読書録

シリアル番号 720

書名

歴史と視点 ー私の雑記帖

著者

司馬遼太郎

出版社

新潮社

ジャンル

歴史

発行日

1980/5/25発行
1990/5/15第25刷

購入日

1991/1/1

評価

1991年当時読んだものを2005/11再読した。

大正生まれの「古老」

どこかで読んだことがあると記憶していた沙也可(さやか)のことが、戦国時代には敵に寝返ることは不道徳ではなかった例としてでてくる。投降や逃亡が、国家に対する最悪の裏切りであるというかっての武士時代にはなかった道徳律が軍をおももしく支配しはじめたのは、明治後、百姓階級から兵隊をとる徴兵制となり、各地に鎮台ができたときからだった。これが昭和十年代になると、共同幻想を持ちやすい日本人が集団発狂集団となった軍閥に占領されて、常識では考えられない多方面作戦という国家的愚行としての太平洋戦争をはじめ、手の打ち様もなくなって「生きて虜囚の辱を受けず」の戦陣訓を東条が言い出すのである。これを裏返した反戦、非戦という共同幻想も戦陣訓を生んだ東条と同じ愚行であろう。

もっとも良き兵は、敵を恐怖するよりも国家を恐怖する兵であった

戦車・この憂鬱な乗り物

日本人は日常生活の習慣に浪費的なものが多かったわりに(高級軍人と待合がつきものだったように)かんじんの要るものをケチケチと小出しにする習性が、江戸時代以来、しみついたものになっていた。兵力を使うばあいもどっと集中させず(それが古今の戦術の鉄則だが)小出しに出してそのつど敵にたたかれるという癖が日露戦争の陸戦指導にもあらわれているが、その性癖は造兵面にもあって、戦車の攻撃力(火砲)の威力増大をはかる場合にも小出しに口径をふやし、つねに国際水準より劣っていた。・・・といってBT戦車(クリスティー戦車)と八九戦車を比較している。

この章では敗ける公算が非常に大きいとわかっていても平気で国家をミコシとしてかつぎ、国民を扇動し、それらを運命の断崖に叩き込んだ昭和の戦争指導者が自らの不安を紛らわすために兵器より大切にした精神安定用の日常常套語「人事ヲ尽シテ天命ヲ待ツ」、「斃レテ後休ム」をあげ「集団がいっせいに傾斜をはじめたときに、ひとり醒めた言動をするということがいかに勇気が要るかということはわかる」といっている。

権力の神聖装飾

劉邦に皇帝の権威を成立せしめるのは型であるということを知っていた儒者の叔孫通(しゃくそんつう)が皇帝に拝賀する儀式を作り上げた。実際に採用してみると皇帝の尊貴さは礼を行うことによってのみ臣下に伝わるということがわかり、権力の魔法としての礼が中国に定着することになった。コンスタンチヌスがキリスト教を公認し、皇帝の権力の装飾として使ったのと同じ伝法である。

秀吉に神聖装飾を施そうと考えた石田三成は努力したが成功せず嫌われただけであった。この欠点を知っていた徳川家康は高家(こうけ)という儀典専門の旗本を置き、江戸城を荘重な儀礼の場にした。

明治天皇の神聖装飾に成功したのは山県有朋である。

人間が神になる話

本願寺は親鸞が開祖ではあるが、教団として成功したのは第八代蓮如(れんにょ)である。蓮如は宗教者というより、政治家でアジテーターで組織者であった。本願寺は領地は一坪も持たなかったが門徒から上納される金穀は膨大で高級公家の権利、門跡をも買い取る力を第十一世の顕如(けんにょ)は持つに至る。


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