸した際、病を得た上皇は内道場の看病禅師道鏡の呪法により平癒。これを契機に天皇と上皇の関係に亀裂が生じる。
宝字6年2月、正一位。同月、近江国浅井・高嶋両郡の鉄穴を手に入れる。同年12月、子の久須麻呂・朝猟が参議に列せられる。同じ頃、押勝は自邸の敷地内に東西の高楼を構えて内裏に相対し、南門を城楼のようにした。押勝の無道に憂憤した
藤原宿奈麻呂
は、佐伯今毛人・石上宅嗣・大伴家持らと謀って押勝暗殺を計画、翌年3月か4月頃この事が発覚して除名処分を受ける。
宝字6年6.3、孝謙上皇は宣命で淳仁天皇の非礼を非難、出家を宣言。6.23、正室の袁比良が薨ず。
栄山寺八角円堂(国宝) 奈良県五條市
天平宝字年間、仲麻呂の建立と伝わる
宝字8年6.9、授刀督として押勝の軍事力の一翼を担っていた藤原北家御楯(児従の夫で、押勝にとっては娘婿)が薨ず。9.3、都督四畿内・三関・近江・丹波・播磨等の兵事使となり、諸国から20人ずつ兵を集めることを高野天皇に奏す。後、奉聞以上の人数を徴集し、大外記の高丘比良麻呂(高丘河内の子)が文書偽造を高野天皇に奏上する。9.5、船親王、押勝と共謀して朝廷非難の上進を企てる(後日判明)。同月、押勝は道鏡が先祖の物部弓削守屋大臣の位と名を継ぐことを謀っていると高野天皇に奏上、道鏡を退けるよう進言する。9.11、押勝の謀反計画が明確となったとして、孝謙上皇は少納言山村王に駅鈴・内印の回収を命ずるが、押勝は息子の久須麻呂を派遣、待ち伏せさせてこれらを奪わせる(
恵美押勝の乱
)。同日、上皇は授刀少尉坂上苅田麻呂・同将曹牡鹿嶋足(蝦夷の族長)らを派遣させ、久須麻呂らを射殺。さらに押勝とその子孫らの官位・姓を剥奪し、使者を派遣して三関を固守する。翌12日、押勝らは太政官印を盗み、宇治から近江へ向かい逃走。山背守の日下部子麻呂らは先回りして勢多橋を焼く。近江国衙に入れなくなった押勝は越前へ方向を転換、高嶋郡の角家足宅に泊まる。夜、押勝の臥屋に隕石が落下。一方、衛門少尉佐伯伊多智らは押勝らより早く越前に入り、守恵美辛加知を斬る。押勝は
氷上塩焼
を帝に擁立、太政官符を諸国に配布。また息子の真先・朝猟らを三品(親王級)に叙す。9月17〜18日、愛発関突破に失敗した押勝は高嶋郡を南下、三尾の崎で追討軍と合戦。 藤原蔵下麻呂率いる追討軍の本隊が到着し、反乱軍は敗走。押勝は妻子3、4人と船で琵琶湖に出、石村石楯に斬られる。妻及び子孫(真先・朝狩・小湯麻呂・薩雄・執棹ら)、従者(氷上塩焼・恵美巨勢麻呂・仲石伴・石川氏人・大伴古薩・阿倍小径ら34名)も湖辺で斬殺される。第6子刷雄のみ、年少時よりの仏道修行を理由に免罪、隠岐国に配流される。押勝の首は直ちに京に届けられる。
万葉には上記2首のみ。なお奈良県五條市の栄山寺八角堂は、天平宝字年間仲麻呂が父母の追善供養のため建立したと伝わる
(上の写真を参照)
。
岸俊男著の詳細な伝記『藤原仲麻呂』(吉川弘文館人物叢書)がある。
関連サイト:
藤原仲麻呂の歌
(やまとうた)
系図へ