藤原朝臣麻呂
ふじわらのあそみまろ
- 生没年 695(持統9)〜737(天平9)
- 系譜など 不比等の四男。藤原京家の祖。母は鎌足の女で天武夫人だった五百重娘。異母兄に武智麻呂・房前・宇合、異父兄に新田部親王がいる。文武夫人宮子・聖武皇后光明子は異母姉妹。子に綱執・浜成・百能(豊成室)・勝人がいる。『懐風藻』には名を萬里に作る。
- 略伝 717(霊亀3)年、元正天皇の美濃国行幸の時美濃介。養老に改元後の同年11.17、国司としての功績により従五位下に叙せられる。721(養老5)年、一挙に5階昇進して従四位上。同年6.26、左右京大夫。養老末年頃、大伴郎女(坂上郎女)に贈る歌3首(04/0522〜0524)があり、郎女から和歌5首(04/0525〜0529)を返されている。726(神亀3)年、正四位上。同年9月、播磨行幸の際の装束司。神亀6年3.4、従三位。同年「天王貴平知百年」の瑞字ある亀を献上し、天平と改元される。731(天平3)年、参議となる。この時兵部卿。同年11.22、山陰道鎮撫使。天平4年1.1、白雀を献る。737(天平9)年1.21、持節大使として陸奥に派遣され、多賀柵より雄勝村へ至る道を開く。同年7.13、薨ず。持節大将軍として陸奥で死去か。時に参議兵部卿従三位、43歳。万葉には上記3首のみ。『懐風藻』に詩5首を残す。『尊卑分脉』の「麿卿伝」に、弁舌に恵まれ多能、不世出の才を有したにも関わらず琴酒に沈湎した、その死にあたり朋友は血の涙を流して悲しんだ、とある。また『懐風藻』所収の詩の序文には「僕は聖代の狂生ぞ。直に風月を以て情と為し、魚鳥を翫と為す」と、自らを風狂の文人に見なしている。
関連サイト:藤原麻呂の歌(やまとうた)
系図へ