藤原朝臣光明子
ふじわらのあそみこうみょうし
- 生没年 701(大宝1)〜760(天平宝字4)
- 系譜など 藤原不比等の第三女。母は県犬養橘宿禰三千代。武智麻呂・房前・宇合・麻呂・文武夫人宮子の異母妹にあたり、夫の首皇子(聖武天皇)は同い歳の甥でもある。また橘諸兄は異父兄にあたる。首皇子との間に阿倍内親王と基親王をもうけた。諱は安宿媛(あすかひめ、またはあすかべひめ)。740(天平12)年頃からは光明子と称し、後世光明皇后の名が広まることになる。万葉には藤原皇后・藤皇后・藤原太后などの名で見える。
- 略伝 716(霊亀2)年、16歳の時首皇子の妃となる。718(養老2)年、阿倍内親王を出産。724(神亀1)年、夫が即位すると、夫人となる。727(神亀4)年、基親王を出産。親王はただちに皇太子に立てられ、光明子は食封1000戸を賜る。が、皇太子は翌年病死。長屋王の変を経て、729(天平1)年8月、臣下として異例の立后を果たした。翌月には皇后宮職が設置され、光明子の執政・社会事業の拠点となる(下の写真は、皇后宮の跡に建てられた法華寺。本尊の十一面観音は皇后をモデルにしたとも言われている)。
翌天平2年、皇后宮職に施薬院を置き、自らの財によって薬草を集め、病者に施した。貧窮者の救済にあたった悲田院もこの頃設置されたものと思われる。737(天平9)年の疫病流行で四人の兄を失う。740(天平12)年5月、玄ム(げんぼう)の持ち帰った五千余巻の経論の書写を発願。また天皇に大仏建立を勧めたのも皇后であったという(続紀崩伝)。平城に還都し、天皇が東大寺造立に専念するようになると、次第に政治上の影響力を増し、749(天平勝宝1)年、娘の阿倍内親王が即位するに及んで皇后宮職を改め紫微中台を設置、甥の大納言藤原仲麻呂に長官を兼ねさせて、ほぼ実権を掌握した。756(天平勝宝8)年、聖武帝が崩ずると、自ら願文を草し、天皇遺愛の品々を東大寺に献じた。これが正倉院の始まりであるが、仲麻呂・皇太后が東大寺献物を口実に、太政官から天皇御璽を奪取した無血クーデタであったと見る説もある(由水常雄『正倉院の謎』)。758(天平宝字2)年、孝謙天皇の譲りを受けて大炊王が即位すると(淳仁天皇)、百官僧綱の上表により天平応真仁正皇太后の尊号を受けた。2年後の760(天平宝字4)年6月7日、病により崩御。聖武と並べて佐保山陵に葬られた。興福寺五重塔や新薬師寺の造営を始め、仏教上の業績は数知れない。『元亨釈書』『延暦僧録』を始め伝記・逸話の類は多く、その美貌・慈悲・聡明・性的放縦などが伝えられている。万葉には3首、08/1658、19/4224・4240。
関連サイト:光明皇后御願経(国立国会図書館)
法華寺十一面観音(早大名所古跡研究会 OB古都巡歴班)
光明皇后の歌(やまとうた)
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