藤原朝臣宇合
ふじわらのあそみうまかい
- 生没年 694(持統8)?〜737(天平9)
『懐風藻』『尊卑分脉』『公卿補任』ともに薨年四十四とし、これによれば694(持統8)年生まれとなるが、『藤氏家伝』に同母兄武智麻呂(680年生まれ)が「幼にして其の母を喪ふ」とあることや、万葉巻一に706(慶雲3)年の行幸に従駕した際の歌を残していることから、やや疑わしい。薨年を五十四の誤りと見る説もある。
- 系譜など 不比等の三男。藤原式家の祖。母は蘇我連子の女娼子(尊卑分脉)。初め名を馬養に作ったが、渡唐後宇合に改める。同母兄に武智麻呂・房前、異母弟に麻呂がいる。文武夫人宮子・聖武皇后光明子は異母姉妹。子に広嗣・宿奈麻呂・綱手・百川・蔵下麻呂らがいる。
- 略伝 706(慶雲3)年9月から10月にかけての文武天皇難波行幸に従駕し、歌を詠む(01/0071)。『懐風藻』等記載の年齢によればこの年13歳。716(霊亀2)年、第8次遣唐使の副使に任命され(この時正六位下)、翌年出航。718(養老2)年12月、帰国入京。翌養老3年、正五位上。同年、常陸国守に任官。この時高橋虫麻呂を部下として『常陸国風土記』編述に関与したとの説がある。同年、安房・上総・下総の按察使を兼ねる。721(養老5)年、長屋王の右大臣就任と同時に一挙に4階昇進して正四位上。同年、兄武智麻呂に代わり式部卿に就任。この頃、遷任上京の折、常陸娘子より歌を贈られる(04/0521)。724(神亀1)年4月、持節大将軍となり陸奥へ赴く。11月、来帰。翌年、蝦夷征討の功により従三位勲二等。神亀3年、文人120人が勅により玉棗の詩賦を求められた際、漢詩「棗賦」を奏上(『経国集』所載)。同年10月、知造難波宮事。この頃、「宇合卿被使改造難波堵之時作歌」(03/0312)を作る。神亀6年、六衛の兵を率いて長屋王邸を囲む。731(天平3)年、多治比県守・藤原麻呂・葛城王(橘諸兄)らと共に参議となる。同年11月、畿内副惣官。天平4年8月、西海道節度使。この頃、「宇合卿遣西海道節度使之時、高橋虫麻呂作歌」(06/0971・0972)や宇合作の漢詩「奉西海道節度使之作」(『懐風藻』)がなされた。天平6年、兄武智麻呂の右大臣就任の時、正三位に昇る。737(天平9)年8月、薨去(おそらく疫病死)。時に参議式部卿兼大宰帥正三位。「翰墨の宗たり。集(漢詩集)二巻あり」(公卿補任)。万葉には6首、上記の外08/1535・09/1729〜1731がある。
関連サイト:藤原宇合の歌(やまとうた)
系図へ