氷上真人川継
ひかみのまひとかわつぐ
- 生没年 未詳
- 系譜など 天武天皇の曾孫。塩焼王と不破内親王の子。志計志麻呂の同母弟か(志計志麻呂と同一人とする説もある)。藤原浜成の女法壱を妻とした。
- 略伝 757(天平宝字1)年、父の塩焼王は臣籍降下して氷上真人姓を賜る。764(天平宝字8)年、父が押勝の乱に与して処刑された際は、母が皇女であることを理由に免罪される。769(神護景雲3)年5月、不破内親王・志計志麻呂は巫蠱の罪に坐し、配流に処せられる。772(宝亀3)年12月、母は罪を晴らし内親王の属籍を復される。宝亀10年1.25、無位より従五位下に叙せられる。781(天応1)年6.16、舅の大宰帥藤原浜成が員外帥に降格される。翌天応2年1.16、因幡守。同年閏1月、川継の資人大和乙人が宮中で捉えられ、川継・宇治王らの謀反の企てを白状。川継は天皇の勅使の到着を知り、自邸より逃走するが、閏1.14、大和国葛上郡で捉えられる。大行天皇の服喪中との理由で、死罪を免じて妻藤原法壱とともに伊豆三嶋(伊豆諸島)に配流される(氷上川継の乱)。母の不破内親王と川継の姉妹は淡路国に移配される。藤原浜成は謀反の一味として参議・侍従を解任され、三方王は日向介に左遷。左大弁大伴家持・右衛士督坂上苅田麻呂らも連座して現任を解かれる。天武系の皇位継承候補としては最後に残された一人だったが、その追放により天武直系の血統は絶たれることとなった。796(延暦15)年12月、流刑地伊豆にあって調庸を免除される。806(延暦25)年3.16、従五位下に復位される。809(大同4)年、典薬頭。812(弘仁3)年、伊豆守に任ぜられ、以後の消息は不明。
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