藤原朝臣永手
ふじわらのあそみながて
- 生没年 714(和銅7)〜771(宝亀2)
- 系譜など 北家房前の次男(長男鳥養は夭折したため、実質的に北家の長子)。母は牟漏女王。同母弟に八束(真楯)・千尋(御楯)がいる。広嗣の乱を鎮定した参議大将軍大野東人の女中千(仲智)を正室とする。藤原北家鳥養の女との間に家依を、式家良継の女との間に曹司(光仁天皇の夫人)・雄依をもうけた。他に南家巨勢麻呂の室となった女子がいる。
- 略伝 737(天平9)年、従五位下。749(天平21)年、従四位下。聖武治世には弟八束の後塵を拝し、やや不遇であったが、同年の孝謙即位以後、急速に昇進を重ねる。750(天平勝宝2)年、従四位上。天平勝宝4年11.3、大倭守。同月25日の新嘗会の肆宴で応詔歌を詠む(19/4277)。天平勝宝6年1.16、従三位(3階昇進)。同年7.19、太皇太后宮子崩御の際、造山司。天平勝宝8年5月、聖武天皇崩御の際、御装束司。5.3、権中納言(参議を経ず)。同年6.21、興福寺での聖武七七忌において光明皇太后が故上皇の遺品・武器・薬などを東大寺等に施入したが、この際の『東大寺献物帳』に仲麻呂と並んで署名、左京大夫兼侍従大倭守とある。同年12.30、梵網経購読の際、使として派遣される。この時中務卿とある。天平勝宝9年4.4、孝謙天皇が群臣に立太子の件を諮問した時、右大臣豊成と共に塩焼王を推すが失敗。大炊王立太子ののち、同年5.20、中納言に昇進。同年7月、奈良麻呂の乱の与党を尋問。760(天平宝字4)年6.7、仁正(光明)皇太后崩御の際、装束司。天平宝字7年、兵部卿。宝字8年9月、恵美押勝の乱に際し正三位に昇叙され、大納言に昇進。765(天平神護1)年1.7、乱鎮圧の功により勲二等。称徳・道鏡の専制下にあっても寵遇は変わらず、天平神護2年1.8、前年末死去した豊成の後を襲い右大臣に就任。同年1.16、称徳天皇は永手邸に行幸し、永手に正二位を授ける。室の大野仲智も従四位下に昇叙。10.20、道鏡の法王就任に際し、左大臣に任ぜられる。769(神護景雲3)年2.3、称徳天皇、再び左大臣宅に行幸し、永手は従一位に叙せられる。息子の家依・雄依、妻大野仲智も位1階を賜わる。同年6.10、天皇が病臥すると左大臣永手に近衛府・外衛府・左右兵衛府を管轄させ、右大臣吉備真備に中衛府・左右衛士府を管轄させる。8.4、称徳天皇崩じ、左大臣永手・右大臣真備・参議宿奈麻呂・縄麻呂・石上宅嗣・近衛大将蔵下麻呂らが協議して、白壁王の立太子を決める。『日本紀略』の藤原百川伝によれば、右大臣真備は文屋浄三を皇太子に推したが、百川(当時は雄田麻呂)と左大臣永手・内大臣良継は浄三に子が13人もいるため後世を配慮してこれに反対。結局浄三には固辞され、次に参議文屋大市(浄三と共に長皇子の子、浄三は当時77歳、大市は67歳)を立てたがこれまた固辞された。そこで百川・永手・良継は謀って偽の遺言の宣命を作り、白壁王を立てた、という。同年10.1、白壁王が即位し(光仁天皇)、永手は正一位に昇叙。771(宝亀2)年2.16、急病にかかり、大中臣清麻呂が左大臣を代行する。同年2.21、光仁天皇、竹原井に至った時、節幡(天皇の所在を示す幡)の竿が折れ、左大臣永手の死の予兆と噂される。この時の『続日本紀』の記事に、時の人が永手を「執政」と呼んだと見え、後の関白にあたるような執政権を有していたかともいう。同年2.22、58歳で薨ず。光仁天皇はその死を哀惜し、挽歌を思わせる長大な宣命を垂れる。太政大臣を追贈される。
関連サイト:藤原永手薨時の宣命について(大伴家持論2)この宣命が中務大輔家持の手になる可能性を探る
藤原永手の歌(やまとうた)
系図へ