大伴氏の歴史 概略
故郷の飛鳥はあれど青丹よし奈良の明日加を見らくしよしも(大伴坂上郎女 万葉巻六)
飛鳥の里 奈良県高市郡明日香村
大伴氏の本拠地は大和盆地東南部(橿原市・桜井市・明日香村付近)であったらしく、皇室・蘇我氏の本拠と隣接する。また万葉歌にある「大伴の御津の浜」の語や、紀氏と本拠を接していたという史書中の記事などから、より古い時代には難波地方を本拠とし、和泉・紀伊方面まで勢力を張っていたかと思われる。
大伴氏は古くから天皇家に従属し、伴の中の伴として強い絆で結ばれていた。五世紀半ばまで大王家と共に各地の豪族との戦乱を勝ち抜き、雄略天皇の頃中央での覇権を確立。大伴室屋は大連を賜わり、その孫金村にかけて政権を掌握した。金村は平群真鳥の乱を平定し、さらに継体天皇を担いで王位継承戦争を戦い勝利する。大化前代に大伴氏はやや衰えるが、改新後、孝徳天皇のもとで長徳が右大臣に就任した。以後、斉明・天智朝で再び沈潜を余儀なくされるも、壬申の乱で戦功をあげて復活、天武天皇の御代に宿禰を賜姓された。
1.記紀等に見える大伴氏
- 天忍日命(アメノオシヒノミコト)を祖とする(紀、記、新撰姓氏録、旧事本紀)。
(注)アメノは天神系の神であること、オシは威力によって制圧すること、ヒは霊力を表す。一説にヒは朝鮮王族(乃至朝鮮半島系神話)からの濃い影響関係を示すという(溝口睦子)。
ところで万葉集18/4094の大伴家持の歌には「大伴の 遠つ神祖の 其名をば 大来目主と おひもちて」とあり、記紀等の伝承と食い違いを見せる。大来目主のヌシはノ・ウシの約まった形。「〜を支配する者・領有する者」の意で、偉大なる久米部の支配者の意となる。喜田貞吉によればクメはクマの転、久米氏は肥(くま)人族であろうという。しかし折口信夫はこの説に対し、クメは「くみ竹」のクミ、またはカベ(壁)と関係ある語とし、大伴・久米氏は宮廷の御垣を衛る役割を担ったとする。また記紀に見える久米歌の狩猟民族的な性格から、久米部を熊襲の山人族だったと見る説もある(上田正昭)。
- 記によれば、天孫降臨の際、天忍日命・天久米命の二人が、天の石靫を負い、頭椎(くぶつち)の太刀を佩き、天の波士弓(はじゆみ)を持ち、天の真鹿児矢(まかごや)を手挟み、御前に立って仕え奉る。
また書紀神代下一書によれば、天忍日命、天クシ津大来目を率い、背には天磐靫を負い、臂には稜威(いつ)の高鞆を著き、手には天ハジ弓・天羽羽矢を捉り、八目鳴鏑(やつめのかぶら)を取り副え、また頭槌剣(かぶつちのつるぎ)を帯き、天孫の御前に立って、高千穂の峰に降り来る。
- 神武即位前紀によれば、カムヤマトイワレビコ命(神武天皇)東征のとき、「大伴氏の遠祖」日臣命(ひのおみのみこと)が、大来目(記では大久米命)を率いて山を踏み分け、宇陀までの道を通す。この功により道臣(みちのおみ)の名を賜わる。
(注)これは大伴・久米氏が大王家初期政権時代から大王家の側近中の側近として征服戦争に従った史実の反映であろう。家持の「喩族歌」(20/4465)にもこの経緯が「大久米の 大夫健男を 先に立て 靫取り負ほせ 山川を 磐根さくみて 踏みとほり 国まぎしつつ…」と描かれている。
- 同じく神武即位前紀、道臣命(記では大久米命が同行)は天皇の命をうけ、菟田県の首長兄滑(えうかし)を責め殺す。帰順した弟滑(おとうかし)を饗する宴で、来目歌が奏される。
- 神武即位前紀、天皇は高皇産霊神の顕斎の際、道臣命を斎主とし、「厳媛(いつひめ)」と名付ける。
- 神武即位前紀、天皇は道臣命に命じ、大来目らを率い、国見丘の八十梟師(やそたける)の残党を討伐させる。道臣命は忍坂に大室を作って酒宴を催し、酒に酔った梟師の残党を来目部に斬殺させる。
- 記中巻、大久米命は大和の高佐士野で天皇のために歌を以てイスケヨリ姫(三輪の大物主神とセヤダタラ姫との子)を娉いする。姫は返す歌で、大久米命の「黥ける利目」(入れ墨をした裂けた目)を訝る。
- 同じく記中巻、神武天皇即位のとき、道臣命、大来目を率い、諷歌倒語(そへうたさかしまごと=譬喩歌と暗号風の歌)を以て妖気を払う。
(注)大伴氏が古く大王家の祭祀を司っていたかと思わせる挿話。
- 記中巻、神武即位の翌年、道臣命は築坂邑(橿原市鳥屋町付近)に宅地を賜わる。
(注)保田與重郎『萬葉集の精神』によれば、築坂社は道臣命の祀られた社の址と言われ、また大伴屋敷とも道臣命墳墓とも言われるものが、天磐靫を蔵めたという靫神社の址と推定されるという。
築坂邑伝承地 奈良県橿原市鳥屋町
- いわゆる崇神王朝(三輪王朝)でも大伴氏の活躍が見られる。十一代垂仁天皇紀二十五年、阿倍臣の遠祖武渟川別・和迩臣の遠祖彦國葺・中臣連の遠祖大鹿嶋・物部連の遠祖十千根・大伴連の遠祖武日の五大夫に、厚く神祇を祭祀する旨の詔を垂れる。
- 景行紀、日本武尊の蝦夷征伐に吉備武彦と大伴武日が従う。日高見国での蝦夷征討の後、甲斐国の酒折宮で武日は靫負部を賜わる。
- 仲哀紀の四大夫は、中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部膽咋連・大伴武以連(武持とも。武日の子)。伴氏系図によれば武以は初めて大伴の姓を賜わり、大臣に任じられる。
- 四世紀末のいわゆる応神王朝(河内王朝)樹立の頃、大伴氏の活躍は特に見られない。しかし三代後の允恭のとき室屋(武以の子)が登場し大伴氏は政界に重きを置くようになる。大伴氏において実在がはっきりと信じられるのは室屋以降である。
新沢千塚古墳群(5〜6世紀) 奈良県橿原市川西町
大伴氏の群集墳に有力視される
- 允恭十一年、大伴連室屋、天皇の命により衣通郎姫(そとおしのいらつめ)のために藤原部を定める。
- 雄略紀、天皇即位の時(5世紀後半)、大伴室屋は物部目と共に大連を賜わる。またこの頃、室屋とその子談(かたり)は靫負三千人を領して左右衛士府に分衛したという(職員令集解左衛士府条)。
- 雄略九年、談は紀小弓と共に新羅に派遣され、戦死。小弓は陣中に病死。この時の天皇の詔に、大伴卿(室屋)と紀卿(小弓)が「同じ国近き隣の人にして、由来尚し」とある。
- 雄略二十三年、天皇は死に臨み、室屋らに遺詔して星川皇子の反逆を抑え、皇太子を輔けて天下を治めるべきことを命じる。この時、室屋の民部広大にして国に満つとある。
(注)大伴部(大化前代の私有民)は全国的に分布するが、特に東国・奥羽地方に目立つ。久米部が西国中心なのと対照的で、このことから大伴氏が隆盛を迎えたのは久米氏より遅れるとみる説がある。
- 清寧即位前紀、室屋は東漢掬直に命じて星川皇子の乱を鎮圧させる。
- 清寧二年(481年)、室屋は子のいない天皇の名を遺すため、諸国に白髪部を置く。
(注)一説に、大伴氏の本来の職掌は部の設置にあったという(直木孝次郎)。
- 武烈即位前紀、談の子金村は平群臣真鳥・鮪父子の乱を平定、皇太子を即位させ、自らは大連となる。以後金村は半世紀近くにわたって政治的指導権を掌握。
- 継体即位前紀、武烈天皇が崩ずると、金村は越前三国より男大迹王を迎え、継体天皇として即位させる。
- 継体六年(512年)、金村は任那四県を百済に割譲。代償として翌年、百済は五経博士を日本に送る。
(注)当時の外交権は天皇になく、金村が掌握していたらしいことが窺える(紀では金村が天皇の勅を得た形になっている)。天皇による外交権の確立は壬申の乱後とされる。
- 継体二十一年(527年)、筑紫で磐井が反乱を起こすと、金村は物部麁鹿火(あらかひ)を将軍として派遣し、翌年、鎮圧に成功。
(注)古事記では麁鹿火と金村の二人を派遣して磐井を討ったとある。また継体紀には、天皇の征討命令に対する麁鹿火の返答に大伴氏の祖先について言及する矛盾があり、本来は金村が将軍の任に当たったのではないかと推測される。紀では金村が百済から賄賂を受け取ったことを示唆するなど、金村に対し批判的な視点が目立つ。
- 安閑紀、金村は各地に屯倉を設置する。
- 宣化二年(537年)、大伴磐(いわ)・狭手彦(さでひこ。共に金村の子)、新羅の任那侵攻に際し、任那救援の命を受ける。磐は筑紫の那津官家(大宰府の起源)で執政し、狭手彦は朝鮮に渡り、任那諸国・百済救援に活躍する。
(注)肥前国風土記に狭手彦と篠原弟日姫子にまつわる褶振峯地名説話がある。万葉巻五には狭手彦と松浦佐用姫の説話をもとにした山上憶良他の連作がある。
- 欽明天皇一年(540年)、金村は三韓政策の失敗を物部尾輿らに責められ、住吉の自宅に病と称して引き篭る。
(注)大伴氏は物部氏・蘇我氏との権力争いに敗れ、政治的指導権を失う。金村のこの事実上の失脚により、大伴氏の黄金時代は幕を閉じる。以後、主として蘇我氏の勢力下に入り、命脈を保つ。一方、天皇家は東国の豪族層を中心とする舎人を直属の兵として、大伴氏の軍事力からの自立を推進する。
- 欽明二十三年(562年)、狭手彦は大将軍として高句麗を討つ。
- 用明二年(587年)、大伴噛(くい。咋子くいことも。金村の子)は、蘇我馬子による物部守屋討伐軍に参加。物部氏は滅亡。
- 崇峻天皇が即位(588年)すると、金村の子糠手(ぬかて)の女小手子(おてこ)が妃となる。
(注)天皇が大伴氏の娘を妃としたのは、記録に残る限りこれが唯一例(但し平安時代に文徳天皇が伴氏を女御とした例はある)。
- 崇峻四年(591年)、金村の子咋子が任那再興のため筑紫に派遣されるが、崇峻暗殺により中止。
- 推古元年(593年)、厩戸皇子が立太子した頃、大伴屋栖古(やすこ)は皇子側近の侍者となる(日本霊異記)。
- 推古九年(601年)、咋子、任那救援のため高句麗に派遣される。
- 推古二十二年(614年)、中臣御食子の妻大伴夫人(智仙娘)は鎌子(後の藤原鎌足)を生む。
- 推古三十六年(628年)、推古天皇崩後、大臣蘇我蝦夷は自邸に群臣を饗宴し、皇嗣を諮問する。群臣沈黙する中、大伴鯨連(系譜未詳)が口を開き、天皇の遺命の通り田村皇子(のちの舒明天皇)を即位させるべきであると進言する。これに対し、巨勢臣大麻呂らは山背大兄皇子(聖徳太子の子)を推薦する。
- 大化元年(645年)、軽皇子即位(孝徳天皇)の時、大伴馬飼(うまかい。長徳ながとことも。咋子の子)、金の靫をつけて壇の左に、犬上健部、同じく右に立つ。
- 大化五年(649年)、粛清された蘇我倉山田石川麻呂の後任として長徳が右大臣に就任。
- 孝徳天皇の白雉二年(651年)、右大臣大伴長徳は薨去(公卿補任)。
長徳薨去の記事は紀には何故か見えない。孝徳朝末期以後、天智朝まで大伴氏の動静は伝わらず、また斉明末年から天智初年(661〜663年)にかけての百済救援にも大伴氏の活躍は見られない。この期間大伴氏は中央政界から疎外されていたことが窺える(山本健吉)。
- 壬申の乱(672年)で、咋子の子吹負(ふけい)・馬来田(まぐた)、長徳の子御行(みゆき)・安麻呂が吉野方に参戦、功を挙げる。吹負は将軍に任じられ、大和を平定する。
- 天武十三年(684年)の八色の姓制定で大伴氏は宿禰を賜わる。
- 持統十年(696年)、大納言大伴御行は資人八十人を賜わる。
2.家持の幼少期まで
金村以後、大伴氏の本流は咋子の子孫に引き継がれた。咋子の三子長徳・吹負・馬来田のうち最も栄えたのは右大臣にのぼった長徳であり、長徳は御行・安麻呂らをもうけた。
家持の祖父にあたる安麻呂は、藤原不比等の勢威に圧倒されつつも、慶雲二年(705年)には大納言に至る。和銅三年(710年)、都が平城に遷されると、宮の東北郊佐保に邸を構え、佐保大納言と称された(遷都以前に亡くなった御行は、万葉集ではその居住地に因み「高市大卿」と呼ばれている)。
佐保の里 奈良市川上町
しかし遷都後まもない和銅七年(714年)、安麻呂は薨去。時に正三位大納言兼大将軍。続日本紀には「帝(元明天皇)深く悼みて、詔して従二位を贈りたまふ」とある。
家持の父旅人が安麻呂の長男として佐保大伴家を引き継いだ。次男田主は夭折し、三男宿奈麻呂(すくなまろ)は田村の里に分家した。また旅人の異母弟稲公(いなきみ)は実姉坂上郎女(さかのうえのいらつめ)と共に坂上の里に住んでいたらしい。
家持が生れたのは、『公卿補任』記載の年齢を信じれば、養老二年(718年)のことである。従四位上中納言の地位にあった旅人の、齢五十四にして初めてもうけた男子であった。母は不詳であるが、多治比氏の郎女であったとの説が有力である。
旅人の嫡妻大伴郎女は子に恵まれず、家持は佐保大納言家の跡取りとして、幼くして母のもとから離され、佐保邸に引き取られたものと思われる。当時の佐保家を取り仕切っていたのは、安麻呂の正妻、大刀自石川内命婦である。女官として永く朝廷に仕えた内命婦は歌を良くし、武門の名家大伴一族に歌を好む風流を導き入れた張本人は彼女だったかも知れない。
家持が生まれた年、元正天皇は即位四年目を迎え、元明太上天皇がまだ存命であった。右大臣不比等は、故文武天皇に嫁いだ宮子に続き、娘の安宿媛(あすかひめ。のちの光明皇后)を皇太子首(おびと。のちの聖武天皇)の室に入れ、外戚として政治的実権を一手に握っていた。同じ年、首皇子と安宿媛との間には、最初の子阿倍内親王が生れている。
養老四年(720年)の晩春、大隅国で隼人が叛乱を起こし、旅人は俄かに征隼人持節大将軍に任命され、九州に赴いた。六月には特に旅人個人に向けて元正天皇より慰問の詔が発せられた。ところが叛乱がまだ鎮圧されない秋八月、遠征先の旅人のもとに右大臣不比等薨去の知らせが届く。旅人は勅命を受け、直ちに京に帰還した。
明けて養老五年一月、長屋王が右大臣の座についた。壬申の乱の英雄であった父高市皇子の名声と莫大な遺産を受け継いだ長屋王は、当時天皇家と競うほどの権勢を誇っていた。
三年後の養老八年(724年)、元正天皇は皇太子に譲位し、ここに長らく待たれた草壁皇子直系の男帝聖武天皇の御代が幕を開けた。年号は神亀元年と改められ、長屋王は正二位左大臣にのぼり、旅人は不比等の長男武智麻呂(むちまろ)・次男房前(ふささき)らと共に正三位に叙せられた。この年家持は七歳。
聖武天皇は即位の翌月吉野に行幸し、従駕した旅人は勅を奉じて有名な吉野讃歌の作をなした(なぜか奏上には至らない)。
以後も天皇は吉野・紀伊・難波などへ行幸を繰り返し、笠金村・山部赤人・車持千年ら従駕歌人が各地で歌を奉った。この時代を、人麻呂時代に次ぐ万葉歌の盛期とする所以である。一方、京では長屋王主催の華やかな宴が繰り広げられ、のち『懐風藻』などに収められることになる多くの漢詩が作られた。
神亀四年(727年)十月、聖武天皇と夫人安宿媛の間に、待望の男子が生まれ、翌月にはその立太子が朝堂で盛大に祝われた。この直後かまたは翌年春、旅人は大宰帥に任命され、再び九州に下向した。妻の大伴郎女や家持も同行するが、大伴郎女は大宰府に到着して間もない神亀五年夏、病死する。すでに筑前守として九州に赴任していた山上憶良は旅人に「日本挽歌」を捧げ、以後旅人と憶良の間に活発に歌がやり取りされる。
大宰府政庁跡 福岡県太宰府市
同じころ旅人の弟宿奈麻呂も死去し、旅人にとっては二重の打撃となった。しかし夫に去られた異母妹坂上郎女が筑紫へやって来たことは、暗澹たる大宰府生活の始まりにわずかな光明をもたらしたであろう。家持にとっても、幼い頃から親しくしていたこの叔母は、母親代りとしても、また教育係としても頼もしい存在であったに違いない。
都では、同年秋、生後一年に満たない皇太子が逝去し、有力な皇位継承者として、長屋王の子である膳夫王(かしわでのみこ)ら四王子が浮かび上がった。長屋王の父は、天武の皇子で武勲・政勲ともに誉れ高かった高市皇子であり、しかも膳夫王らの母は元正・文武天皇の同母姉妹吉備内親王であって、その血統からして皇位を主張するに充分だったのである。しかもこの年、聖武天皇のもう一人の夫人である県犬養広刀自は安積皇子(あさかのみこ)を出産し、藤原氏は外戚としての立場に危機を迎えた。以後天平十年まで皇太子が定まらないという異常な事態に陥り、政情は俄かに緊迫した。
しかし藤原氏は早くから長屋王駆逐のための準備を着々と進めていた。当時藤原氏に対抗し得るだけの軍事的動員力を有する唯一の勢力であった大伴氏の棟梁旅人を筑紫へ追いやったこと自体、藤原氏の周到な計画の一環であったかも知れない。
翌神亀六年(729年)二月、不比等の第三子宇合(うまかい)が兵を率いて長屋王の邸を囲み、武智麻呂は「左道を学び国家を傾けんと…」の罪状を以て王を窮問した。長屋王は権力の絶頂で自害、正室の吉備内親王とその子四王も死に至らしめられた。同年八月には天平と改元され、安宿媛が臣下として異例の立后を果たした。
かかる政界の激動期、旅人は遠く筑紫にいた。のち主に万葉巻第五に収められることになる浪漫主義的とも言うべき詩歌の制作は、この時期の所産にほかならない。天平二年正月には大宰府の旅人邸で梅花の宴が開かれ、三十二首に及ぶ梅の歌が披露された。家持も末席に連なったと思われるこの盛大な宴は、その後も長く家持らにより追想されることになる。
この年夏六月に至り、旅人は突然脚に瘡を拵える病に臥してしまう。一時は危篤に陥り、遺言を伝えるため庶弟稲公と甥古麻呂(田主の子か。または御行の子、宿奈麻呂の子など諸説)が京から呼び寄せられた。幸い大事には至らず、稲公らが帰京する折、駅家で設けられた送別の宴には、すでに十三歳の少年に成長した家持が父の代役を務めて出席した。
冬十月、旅人は先に逝去した多治比池守の後任として大納言を拝命し、不比等の長子武智麻呂と共に太政官の最高位に並ぶこととなった。
天平二年の暮れ、一家は約三年ぶりに佐保の自宅に落ち着いたが、翌年七月には、前年の病の余燼に旅の疲れも重なってか、旅人は六十七歳の生涯を閉じた。資人であった余明軍(よのみょうぐん)は、
かくのみにありけるものを萩の花咲きてありやと問ひし君はも(万葉巻三)
と詠んで主人の死を悼んだ。家持はこのとき十四歳になっていた。