長屋王
ながやのおおきみ
- 生没年 676(天武5)または684(天武13)?〜729(神亀6)
- 系譜など 高市皇子の第1子。 母は『公卿補任』に「近江天皇女」、『尊卑文脈』に御名部皇女(天智の皇女で、元明天皇の同母姉妹)とある。吉備内親王(草壁皇子と元明天皇の子)を正室とし、膳夫王(かしわでのおおきみ)・葛木王(かつらぎのおおきみ)・鉤取王(かぎとりのおおきみ)・桑田王らをもうけ、藤原長娥子との間に安宿王(あすかべのおおきみ)・黄文王(きふみのおおきみ)・山背王(やましろのおおきみ)・教勝を、智努女王との間に円方女王(まとかたのおおきみ)を、安倍大刀自との間に賀茂女王をもうけた。異母弟に鈴鹿王、異母姉妹に河内女王・山形女王がいる。なお長屋王家(北宮)木簡や『日本霊異記』には長屋親王とあり、問題視されている。
- 略伝 『公卿補任』には没年46とあり684(天武13)年の出生となるが、『懐風藻』記載の没年54を採る説もある。
704(大宝4)年1.7、正四位上に初叙される。蔭位制によれば初叙は従四位下となるので特別の優遇措置であった。皇太子であったらしい高市皇子の子であったこと、また妻吉備内親王が文武天皇の姪にして元明天皇の皇女であったことと関係があると思われる。
709(和銅2)年11月、宮内卿。
和銅3年4.23、式部卿。
和銅7年1.3、封を100戸加増される。
和銅8年2.25、吉備内親王の男女を皇孫(二世王)の扱いとする。
716(霊亀2)年1.5、正三位。
718(養老2)年3.10、阿倍宿奈麻呂と共に大納言に任ぜられる。
養老3年7月、佐保宅に新羅使を招き詩宴(『懐風藻』)。「宝宅にして新羅の客を宴す」を作る(養老7年説・神亀3年説などもある)。
養老4年8月、右大臣藤原朝臣不比等が薨じ、10月、詔により大伴旅人と共に派遣されて故不比等に正一位太政大臣を追贈する。
養老5年1.5、従二位に昇叙され、右大臣に就任する。同年10.13、元明上皇は長屋王と藤原房前を召して後事を託す。 同年12月、元明上皇が崩御。これにより首皇太子の即位が日程に上るが、これを機に即位推進派の藤原武智麻呂と慎重派の長屋王の間で対立が高まったかという(森田悌)。
養老6年5.20、稲十万束(一万石。異例の高額)、籾400石を賜わる。おそらく故上皇の遺詔によるか。王の室吉備内親王が故上皇の長女(天皇の同母姉)であったことも関与するかという。同年7.10、太政官より僧尼に対する統制令が奏上される。僧綱が自由に各地を巡るのは不都合なため薬師寺に常住させるべきことなどを定める。長屋王は熱心な仏教信者であったが、これらの政策には当時の僧綱に対する批判が見え、『日本霊異記』にある王が僧の頭を撲ったという挿話(下記参照)と併せて注目される。
養老7年1月頃、佐保楼が完成する(長屋清臣)。おそらく別邸か。ここで王主催の詩宴がたびたび開かれるようになる。
724(神亀1)年2.4、首皇子が即位する(聖武天皇)と、正二位左大臣に昇る。2.6、勅により、正一位藤原夫人(宮子)を大夫人と称する詔が発せられるが、これに対し長屋王らは称号が令に違反することを指摘し、天皇は先勅を撤回する。同年7.7、山上憶良が長屋王宅で七夕の歌を詠む(08/1519)。
神亀2年頃、長屋王による宴会盛ん。『懐風藻』所載の詩などが作られる。
神亀4年2.21、天皇は内安殿(内裏内殿舎の一つか)の前庭に百寮の主典以上を召して長屋王に勅を宣せしむ。凶兆・災異頻発の原因は天皇の不徳か官人の怠惰かと問い、長官は官人の勤務態度の良否を明らかにして奏問せよと命ずる。
神亀5年5.15、大般若経600巻を書写せしめる(神亀経)。願文に「仏弟子長王」と名乗り、二尊(父母)の追善と聖武天皇の長寿、全生物の救済を祈願する(同年9.23完成)。(注)
同年8月、中衛府が新設され、房前が大将に就く。授刀寮を改編強化し、大伴・佐伯氏と関係の深い五衛府を制圧して兵権を藤原氏の手に掌握、長屋王らを圧倒することを意図したものとされる。
同年9月、基皇太子が薨去。
神亀6年2.8、天皇が元興寺で大法会を開いたとき、長屋親王、僧の頭を打つ(『日本霊異記』)。同年2.10、左京の人漆部造君足・中臣宮処連東人等が長屋王の謀反を密告。「私(ひそ)かに左道を学びて国家(みかど)を傾けんと欲」す。この夜、式部卿藤原宇合ら、六衛の兵(五衛府と中衛府の兵)を率いて長屋王邸を囲む(長屋王の変)。『続日本紀』天平10年7月の記事に、この密告が「誣告」であったと明記している。即ち遅くとも続紀編纂時(前半部分は天平宝字年間か)には長屋王の無罪が証明されていたことになる。おそらく基皇太子を呪殺した罪を被せたものと思われる。皇太子の薨去と安積皇子誕生により、藤原氏にとって光明子の立后が不可欠となり、これに反対した(または反対することが予想された)長屋王を抹殺する必要に迫られたものであろう。
2.11、知太政官事舎人親王・大将軍新田部親王・大納言多治比池守・中納言藤原武智麻呂らが派遣され、長屋王を訊問。翌日王は自尽に追い込まれる(46歳または54歳)。妻吉備内親王、内親王所生の男子膳夫王ら四王も自縊。獄令によれば謀反者は斬刑であるが、高い地位により特に自邸での自尽が許されたか。なお『日本霊異記』によれば王は自ら子孫に毒を飲ませた上絞殺し、その後服毒自殺したという。
2.13、長屋王・吉備内親王の屍を生駒山に葬る。吉備内親王は無実と明記。長屋王についても「その葬を醜(いや)しくすることなかれ」。
2.15、聖武天皇、詔で残忍凶悪な長屋王の性格とその乱行を指摘。
2.17、上毛野宿奈麻呂ら7人、長屋王との親交により配流される。2.18、鈴鹿王に勅を下し、長屋王の兄弟姉妹子孫妾らの縁座者は全て赦す。
万葉には5首、694(持統8)年の藤原京遷都後の「長屋王故郷歌」(03/0268)、702(大宝2)年7月の吉野離宮行幸の時かと思われる「大行天皇、吉野行幸の時」の歌(01/0075)、和銅以後の「長屋王、馬を寧樂山に駐(た)てて作る歌」(03/0300・301)、および三輪山の歌(08/1517)。なお万葉巻1・2の原型は、白鳳期の皇親政治を理想とする長屋王が企画し、王のサロンに集った文人(佐為王・紀清人ら)が編集したとする説がある(高野正美)。
(注)この願文を高市皇子・長屋王を天上の支配者とし膳夫王の即位を意図する内容と解釈し、これがのち長屋王が「左道」を行った根拠にされたとする説がある(新川登亀男「奈良時代の仏教と道教」―速水侑編『論集日本仏教史』奈良時代編―など)。
関連サイト:長屋王の歌(やまとうた)
長屋王の墓(奈良県生駒郡平群町)
長屋王願経(根津美術館・石川県の文化財)
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