藤原朝臣房前
ふじわらのあそみふささき
- 生没年 681(天武10)〜737(天平9)
- 系譜など 不比等の次男。藤原北家の祖。母は蘇我連子の女。同母兄に武智麻呂、同母弟に宇合、異母弟に麻呂がいる。文武夫人宮子・聖武皇后光明子は異母妹。美努王(みののおおきみ)の娘、牟漏女王(むろのおおきみ)を正室とし、永手・八束(真楯)・千尋(御楯)をもうける。男子には他に鳥養(母は春日倉首老の女)、清河・魚名(母は片野朝臣)・楓麻呂(母は阿波采女)がおり、女子には聖武天皇室・南家豊成室・南家仲麻呂室(袁比良)がいる。万葉には藤原北卿とある。
- 略伝 703(大宝3)年1月、東海道巡察使。705(慶雲2)年、従五位下。709(和銅2)年、東海道・東山道を検察。和銅4年、従五位上。和銅8年、従四位下。717(霊亀3)年10月、兄武智麻呂をさしおいて参議に抜擢される。719(養老3)年、従四位上。720(養老4)年、父の不比等が薨去。養老5年、従三位。同年10月、病床の元明上皇より長屋王と共に召され、後事を託される。同月、元正天皇の内臣に任命される(元正譲位後は自然消滅か)。724(神亀1)年、正三位。神亀5年、新設された中衛府の大将となる。神亀6年、長屋王の変後、兄武智麻呂は大納言に昇進するが、房前は参議に留め置かれる。天平に改元後、中務卿。同年10月、大宰府の大伴旅人より琴と「梧桐日本琴の歌」(05/0810・0811)を贈られ、これに対し答歌を返す(05/0812。旅人略伝の注1参照)。天平4年、東海・東山二道節度使。同年の山上憶良の「貧窮問答歌」(05/0892・0893)は、一説に房前に「謹上」されたものという。734(天平6)年、兄武智麻呂は従二位右大臣にのぼるが、房前は正三位参議の地位に留め置かれる。737(天平9)年4月、薨去(57歳)。時に参議民部卿正三位。10月、正一位左大臣を追贈される。760(天平宝字4)年、さらに太政大臣を追贈される。万葉には上述の旅人への答歌のほか、「藤原卿の歌」(07/1218〜1222・1194〜1195)全7首の作者に有力視される。大伴旅人・山上憶良らとの親交が推し量られる。
関連サイト:観音台(彦根城散策)
系図へ