略伝 初め写経舎人として出仕し、739(天平11)年7月、写経司舎人「知」とあり(大日本古文書)、写経舎人らの監督官的立場にあったかと思われる。同年10月、皇后宮維摩講の仏前唱歌において忍坂王らと共に弾琴(08/1594左注)。
743(天平15)年3月、写経司に出仕。同年5.5、皇太子阿倍内親王が五節を舞った宴で従五位下に昇叙される。同年7月、写経司に出仕。
天平16年1.11、大伴家持と活道岡で集宴、歌を詠む(06/1042)。同年2月、写経司に出仕。同年6月頃、写一切経長官。
天平18年4.11、玄蕃頭兼備中国守。同年11月頃、造金光明寺造仏長官(後の造東大寺司長官)を兼ね、大仏造営の最高監督官を務めたと知れる。
天平19年 3.10、玄蕃頭の職は阿倍毛人に代わる。
天平20年7月か8月頃、造東大寺司が設置され、知事に就任。次官は佐伯今毛人。この際造仏所・写経所その他は皇后宮職から離れ、造東大寺司の管轄となる。大仏造営の主導権が皇后から天皇へ移行した徴証と見る説もある。
749(天平21)年2月、写経司長官兼玄蕃頭兼備中守。天平感宝に改元後の同年4.14、聖武天皇の東大寺行幸に際し従五位上に昇叙される。同年閏5月頃、兼大安寺造仏所長官(寧樂遺文)。
翌天平勝宝2年1月、玄蕃頭兼造東大寺長官。同年12.9、孝謙天皇は藤原仲麻呂を派遣して造東大寺司官人に叙位を行い、この時市原王(玄蕃頭兼造東大寺司長官)は正五位下に昇叙。
751(天平勝宝3)年6.3、所有の『歌林』七巻を写経所に貸与(大日本古文書)。これを憶良編の『類聚歌林』と見る説、市原王編の志貴皇子一門の家集と見る説(大浜厳比古)、原万葉の巻一から巻七までと見る説などがある。同年7月、写経司より高僧伝を借りる(大日本古文書)。
天平勝宝4年4.9、東大寺大仏開眼供養会の際には名が見えない(『東大寺要録』にこの時の玄蕃頭は秦忌寸首麿とあり、市原王はすでに退任していたらしい)。(注1)
756(天平勝宝8)年、治部大輔に就任し、正四位下に昇叙される。
758(天平宝字2)年2月、式部大輔中臣清麻呂宅の宴に出席。大原今城・大伴家持・甘南備伊香らと共に歌を詠む(20/4500)。同年11月、伊賀国阿拝郡柘植郷の墾田十町を価九貫文で東大寺に沽却(大日本古文書)。
天平宝字4年6.7、光明皇太后崩時、池田親王・白壁王らと共に山作司。この年、能登内親王(当時は女王)との間に五百枝王をもうける。
763(天平宝字7)年1.9、摂津大夫。同年4.14、恵美押勝暗殺未遂事件で解任された佐伯今毛人の後任として造東大寺長官に再任。同年5月、御執経所長官(造東大寺長官に同じか。大日本古文書)。
以後、史料に見えず。翌天平宝字8年正月には吉備真備が造東大寺司長官となっており、これ以前に引退または死去したか。しかし年齢はおそらく四十代だったことを考えれば、何らかの科により官界から追放されたのではないかとも疑われる。一説に、宝字7年12月29日、造東大寺司判官葛井根道らが酒席で不敬の言葉を吐き流罪に処せられた事件の折、上司である王がその責に連座したともいう。または宝字8年9月の押勝の乱に連座したか。
万葉には8首、03/0412、04/0662、06/0988・1007・1042、08/1546・1551、20/4500。佳作が多く、万葉後期の代表的歌人の一人に数えられる。家持とは私的な宴で二度にわたり同席しており、親しい友人だったと推測される。
安田喜代門『萬葉集の正しい姿』(私家版)が市原王の事跡を詳細に追跡している。
(注1)大仏開眼会に市原王の名が見えないこと、また755(天平勝宝7)年正月に佐伯今毛人が就任するまで他の何人も造東大寺長官(知事)であった形跡がないことなどから、「市原王は勝宝三年から同七歳ごろまで病床にあったのではなかろうか。そしてその間、形式的には、造東大寺司の知事であったと考えたほうがよいとおもう」(角田文衛『佐伯今毛人』)との説がある。
関連サイト:市原王の歌(やまとうた)