藤原朝臣豊成
ふじわらのあそみとよなり
- 生没年 704(大宝4)〜765(天平神護1)
- 系譜など 南家武智麻呂の長子。母は阿倍御主人の外孫で、名は貞媛。同母弟に仲麻呂、異母弟に乙麻呂・巨勢麻呂がいる。子に武良士・継縄・乙縄・縄麻呂・女子(いわゆる中将姫)がいる。妻には藤原百能(京家麻呂の女)・路真人虫麻呂の女(継縄・乙縄の母)・北家房前の女(縄麻呂の母)が知られる。難波大臣・横佩大臣とも号した。
- 略伝 若くして博士の門に学び、才学あって名は衆に聞こえたという。723(養老7)年、内舎人に兵部大丞を兼ねる。724(神亀1)年、21歳で従五位下。732(天平4)年、従五位上。737(天平9)年、正五位上。同年9.28、従四位下。同年12.12、34歳で参議。739(天平11)年、正四位下。翌天平12年2月、難波行幸の際留守官。同年10月の伊勢行幸の際も留守官。翌天平13年9月の宇治・山科行幸の際も留守官。743(天平15)年、従三位中納言。745(天平17)年8月の難波宮行幸の際、留守官。翌天平18年4.5、兼東海道鎮撫使。天平20年3.22、従二位大納言。749(天平感宝1)年4月、東大寺行幸に際し右大臣に任ぜられる。しかし同年大納言仲麻呂が紫微令を兼ね、太政官の権威は弱体化した。754(天平勝宝6)年7.19、太皇太后宮子崩御の時、造山司長官。756(天平勝宝8)5月、聖武天皇崩御の際、山作司。天平勝宝9年4.4、天皇が群臣に立太子の件を諮問し、豊成は中務卿永手と共に塩焼王を推すが失敗。結局大炊王が即位し、弟仲麻呂は紫微内相に就任して兵事を掌握。この時豊成は正二位に昇叙される。同年7.3、奈良麻呂の乱が発覚、豊成は永手と共に小野東人を尋問。同月12日、乱への関与により大宰員外帥に左遷されるが、病と称して筑紫に赴任せず、以後8年間難波の別業に留まる。仲麻呂の乱後、764(天平宝字8)年9.14、右大臣再任。同年9.20、道鏡が大臣禅師に任ぜられた時、従一位に昇叙。翌年、鎌足以来の藤原氏永代の功封(封田二千戸)の返納を上表し、許可される(宝亀元年10月再び藤原氏に賜与)。同年11.27、薨ず。62歳、右大臣従一位。
関連サイト:当麻曼陀羅(当麻の里)豊成の娘、中将姫の制作との伝説がある。
系図へ