日華事変に散った伯父

伯父田中一(はじむ)は雪のため旧制松本高校の受験ができず、やむを得ず江田島の海軍兵学校に1923年に53期生として入った。ワシントン海軍軍縮条約の影響で採用者が激減していた時期である。1925年卒業後、 五十鈴、旗艦金剛、駆逐艦夕顔などに乗り組み海軍中尉として陸戦隊小隊長となっていた。1922年の ワシントン軍縮会議後、航空戦略をとることとなった時代で、伯父は1929年から飛行学生として横須賀鎮守府付として、追浜で飛行訓練してパイロットとなった。1930 年館山海軍航空隊の飛行士、満州事変のあった1931年には鳳翔乗り組み海軍大尉となった。五・一五事件のあった1932年には上海事変があり、上海に空 襲を決行、真茹上空で敵戦闘機4機と空中戦を演じ、一機撃墜、一機大破の武勲をたてた。同年霞ヶ浦航空隊付教官、二・二六事件のあった1936年には佐伯 航空隊飛行隊長となる。呉海軍工廠航空機検査官を歴任。

1937年、盧溝橋事件に発する日華事変勃発とともに第十二航空隊長として大連周水飛行場に出動。南京空襲、中支各要所に爆撃を行い田中サーカス隊の称を得た。同年11月、空母龍驤飛行隊長となり、佐世保に凱旋。渡洋爆撃をした大村飛行隊の訓練に従事し正六位を賜った。

日華事変が勃発したころ、渡洋爆撃隊に配属になったという手紙をもらったと母は記憶しているが爆撃隊の訓練を手伝ったということのようだ。歴史書には1937年8月15日に九州の大村基地から20機の九六式陸上攻撃機(中攻)が飛び立ち、世界初の渡洋爆撃を敢行し、上海、南京を攻撃したと記されている。海軍大将井上成美が指揮した作戦だった。伯父と海兵同期の小谷中佐への今村脩海軍大佐の想い出を遺族が編集して本にしたものを従兄弟が保管してもっていた。これによると1934年当時の第一航空隊は中攻と中艇の混合部隊で小谷中佐は後に渡洋爆撃を敢行する中攻に属し、伯父は中艇に配属されて いた。中艇とは空母機ならびに飛行艇部隊の意味か?

九州南端の鹿屋からでも蒋介石の重慶政府への渡洋爆撃は長途の飛行のため、戦闘機の護衛が無く、帰路に敵戦闘機の餌食になったため、護衛なしの爆撃は3回で中止になったという。その爆撃の模様はIPA「教育用画像素材集サイト」で見れる。

日本軍の渡洋爆撃隊による爆撃はナチスのゲルニカ無差別爆撃とともに第二次世界大戦後半の連合軍による主要都市無差別爆 撃の理由となったのだという。それまではハーグ条約によって一般市民への攻撃は禁じられていたのだ。結果として1945年3月10日の東京大空襲の一般市 民犠牲者7万7000人と関東大震災の犠牲者3万8000人の仏式の慰霊堂として東京都慰霊堂が横網町公園にある。ここは元陸軍被服廠があった場所で、震 災のとき、この地だけで東京市全体の死亡者の半数以上の程度が焼死したとされるところである。

渡洋爆撃に使われた九六式陸上攻撃機 (中攻)

戦後、市当局の要請で川中島古戦場の八幡原(はちまんぱら)から実家に移設した蘇峰徳富正敬撰の墓誌銘を読むと伯父は青島から香港をカバーしていた第3艦隊を中心とする支那方面艦隊の空母龍驤(りゅうじょう)に乗り組み、最若年大尉の爆撃隊長として南京攻撃、敵主力艦艇攻撃に連日連夜活躍した。1938年2月4日、悪天候を押して発進し、広東省西江遡航中の敵 武装ジャンクに急降下爆撃を加え、熾烈なる敵防禦砲火を指揮官機にあび、 万一生き残らないように河岸の砂地に突っ込んで壮烈なる自爆を遂げたと無事帰還した副隊長小川正一氏の戦死の詳報方々御悔みが ある。こうして35才で死して少佐となった。船舶への命中度を上げるため、高度を下げすぎたためという。

副隊長の小川正一氏(第60期S7.11.19 卒)はその後1938年2-7月まで続く南昌爆撃に参加。多分空母龍驤からの継続出撃だったのだろう。太平戦争では加賀から第12攻撃隊の1中隊24小隊隊長として真珠湾攻撃に参加後、中佐になってミッドウェー沖で空母加賀艦 爆隊分隊長として戦死。空母龍驤はミッドウェー海戦では生き残ったものの、第二次ソロモン海戦で1942年8月24日に失われた。

空母龍驤

九六式艦上爆撃機

山本七平の「ある異常体験者の偏見」によれば、当時蒋介石軍は米国より性能の優れた高射砲を手に入れていたそうであるから、これにやられたのであろうか。

くだんの石碑にはどのような機種が使われたか書いてないが、中華事変当時の主力艦爆である複座の九六式艦上爆撃機だっただろうと従兄弟はいう。当時は全金属製片持式低翼単葉機への移行期だが、空母のエレベーターの能力で空母の艦載機には複葉機が選ばれたらしい。写真をもとに描いた下の絵画の背景には単座の九五式艦上戦闘機 か赤トンボと愛称された九三式中間練習機が描かれている。

hajimu.jpg (11292 バイト)

爆撃隊長となった叔父 故田中一大尉 (左端)

この赤トンボは幼年時代に陸軍の豆島飛行場で失速キリモミ訓練をしているの見に、わざわざ飛行場まででかけた記憶がある。

赤トンボと愛称された九三式中間練習機

前記の今村脩海軍大佐の想い出を読むと伯父は当時中島で2機しか試作されなかった糸川英夫技師設計の新しい翼理論による断面形状をもつ初の全金属製片持式低翼単葉の九七艦偵で大連ー大村間を飛んだこともあったようだ。

九七艦偵をベースとして開発された九七艦攻

太平洋戦争で雷撃機として使われた

3回で中断された渡洋爆撃はその後、発進基地を侵攻した中国本土の基地に移して継続された。戦闘機護衛で飛ぶことができ るためである。それでも九六式陸上攻撃機での第9次重慶爆撃の帰途、小谷少佐は1940年6月10日、追いかけてくる12機の敵戦闘機を5機撃墜するもつ いに主翼基部に被弾し着火したため自爆を遂げたという。 東条英機の「生きて虜囚のはずかしめを受けず」の戦陣訓に縛られていた時代であるから、万一生き残らないように背面飛行の姿勢で地上に激突したと、無事帰還した仲間達が報告したと聞く。操縦の自由を失って背面飛行に入ったという見方をすれば気が休まるが。

一が戦死したとき、海軍大学入学資格を得ていた。

伯父の戦死は九六式艦上戦闘機の後継機として開発されたゼロ戦によるハワイ奇襲、九六式陸上攻撃機も攻撃に加わったプリンス・オブ・ウェールズ撃沈の前のことである。ついに空母機動部隊の優位を知ることはなかった。時代の先駆けとして命を落としたわけだが、犠牲覚悟の先覚者なくして新時代が到来するはずもない。

「生きて虜囚のはずかしめを受けず」などというのは戦国時代的価値観と思っていたが司馬遼太郎の「歴史と視点 ー私の雑記帖」 によれば明治後、百姓階級から兵隊をとる徴兵制となり、各地に鎮台ができたときから投降や逃亡が、国家に対する最悪の裏切りであるというかっての武士時代 にはなかった道徳律が軍をおももしく支配しはじめたのだそうだ。パイロット一人の養成には当時の金で7万ドル、現在の価値で2億円かかるわけだから、死な ずに生還させたほうが経済的であることは合理的判断である。これだけではないが米国はそれを認識していて日本に勝った。攻撃優先主義、敢闘精神だけの軍指導部では勝てるわけはなかったのだ。

伯父の後輩達が太平洋戦争を戦ったのだが、その模様は山川新作著「空母艦爆隊 艦爆搭乗員 死闘の記録」や森拾三著「奇蹟の雷撃隊 ある雷撃機操縦員の生還」にくわしい。

海 兵1年先輩にミドウェー海戦時山口多門司令官の「直チニ発ノの要アリト認ム」を握りつぶした航空参謀となる52期生の源田実がいる。偵察機として飛んでい た利根四号機から予期せぬ米軍機動部隊発見の報告があり、山口多聞少将(第二航空戦隊司令官)から即時攻撃の意見具申がされた。しかし源田参謀は南雲艦隊 上空にミッドウェー島攻撃を終えた第一次攻撃隊100機が帰還し着艦収容を待っていた。源田は即時攻撃のため第二次攻撃隊を発進させれば第一次攻撃隊 100機が燃料切れで不時着着水するため戦友を見殺しにできないと、身内びいきの判断をし第二次攻撃隊の発進より第一次攻撃隊の収容の優先を進言した。こ うして「運命の5分間」ということになる。源田は戦後 も生き残って議員までのぼりつめた要領のいい男だ。このように海軍の大部分は失敗から学ぶ姿勢はなく、結局負けた。定説となっている ミドウェー海戦は司令部の失敗を覆い隠した源田とコンビの吉岡航空乙参謀が書いた公式報告「戦闘詳報」によって創作されたものだ。負けるべくして負けたの である。(作家森史朗)

最近聞いた話だが撃墜されてもちゃっかり生き残ったパイロットもいたらしい。現地人に金をつかませて逃亡に成功したというのだ。中国人からみれば「日 本と蒋介石軍が戦争していても俺達には関係ないよ。金くれるなら逃亡の支援もOK」といったところらしい。いかにも大陸的だ。ヨーロッパ戦線のようでもあ る。これで帰国した兵士の扱いに軍は困ったという。すでに死亡通知を遺族に出してしまっているのだ。そのごどうなったかは知らない。

1944年11月12日正午をわずかに過ぎた頃、北緯24度31分西経146度47分の位置で発生した日本海軍の潜水艦とティー・クリッパーの最後の船パミール号との遭遇の美談も海を愛する者として忘れられない。


1929年に一に嫁ぎ、3人の遺児を育てあげた「すみえ」伯母は80年後、百歳の生涯を静かに閉じた。

その葬儀の折、孫の一郎君に「あの戦争でアメリカに勝つ道はあったのか」と聞かれた。「うまくやれば部分的な勝利はありえたであろうが、戦争は結局、経済競争の一形態である以上、必然的に負ける戦であったと思う」と答えた。

1941年にアメリカが参戦したとき、チャーチルは「ドイツの運命は定まった、イタリアの運命も定まった。日本にいたっては、臼で挽かれて粉にされてしまうだろう。あとは、圧倒的な国力の差をきちんと戦局にさせさえすればよい」といったという。

具体的に太平洋戦争の転換点であるミッドウェー 海戦をとろう。アメリカにはこの一戦に勝利する確証はなかった。ところが南雲長官や源田参謀が指揮したミドウェー会戦で日本は偵察を軽視して後手にまわり、空母4隻を失う。 米軍にとっては日本空母3隻が無防備でいるときアメリカの急降下爆撃機がその上空に現れるという幸運があった。もしこの幸運がなければアメリカは和平への道を探らざるをえなかったかもしれないという見方がある。

しかし ウイリアム・バーンスタインの「豊かさの誕生 成長と発展の文明史」によれば、開戦時は日米それぞれ6隻の空母を所有していた。日本はミッドウェーで4隻失ったが、米国も1942年末には4隻(ミッドウェーでヨークタウン、サンゴ礁でレキシントン、ワスプを潜水艦で、ガダルカナルでホーネット)を失っているので ほぼ互角だったのである。力の差は続く3年間に顕在化する。日本側は空母を2隻、小型空母14隻しか建造できなかったのに、米国は16隻、小型空母を118隻も建造できたのである。仮にミッドウェー海戦に日本が勝利しても結末はおなじだっただろうと容易に想像できる。


日本では中国一般大衆の日本への憎しみは江沢民の教育によると信じられているが、実際に攻撃を受けた世代とその苦しみを聞いて育った世代が居なくなるまで消えないだろうというのがオーストラリア国立大学のヒュー・ホワイトの予想である。


2002.5.1

Rev. December 7, 2012


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