藤原朝臣武智麻呂
ふじわらのあそみむちまろ
生没年
680(天武9)〜737(天平9)
系譜など
不比等
の長男。藤原南家の祖。母は蘇我連子の女。同母弟に
房前
・
宇合
、異母弟に
麻呂
がいる。文武夫人
宮子
・聖武皇后
光明子
は異母妹。阿倍御主人の孫貞媛を娶り、
豊成
・
仲麻呂
をもうける。子には他に、聖武天皇室・房前室などがいる。
栄山寺八角円堂(国宝) 奈良県五條市
同寺は養老3年武智麻呂の開創と伝わる
円堂は天平宝字年間、子の仲麻呂が建立
略伝
680(天武9)年、大原第で生まれる。幼くして母を失い、病弱であったが、少年の時、
穂積皇子
に才を認められたという。701(大宝1)年、内舎人に任官。翌年、中判事。大宝3年、病により中判事を辞任。翌大宝4年、大学助。藤原京遷都など大事業が続いたため大学は廃れていたが、武智麻呂は長官良虞王(百済王良虞)と共に陳情して碩学を集め再興させたという。705(慶雲2)年、従五位下。翌慶雲3年、大学頭。708(和銅1)年、図書頭兼侍従。711(和銅4)年、従五位上。和銅5年、近江守。和銅6年、従四位下。和銅8年、従四位上。718(養老2)年、式部卿。翌年正月、正四位下。養老3年、春宮傳となり、首皇太子に文学を勧め、淳風を以て匡す。「太子爰に田猟の遊びを廃め、終に文教の善きに赴く」(藤氏家伝)。721(養老5)年、長屋王が右大臣になった時、従三位中納言。同年、兼造宮卿。724(神亀1)年、首皇子が即位する(聖武天皇)と、弟の房前とともに正三位。728(神亀5)年晩秋、武智麻呂の習宜別業で度々詩文の会が開かれる。「時の学者競って座に預からんと欲」す(藤氏家伝)。翌年の長屋王の変では
舎人親王
らと共に長屋王邸に派遣され、王を訊問。長屋王自害ののち、大納言に昇進。これによって政界の中枢はほぼ武智麻呂によって掌握されたと考えられる。731(天平3)年、死去した
大伴旅人
に代わり大宰帥を兼ねる。天平6年、従二位右大臣。この頃娘を聖武天皇に入内させるが、737(天平9)年、折から大流行していた天然痘に罹ったものか、7月25日、臨終の床において正一位左大臣を授けられ、薨去(58歳)。『藤氏家伝』には24日、皇后が親しく臨み、勅を称し患を問う。正一位に叙し徒に左大臣と為す、とある。760(天平宝字4)年、さらに太政大臣を追贈される。奈良県五条市小島町に墓がある。万葉には痕跡を留めていない。
関連サイト:
榮山寺
(奈良県五條市)
系図へ