2005年3月27日に東京工業大学環境理工学創造研究室博士課程の学生より、下記ヒアリングを受けた。以下はグリーンウッド氏がヒアリングに先立ち用意した回答である。 実際のヒアリングは広町のサクラが開花した30日に広町の二重橋にて行われた。ここに記さなかった背景説明も含め、3時間かかった。ヒアリング中、I期の記憶は殆どトラウマのようだとの学生のコメントがあった。なるほど、そうかもしれない。だから、無生物相手の世界を職業に選んだのかもしれないと思う。

 

広町緑地を活動場所とされている皆様へ

 

市民と身近な自然とのかかわりに関する
聞き取り調査のお願い

 

東京工業大学環境理工学創造研究室

 

 

私ども環境理工学創造研究室では、環境保全のための計画づくりと市民参加に関する研究を行っています。その中で、都市近郊に住まわれる方々による身近な自然とのかかわり方から、地域の自然や景観を生かすまちづくりのあり方について、鎌倉市広町緑地の保全事例から提言を行おうとしています。この研究の一環として、市民の方々によるこれまでの身近な自然とのかかわりについてお話をうかがう聞き取り調査を実施することにいたしました。

お忙しいところ誠に恐縮ですが、研究の趣旨をご理解いただき、調査にご協力くだされば幸いです。

 

 


質問内容と回答

生まれてから現在までに経験された身近な自然とのかかわりについてお聞かせください。

時期をT,Uの二期に分けてお聞きします 

T 広町緑地の保全運動や広町緑地での活動に参加される以前 − 特に子どもの頃の自然や生き物とのかかわりについてうかがいます

@ その時々に行った、自然や生き物と触れ合った場所(複数でも構いません)での活動(仕事の手伝い、遊びなど)について

小学校から高校時代までは信州善光寺平の中心部の田園地帯で育ちました。 戦国時代から同じ場所に住み着いている父祖の地ですので広い屋敷内に自然が一杯でした。屋敷内から善光寺平を囲む山並みが見渡せます。母屋と納屋に囲まれた空間にはモミを干すための広い庭と家族の食卓用の菜園がありました。ここでよく熟れた陽の香りのするトマト、キウリ、ナスをもぎ、そのまま、あるいはナスは膝にぶつけて柔らかくしてからかぶりついたものです。祖母はカイコを飼い、ニワトリとネコが庭を自由に闊歩し、たまに近所の子豚が迷い込みます。スズメが庭で干しているモミをねらい、飼っているヤギやウサギには餌をやらねばならないといった環境です。近くのケヤキの大木に巣食うキジバトのドテッポッポーという泣き声は川のせせらぎの音とミンミンゼミの声とともに、いまでも耳に焼き付いております。田植えのシーズンになると鬼無里村から代掻き用の馬がばくろうとともに山を下り、我が家の馬小屋にやってきました。

屋敷から外に出ると春には麦畑からヒバリが飛び立ち、灌漑用水路にはドジョウやフナが沢山泳いでいました。川底のどろの中にはヤゴやその他名も知らない虫が沢山いました。大きなざるでドジョウすくいをし、釣り針を手にいれてフナ釣りをしました。水田のタニシと稲を食べてしまう害虫のイナゴは捕まえて佃煮にし、戦後のタンパク質不足を補っておりました。

 


A その場所で起きた、印象に残っている出来事について

自然はきれいで、生き物はかわいいという一般の認識は一面的で、じつは不衛生で、危険で、残酷な存在であるとともに我々の親類でもある。そして我々の利害のためには彼らを犠牲にしなければならないこともあるということを体験から学びました。たとえば

●庭のサボテンに触ると細かい刺が指にささりひりひりすてなかなか抜けません。植物だって簡単に食われたくないのです。

●田舎ではオジョログモは有害昆虫を捕食してくれるというので大切にしていました。巣を編むのを一日中見ていたこともあります。そういうわけかクモには親しみを感じます。 子供の頃、祖母がカイコを飼いっていました。カイコを手にとるとひんやり冷たく、体をキュッと硬くする感触になれていましたので芋虫や、ミミズ、トカゲはかわゆく感じました。むろん毒のある毛虫は痛いおもいをしてからはさわりません。ただ節足動物は陸生、水生を含め、その形を恐ろしく感じました。セミやトンボはなんとか我慢できますが、ムカデの類、ゴキブリは見ただけで逃げたくなります。昆虫集めに夢中になる男の子は多いのですが 、私は駄目です。エビですら苦手です。 チョウは遠くからみれば美しいのですが捕まえてよく見ていると気味悪くなります。それに手に燐粉がつくので好きではありません。ましてピンで標本に固定するなぞゾッとします。なぜこうなったかですが、ヤスデが原体験にあるからではないかと思っています。梅雨時には築後150年の茅葺の 母屋の居間や寝室のタタミの上に何百匹というヤスデが這い出してきます。いくら掃除してもきりがありません。この昆虫はムカデを小さくしたような多足類の昆虫でとてもいやなにおいがします。ある夜、寝ているとこのにおいが漂ってきます。私の顔に這い上がってきて鼻の穴の近くにきたのです。ギャッといって飛び起き、部屋を掃除しましたが、絶望感に襲われたものです。

●ニワトリ小屋に新参者のニワトリを入れると古参がいじめるという行動を取ります。そこで互いに慣れるまで隔離しなければなりません。どこか人間社会も似ているなと思ったものです。特に旧軍の兵隊にこの傾向が強かったようですね。

●年取ったニワトリは卵を産まず、餌ばかり食べますので、いつか”つぶす”必要があります。すなわち抱きかかえて頭をなでながら首の動脈を切って出血死させ、熱湯につけて羽 毛をもぎ、水炊きにして食べてしまうのです。わが父は首の動脈を切って出血死させる高等テクニックをもっておりませんで、いきなりナタでギロチンしました。その瞬間、頭のない体が羽をバタつかせて庭を一周して絶命しました。これを目撃してからは私はナベに手をつけることはできませんでした。

●ウサギもペットではなく肉用でした。自分が育てたウサギは食べることはできませんでした。

●戦後まだ貧しいころはスズメを罠でとってヤキトリ屋に売ることを商売にしている人がいました。モミをついばむ害鳥のスズメを捕まえてもらえるという思いでこの様な人に庭を解放するのです。この人がカラスをペットとして連れて歩いていました。小学生だった私はカワイイと思ってカラスの頭を撫でようと手を出したのですが、嘴でしたたか噛まれ、痛い思いをしました。カラスはワルがきにいじめられると思ったのかもしれません 。互いに誤解が生じ得るということをこの時学びました。

●プロのスズメ採りはカスミ網のようなものを隠しておいてこれを突然広げて一網打尽にするのです。そのような道具がなくてもスズメを捕まえることができるのではと大きなザルとつっかい棒で仕掛けを作って試してみましたがスズメの方が上手でした。

●ヤギからミルクをもらいためには子ヤギを生んでもらわねばなりません。母が種付けのため、飼っていたメスヤギを引きつれ、隣村まででかけたのにお供したこともあります。イヌやネコは見慣れていましたが、人間も同じだと気がつくのは中学生になってからです。

●子ヤギが生まれた時、かわいいとおもって鼻先に手をやると子ヤギは私の指を乳首と思って吸ってきます。しかしいくら吸ってもオッパイが出ないとわかると腹いせなのでしょうか、生えかかった歯でザックリ指を噛まれ、血が流れたことがあります。裏切られたという思いが頭をかすめますが、悪いのはこちらです。

●ヤギのえさの草刈りは私の担当でした。ある日サボってなにもないとき、母が生豆を与えたところ、翌朝お腹を大きく膨らせて死んでいました。罪の意識にさいなまれました。

●ネコはペットとして飼っていたのですが、当然害獣のネズミを捕まえてくれることも期待していました。しかし次第に殺鼠剤が普及してきました。我が家ではネコを守るため、殺鼠剤は使わなかったのですが、隣の家では使います。すると我が家のネコは殺鼠剤を食べて死にそうになってフラフラしているネズミを捕まえてきます。ネコは習性として捕まえたネズミを飼い主に見せます。その都度、煮干と交換で取り上げておりました。しかしネコも次第に学び、飼い主に隠れて食べるようになります。結局彼女は苦しみもがいた末、死ぬ憂き目にあうのです。 数世代、同じことをくりかえしましたが、いつもつらい思いをしました。もう生き物は飼ってはいません。でもネコ語は今でも理解できます。道でノラちゃんにあってもお互いに挨拶をかわすことができます。

●ある日ネコのお尻からサナダムシが30センチ位のぞいているのを発見しました。これを引きずり出したら長さ10メートルにはなろうかと思われるほど大型の虫でドギモを抜かれたこともあります。 よくもこんなに小さなネコの体の中に入っていたものだと感心しました。いまでは回虫は居なくなったかわりに、アレルギー患者が増えているということです。我々哺乳類がサナダムシ など回虫と共存するために獲得した免疫メカニズムが回虫を駆除したおかげで敵を見失い自己を攻撃するということのようで自然の何が良いか悪いかいちがいにいえないとつくずく思います。

●子豚を捕まえようと大捕り物を楽しんだこともありますが、捕まえた子豚のおしりがなま温かく、プリッとした感触で、人間と同じなんだという感動を覚えたことは忘れられません。

●晩秋の稲の収穫期にはネズミの巣をみつけました。まだ目の開かない丸はだかの子ネズミを手るとやはり生暖かいのです。これも親類と思ったものです。しかし親なしではそだちません。いずれにせよ害獣なので、かわいそうですがネコにあげてしまいました。

以上の逸話のように 自分の幼少期に持ちえた動物とのかかわりから学んだことはその後、地球上の他の生物と共存して行くためにも、人間社会での取るべき行動はいかにあるべきかということを考える上でも大変役にたったとおもいます。

15年頃前まで七里ガ浜に柴崎牧場というのがありました。ちょうど米国との経済摩擦でジャパンバッシングを受けていたころです。そこの牧場主と親しくなって子供達を馬にのせてもらったことがあります。鞍を馬の背に乗せようとしたとき、その馬が飼い主に噛み付いて抵抗しました。飼い主は毅然として馬をしかると馬は静かになりました。牧場主は

「どちらが主人かはっきりさせないとこうなるのです」

といいました。

「この馬は競馬でつかえなくなった後、大学の乗馬部にいたため、馬の扱いを知らない学生を相手にし、人間をなめるようになってしまったのです」

とおっしゃっていました。生き物は愛情で接すれば、応えてくれるものと思い込んでいた都会育ちの我が妻は天地がひっくり返るほどビックリしておりました。わたしは子供の頃の生き物の思わぬ逆襲を思い出して、さもありなんと思ったものです。

柴崎牧場のオーナーは

「日本人が欧米人に政治的に負けるのは国民の大多数が稲作ばかりしていて、感情を持っている牛、馬、羊などを飼った経験を持つ人が殆どいないためだと思いますよ」

と大変、含蓄の深いことをおっしゃっておりました。この方は牧場経営を継続する意志をもっておられたので、相続税支払いのため、七里ガ浜の牧場を売って那須高原み引っ越してゆかれました。

司馬遼太郎氏も街道をゆくシリーズ33、「嵯峨散歩 仙台・石巻」でモンゴル帝国もヨーロッパもオス馬は去勢せずして軍馬にも農耕馬にも使用しなかった。ところが日本では明治中ごろまではオス馬を去勢することすら知らなかった。ヨーロッパから来た士官が 「馬というより猛獣だ」といったといわれている。このような意味で日本が騎馬民族国家だったと主張する学者、江上波夫の仮説は無知のなせるわざだろう。

私は子供の頃、イヌと育った経験がありませんでした。娘がイヌを飼いたいとせがむのでシェトランドシープドッグを飼いましたが、大失敗でした。イヌは習性としてリーダーに従います。当然、彼は私を彼の仲間のリーダーだと認めてはくれます。しかし彼が子犬時代にどんな嫌なことにも私が駄目といったら従わせる訓練をしなかったのです。怪我の治療のとき、「あなたはイヌの飼い方を知らない」と獣医にしかられました。 躾にはもう手遅れで処置なしといわれたのです。私のような失敗は日本のイヌのかなりの飼い主が身にしみていることではないでしょうか。やたらほえるイヌは飼い主がなにもしなかった結果でしょう。欧米のマナーの良いイヌと比較すれば歴然です。

 


B その場所に入るようになったきっかけについて

B−1 初めて入ったきっかけについて

小学校入学までは、長野県内の各地の市街地にある借家住まいだったので、借家の坪庭とか教会の庭しか自然にふれる機会はなく、記憶には殆どなにも残っておりません。小学校入学と同時に終戦となり、 父の判断で善光寺平の中心にある父祖伝来の土地に移住しました。信州に山は沢山ありますし、毎日見ていたのですが、善光寺平の中心に住んでいましたので自家用車もなかった時代に山や森は遠い存在でした。チャンスは小、中、高の遠足と一家の年中行事になっていた妙高高原のワラビ狩り位です。このワラビ狩は確かに山の楽しさ、すばらしさの記憶の原点となりました。ワラビで一杯になったザックを背負っての帰路、超満員の信越線の車両のなかで大きな大人に押しつぶされ呼吸困難になって悲鳴をあげ、まわりの大人達に呼吸できる隙間を作ってもらったこともなつかしくおもいだします。

中学時代単板のスキーを履いて冬の飯綱山に出かけ、無謀な直滑行をして転び、スキーの先のベンド部を折ったことがあります。バスは来てくれませんから、先の無いスキーで長い七曲を苦労して下りました。しかも夕刻頃ついに紫外線で目をやられてしまい、盲目状態で帰ったことがあります。自然の恐ろしさを身にしみたものです。

父祖伝来の地に居たのは義務教育期間だけで大学時代は杜の都、仙台で過ごしました。大学時代はご多分にもれず友人と登山とスキーを楽しみました。その後は就職して以後ズット東京→横浜→鎌倉と転々として現在に至っています。

B−2 頻繁に入るようになったきっかけについて

社会人になりたての若いころは、スキーに熱中しましたが、登山は北アルプスを縦走したくらいでほとんどしませんでした。理由は高所恐怖症のためと、仕事に熱中して山に割ける時間が無かったためです。

高校時代にクラス全員で戸隠山に登山した折、”蟻の戸渡り”というナイフエッジのように両側が絶壁になっている難所は私は怖くて這って渡りました。ところが同級のカワイイ女子生徒は立ったまま平気で渡るではありませんか。これで自分の高所恐怖症は生まれつきのものだと悟りました。この悟りも山から遠ざかった理由かもしれません。

本格的に山に頻繁に入るようになったのは窓際族になってからです。山好きの中学時代の同級生3人に誘われて月1回定期的に登山を始めました。 高所恐怖症も慣れで何とか克服できつつあります。それからもう5年目経ちました。登った山も50を越えました。

 


C 自然や生き物に関する知識や考え方を学んだ人物(複数名でも構いません)について

小学校に入ってからはサイエンス好きで宇宙の神秘に魅せられ、天文学者になろうかと思ったこともあります。中学時代はお小遣いで誠文堂発行の「子供の科学」を定期購読しておりました。この雑誌は戦時中、川西航空機(後の新明和)で「紫電改」や「二式大艇」の設計主任をした菊原静雄氏が同僚と月5万部発行していたものだと最近知りましたが、大変啓蒙的でよい雑誌でした。私が技術者になるよう方向づけした雑誌でした。ただ編集者の興味を反映してかあまり生物に関するトピックスはなく、私は物理・化学にのめりこんでゆくことになります。

生き物に関しては小学校時代、シートンの「動物記」を愛読しました。美しい挿絵の世界に遊んだものです。物理・化学にのめりこんだ結果、工学部に入りましたが、教養部で生物を学んで、生物学に知的興味をおおいに掻き立てられました。というわけで職業として選んだエンジニアリングという本業の片手間に生物には興味を持ち続け、知的好奇心で生物関係の本は読みつづけました。

読んだ数十冊の生物学・進化論・遺伝子・分子生物学などの本のなかで強いインパクトを受けた本は

●コンラート・ローレンツの「ソロモンの指輪」

●リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」

●スティーブン・ジェイ・グールドの「ワンダフル・ライフ バージェス頁岩と生物進化の物語」

●ジェラード・ダイヤモンドの「人間はどこまでチンパンジーか」

●ブライアン・サイクスの「イヴの七人の娘たち」「アダムの呪い」

●ジェームス・D・ワトソン、アンドリュー・ベリューの「DNA」

などです。結局このような性向を見抜かれて奉職先では人生の後半にバイオケミカルプラントのプロジェクトを担当させられました。遺伝子組み換え動物細胞培養による医薬品製造プラントをいくつか手がけ、分子生物学を猛烈に勉強しました。

人類と環境問題に目覚めたのは1972年にローマクラブによる「成長の限界」が発表されてからでした。1987年国連のブルントラント委員会の報告書で"持続可能な開発"という概念が 出され、1992年にブラジルで環境サミット開催がされたころから会社の環境担当役員をつとめさせられてますます勉強することになりました。自分でも炭酸ガス排出、経済発展、人口増加の相関関係を記述するダイナミックモデルを作成して計算結果をたまたま編集長を務めていた化学工学会の会員誌に職権で発表しました。環境調査会社の経営者としてキャリアを終えることができたのは幸いでした。

私は日本への天然ガス導入のパイオニアでして、奉職するエンジニアリング企業の先輩達が手がけていた石油はいわば商売がたきだったのです。1992年にナキシェノビッチがロジスティック・モデルをつかって石油は天然ガスにとって変わられ、次いで原子力、太陽光発電、核融合に道を譲るという一次エネルギー交替図を発表しました。これをみて私は先輩が手がけた石油時代が終わり、自分の時代がくると単純に喜んでいたのです。それでもサイエンティフィック・アメリカン誌1998年3月号掲載のキャンベルとロレールがとても旨く説明した石油生産量は2005年頃ピークをむかえ、これからどんなに資金を投入してもヒューバート曲線をたどるという論文には強いインパクトを受けました。いよいよその時が来ようとしているのです。ヒューバート曲線とロジスティック・モデルは本質 的にはおなじものです。最近の原油価格高騰は中国の消費増大説が聞こえてきますが、私はキャンベル説が当たっているためではないかとひそかに思っております。キャンベル説が当たっていれば、自由経済の下では石油価格が高騰し、太陽光発電やバイオマス発電が経済的に競合できるようになります。また無駄な消費を抑制してくれますので中国がどんなに高度成長をとげようと石炭利用さえ抑制する 炭素税などの方策をとれば地球温暖化はコントロール可能となります。

さて仕事の都合で何度もほうぼうの国に旅行し、砂漠から極地帯、東南アジア、アフリカ、英米の先進国などを訪問し、欧米先進国の自然と都市の調和感ある美しくて快適な都市造りに感銘をうけました。我が国もそうあるべきだと強い思いをいだき続けておりました。

仲間と登山をするようになって、戦後の拡大造林の国策にそって植林された針葉樹林は外国の用材とのコスト競争に負け、間伐もされずに放置されているのを見て心を痛めておりました。そのようなとき、西口親雄氏の「ブナの森を楽しむ」という岩波本に出会いました。氏は戦後、広葉樹を伐採してスギ植林したことに疑問をもち、放置林業を提案している稀有な林業学者です。日本の林業は通直な材を得るために不可欠といって針葉樹を密植、下刈り(5-6年継続して広葉樹の芽を切り取る)、除伐(10年目)、間伐(40年間継続)、林道つくりと維持、兎に角金がかか ります。そして集中豪雨があると山崩れが生じるのはえてして篤林家の山林とのことです。スボラ林家の放置林は崩壊しないというのです。

この本を読んでカーボンニュートラルな広葉樹発電という着想を得ました。日本の山林の特徴である高斜度で安全に使える林業機械を開発し、広葉樹の放置林を植林なしで利用すれば、京都プロトコルに貢献するカーボンニュートラルな発電がキロワット 時14円台で可能という試算をしました。それどころか製紙用のパルプチップさえ、輸入物と価格競争できるという結果がでました。日本の林業を束縛してきた固定的な考え方が間違っていたのです。 これは土地制度にも原因がありますが、農水省も林業従事者も従来の固定観念から脱皮できずウロウロしているのをみると、私にはとても滑稽にみえます。

以上、欧米のような美しい都市と近郊の森を作りたいという思いと日本の林業を正し、カーボンニュートラルな広葉樹発電の研究をするに恰好だと考え、広町緑地でのモニタリング活動に参加したというわけです。



U 広町緑地の保全運動や広町緑地での活動に参加されて以後 − 広町緑地とのかかわりについてうかがいます

@ その時々に行った、広町緑地での活動(散策なども含みます)について

1982年ころ七里ガ浜に引っ越してからもしばらくは広町緑地の保全運動はしりませんでしたが、子供達をつれて自然とこの森に入り、散策をたのしんでおりました。特に室ヶ谷に残る水田とカヤ葺きの農家のたたずまいは桃源郷のように感じたものです。

自然観察グループに 参加した動機のひとつが広葉樹発電の研究ですのでまず初年度は枯木・倒木調査をしました。広町緑地のように戦後長期間放置されていた里山はある意味で極相林に近づいていて枯木・倒木をバクテリアが分解する速度と光合成で樹木が生長する速度は均衡しているはずです。

初年度(2003年)の枯木・倒木調査の結果、そこに現在存在する枯木・倒木の総量は立枯・倒木量は9.7m3/haとわかりました。しかし腐朽速度はかなり測定が困難です。そこで2年目(2004年)からは光合成速度の測定に切り替えました。樹木を仮想的にフラクタル樹と見なせば、胸高胸囲を計測するだけで、樹木の材積が計測できます。毎年正月に測定した胸高胸囲から計算した材積の差から成長速度が計算できます。3年目の測定で調査地区の樹木の年間成長率は11.83/ha/year、生木の水分含有率を50wt.とすれば5.9green ton/ha/year、炭素固定量にして1.3ton/ha/yearとなるとわかりました。これだけあればカーボンニュートラル広葉樹発電は持続可能です。未来永劫、森林を失うことなく継続できるということです。 私が、これを紹介したのは広町の観察でこのようなことがわかりましたという報告です。

私の広葉樹発電に関する興味を知った友人が山梨県のとあるNPOがやろうとしている木炭車の再発掘計画に 私を引っ張り込みました。ゆきがかりに木炭よりマキの方が有利と証明しました。ついでにとガス化をバイパスしてマキを直接燃すマキ・ガスタービン発電が可能か紙の上で思考実験しております。



A 広町緑地で起きた、印象に残っている出来事について

倒木調査中広町緑地で会った地元の人から現在、コナラの林になっている尾根の末端はかって屋根材にするカヤを刈る場所であったと教わりました。家に帰って1959,1964,1969年と5年毎に広町緑地を撮影した航空写真をみると、この カヤ場は1964年ころまではツルツル坊主に見えます。40年間でカヤしかなかったところが胸高直径30cm、樹高15m以上あるコナラの落葉樹の二次林になっているのです。これで自然再生能力のある放置広葉樹林の有効利用が40-80年サイクルで可能であることがわかります。生物の多様性を確保するためには80年サイクルが望ましいかもしれないと思っております。

2004年に鎌倉を襲った台風は中小河川の氾濫を起こし、広町緑地の谷た急な斜面の土砂崩れを起こしましたが、自然の回復力はしたたかなものです。2005年の夏を過ぎれば傷跡はわからくなるのではと思っています。

鎌倉市が広町緑地を開発業者から買い取って都市公園化する素案を発表したときに個人として意見書を提出させてもらいました。これは案外簡単に聞き入れてもらえてアズマヤ建設案が消えました。いつも無用なミニ箱物と思っていたので多少市の財政に貢献できたかなと自画自賛しております。

広町緑地は保全がきまったことで、よいのですが、私はこれを長い年月かけてでも周辺の都市住民が楽しめる、明るい公園にしてほしいと思い、自分の見解をかっての職場の仲間とメールを交換しながら討論しました。



B 広町緑地に入るようになったきっかけについて

B−1 初めて入ったきっかけについて

町内会の回覧板で自然観察ボランティアグループのメンバー募集を知ったため応募しました。

 

B−2 頻繁に入るようになったきっかけについて

枯木・倒木調査のために広町緑地内の遊歩道全長8.6km全てをつぶさに歩き、記録したときが最も頻繁に入ったときでした。しかし、ハゼやウルシかぶれによる発作を心配したドクターにより夏季の入山は止められ、調査は年1回の正月の成長測定だけにしました。

町内会の有志による散策路の整備グループに入り、月1-2回のメンテナンス参加しました。 二丁目から広町に入る独自新ルート開発もしましたが、2004年の台風で一部流される経験を経て、より慎重に尾根筋を選ぶようになりました。



C 自然や生き物に関する知識や考え方を学んだ人物(複数名でも構いません)について
 

全て自発的勉強で特に先生はおりませんが、自然観察ボランティアグループの指導をしてくれている東大大学院学生の掘さんには教えられました。彼は明治時代の陸軍参謀本作成の5万分の1の地図をみて広町界隈は松林だったというのです。たしかに明治21年に撮影された龍口寺の裏山には貧相な松林しか写っておりません。広重の浮世絵に描かれた東海道の風景と同じです。1960年代(昭和36年)に鈴木病院の院長さんが撮影した七里ガ浜の写真も同じ様な様相を呈しております。掘さんは日本全土の里山は平安時代ごろから松林だったのではないかとつぶやきました。ところが現在広町緑地に松は殆ど残っていません。

石炭や石油を原料して空中窒素を固定する化学肥料がなかった時代は人々は里山を収奪してここから燃料のためのマキを切り出し、落ち葉を肥料にするということをしていました。結果として地味は痩せ、松しか育たない土地になっていたのです。しかし石油時代になって燃料は石油 を使い、食料は化学肥料を使って育てるか、輸入するという時代になりました。結果として広町緑地は放置されました。そしてかっての痩せ地は根瘤菌などをもつ広葉樹によって窒素分を豊富に含む肥沃な土地にいつの間にか変わり、痩せ地にしか生えない松は淘汰されてしまったのです。

いまや日本全土の里山は知らない間にタップリと有機窒素を溜め込み、肥沃な土地になっているのです。結果として荒地や草原も消え、うっそうとした深い緑の森、すなわち縄文の森が再現され、人々を寄せ付けなくなっています。

ヨーロッパの巨木と巨木の間に空間のある気持ちの良い明るい林は実は人工的につくられたものです。都市近郊の林は選択的伐採を継続して育てるべき木と棄てる木を選別管理しなければなりません。ちまちまと全ての木の枝を少しずつ剪定するような現在の地方行政がしているような愚はさけなければならないと思うものです。 林床から笹などの藪を無料で駆除するためにシカ等を放し飼いにするなども検討してよいと思うものです。こう発言するとすぐ木を食べられてしまうという反論が聞こえてくるようです。特に熱心な市民運動家に多い思考停止型・反射行動です。奈良の公園に立派な巨樹が残っているのを見るとよく考えもせず、ただ鸚鵡返しに条件反射的に言っているとしか思えません。 シカなどの食害は植林の苗木が食べられることから生じたことで植林が不要となった現在は実害はないのではないでしょうか。丹沢でシカの食害 話題になるのは幼木を植林をしている林業従事者がこまるからですが、植林を前提とする林業は今後も成り立ってゆくのでしょうか。わたしは丹沢をよく歩いていますが、シカの生息する地区は見晴らしもよくて歩いて気持ちがよいところです。マスコミ、市民、造園業者、行政官に美しい都市林を育てる目的意識を持ってもらい、伝統的で定型的な考え方を無批判に受容するのではなく、自立して動物の導入など考えることの出来る人の養成からはじめなければならないのではと思うものです。

欧米の美しい都市・公園など環境を作りあげた思想的背景はK・マイヤー・アービッヒの次の言葉に代表されていると思います。

「世界が、人間がいないときよりも、人間とともにあるときにこそ真に美しくまたより善きものであるような仕方で、われわれは世界のうちに善きものをもたらすことができないであろうか」

このような思想に立ちますと、広町緑地の今後が見えてまいります。すなわち一切のコンクリート構造物や階段は作らない。巨木に育てる樹とそうでない樹を仕分け、草原と森林を区分し、不要な樹木は伐採し、林床の藪はシカなどの動物に清掃してもらうというものです。これは人工的な擬似自然ですが、人々には快適な空間になります。都市林にもっとも望ましい属性で、完璧な自然に放置された森は遠くで見れば美しいですが、近寄れば猥雑で危険な人々をよせつけない怖い森になってしまうと思うものです。日本には盆栽という伝統があります。 でもこれは剪定し、捻じ曲げて造ったものです。でもそれはいわば人々の頭のなかにある理想的な自然でしょう。私は盆栽 のように捻じ曲げるのではなく、選択的伐採で残された樹木に自由にのびのびと成長してもらい、自然が造る美を発揮させたいと思うものです。結果として60ヘクタールという巨大な人々のイメージにそう自然を作り上げることができるのではないでしょうか。そしてその雛形は皇居の森にすでに存在しております。 ただ地方自治体は皇居のように多量の資金を投入できません。そこで一部は鳥などの隠れ場所を確保しつつ、人間に解放する地域をきめ、シカなどの生き物の力をかりて林床をスッキリさせたいなとおもうのです。 自然は手を加えずに放置するのが一番という意見もありますが、放置することによってかえって生物の多様性を失うことも考えなければなりません。人が介入して草原を確保すれば、草原性の草花が生存場所をみつけることができ、結果として多様性が増します。野生の草花が増えれば、人々をよせつけます。こうして貴重な市民の税金が有効に活用されることになると思うのです。

March 31, 2005

Rev. April 21, 2005


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