大伴氏の歴史 概略


故郷の飛鳥はあれど青丹よし奈良の明日加を見らくしよしも(大伴坂上郎女 万葉巻六)
飛鳥の里 奈良県高市郡明日香村

大伴氏の本拠地は大和盆地東南部(橿原市・桜井市・明日香村付近)であったらしく、皇室・蘇我氏の本拠と隣接する。また万葉歌にある「大伴の御津の浜」の語や、紀氏と本拠を接していたという史書中の記事などから、より古い時代には難波地方を本拠とし、和泉・紀伊方面まで勢力を張っていたかと思われる。

大伴氏は古くから天皇家に従属し、伴の中の伴として強い絆で結ばれていた。五世紀半ばまで大王家と共に各地の豪族との戦乱を勝ち抜き、雄略天皇の頃中央での覇権を確立。大伴室屋は大連を賜わり、その孫金村にかけて政権を掌握した。金村は平群真鳥の乱を平定し、さらに継体天皇を担いで王位継承戦争を戦い勝利する。大化前代に大伴氏はやや衰えるが、改新後、孝徳天皇のもとで長徳が右大臣に就任した。以後、斉明・天智朝で再び沈潜を余儀なくされるも、壬申の乱で戦功をあげて復活、天武天皇の御代に宿禰を賜姓された。


1.記紀等に見える大伴氏



2.家持の幼少期まで

金村以後、大伴氏の本流は咋子の子孫に引き継がれた。咋子の三子長徳・吹負・馬来田のうち最も栄えたのは右大臣にのぼった長徳であり、長徳は御行・安麻呂らをもうけた。

家持の祖父にあたる安麻呂は、藤原不比等の勢威に圧倒されつつも、慶雲二年(705年)には大納言に至る。和銅三年(710年)、都が平城に遷されると、宮の東北郊佐保に邸を構え、佐保大納言と称された(遷都以前に亡くなった御行は、万葉集ではその居住地に因み「高市大卿」と呼ばれている)。

佐保の里 奈良市川上町

しかし遷都後まもない和銅七年(714年)、安麻呂は薨去。時に正三位大納言兼大将軍。続日本紀には「帝(元明天皇)深く悼みて、詔して従二位を贈りたまふ」とある。

家持の父旅人が安麻呂の長男として佐保大伴家を引き継いだ。次男田主は夭折し、三男宿奈麻呂(すくなまろ)は田村の里に分家した。また旅人の異母弟稲公(いなきみ)は実姉坂上郎女(さかのうえのいらつめ)と共に坂上の里に住んでいたらしい。

家持が生れたのは、『公卿補任』記載の年齢を信じれば、養老二年(718年)のことである。従四位上中納言の地位にあった旅人の、齢五十四にして初めてもうけた男子であった。母は不詳であるが、多治比氏の郎女であったとの説が有力である。

旅人の嫡妻大伴郎女は子に恵まれず、家持は佐保大納言家の跡取りとして、幼くして母のもとから離され、佐保邸に引き取られたものと思われる。当時の佐保家を取り仕切っていたのは、安麻呂の正妻、大刀自石川内命婦である。女官として永く朝廷に仕えた内命婦は歌を良くし、武門の名家大伴一族に歌を好む風流を導き入れた張本人は彼女だったかも知れない。

家持が生まれた年、元正天皇は即位四年目を迎え、元明太上天皇がまだ存命であった。右大臣不比等は、故文武天皇に嫁いだ宮子に続き、娘の安宿媛(あすかひめ。のちの光明皇后)を皇太子(おびと。のちの聖武天皇)の室に入れ、外戚として政治的実権を一手に握っていた。同じ年、首皇子と安宿媛との間には、最初の子阿倍内親王が生れている。

養老四年(720年)の晩春、大隅国で隼人が叛乱を起こし、旅人は俄かに征隼人持節大将軍に任命され、九州に赴いた。六月には特に旅人個人に向けて元正天皇より慰問の詔が発せられた。ところが叛乱がまだ鎮圧されない秋八月、遠征先の旅人のもとに右大臣不比等薨去の知らせが届く。旅人は勅命を受け、直ちに京に帰還した。

明けて養老五年一月、長屋王が右大臣の座についた。壬申の乱の英雄であった父高市皇子の名声と莫大な遺産を受け継いだ長屋王は、当時天皇家と競うほどの権勢を誇っていた。

三年後の養老八年(724年)、元正天皇は皇太子に譲位し、ここに長らく待たれた草壁皇子直系の男帝聖武天皇の御代が幕を開けた。年号は神亀元年と改められ、長屋王は正二位左大臣にのぼり、旅人は不比等の長男武智麻呂(むちまろ)・次男房前(ふささき)らと共に正三位に叙せられた。この年家持は七歳。

聖武天皇は即位の翌月吉野に行幸し、従駕した旅人は勅を奉じて有名な吉野讃歌の作をなした(なぜか奏上には至らない)。

以後も天皇は吉野・紀伊・難波などへ行幸を繰り返し、笠金村山部赤人・車持千年ら従駕歌人が各地で歌を奉った。この時代を、人麻呂時代に次ぐ万葉歌の盛期とする所以である。一方、京では長屋王主催の華やかな宴が繰り広げられ、のち『懐風藻』などに収められることになる多くの漢詩が作られた。

神亀四年(727年)十月、聖武天皇と夫人安宿媛の間に、待望の男子が生まれ、翌月にはその立太子が朝堂で盛大に祝われた。この直後かまたは翌年春、旅人は大宰帥に任命され、再び九州に下向した。妻の大伴郎女や家持も同行するが、大伴郎女は大宰府に到着して間もない神亀五年夏、病死する。すでに筑前守として九州に赴任していた山上憶良は旅人に「日本挽歌」を捧げ、以後旅人と憶良の間に活発に歌がやり取りされる。

大宰府政庁跡 福岡県太宰府市

同じころ旅人の弟宿奈麻呂も死去し、旅人にとっては二重の打撃となった。しかし夫に去られた異母妹坂上郎女が筑紫へやって来たことは、暗澹たる大宰府生活の始まりにわずかな光明をもたらしたであろう。家持にとっても、幼い頃から親しくしていたこの叔母は、母親代りとしても、また教育係としても頼もしい存在であったに違いない。

都では、同年秋、生後一年に満たない皇太子が逝去し、有力な皇位継承者として、長屋王の子である膳夫王(かしわでのみこ)ら四王子が浮かび上がった。長屋王の父は、天武の皇子で武勲・政勲ともに誉れ高かった高市皇子であり、しかも膳夫王らの母は元正・文武天皇の同母姉妹吉備内親王であって、その血統からして皇位を主張するに充分だったのである。しかもこの年、聖武天皇のもう一人の夫人である県犬養広刀自安積皇子(あさかのみこ)を出産し、藤原氏は外戚としての立場に危機を迎えた。以後天平十年まで皇太子が定まらないという異常な事態に陥り、政情は俄かに緊迫した。

しかし藤原氏は早くから長屋王駆逐のための準備を着々と進めていた。当時藤原氏に対抗し得るだけの軍事的動員力を有する唯一の勢力であった大伴氏の棟梁旅人を筑紫へ追いやったこと自体、藤原氏の周到な計画の一環であったかも知れない。

翌神亀六年(729年)二月、不比等の第三子宇合(うまかい)が兵を率いて長屋王の邸を囲み、武智麻呂は「左道を学び国家を傾けんと…」の罪状を以て王を窮問した。長屋王は権力の絶頂で自害、正室の吉備内親王とその子四王も死に至らしめられた。同年八月には天平と改元され、安宿媛が臣下として異例の立后を果たした。

かかる政界の激動期、旅人は遠く筑紫にいた。のち主に万葉巻第五に収められることになる浪漫主義的とも言うべき詩歌の制作は、この時期の所産にほかならない。天平二年正月には大宰府の旅人邸で梅花の宴が開かれ、三十二首に及ぶ梅の歌が披露された。家持も末席に連なったと思われるこの盛大な宴は、その後も長く家持らにより追想されることになる。

この年夏六月に至り、旅人は突然脚に瘡を拵える病に臥してしまう。一時は危篤に陥り、遺言を伝えるため庶弟稲公と甥古麻呂(田主の子か。または御行の子、宿奈麻呂の子など諸説)が京から呼び寄せられた。幸い大事には至らず、稲公らが帰京する折、駅家で設けられた送別の宴には、すでに十三歳の少年に成長した家持が父の代役を務めて出席した。

冬十月、旅人は先に逝去した多治比池守の後任として大納言を拝命し、不比等の長子武智麻呂と共に太政官の最高位に並ぶこととなった。

天平二年の暮れ、一家は約三年ぶりに佐保の自宅に落ち着いたが、翌年七月には、前年の病の余燼に旅の疲れも重なってか、旅人は六十七歳の生涯を閉じた。資人であった余明軍(よのみょうぐん)は、

かくのみにありけるものを萩の花咲きてありやと問ひし君はも(万葉巻三)

と詠んで主人の死を悼んだ。家持はこのとき十四歳になっていた。


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