戦艦三笠

日露戦争の主役の戦艦三笠が横須賀市に保管されてあると知ったのはここ七里ヶ浜に居を定めたころであったろうか。伯父が海軍士官だったこともあり、また司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読んでいて山本権兵衛の先見の明を知っていたので実物が存在することに驚いた。さっそくハーレーダビッドソンに騎乗して見学にでかけた。

意外にも米海軍第7艦隊の基地のすぐ裏にそれはあった。米海軍も尊敬する戦史に残る名艦であるから残されたのであろうと考えたものである。その後、日露戦争当時若き士官候補生だったニミッツ提督が日本海戦で完璧な勝利をした東郷元帥をみて我が師として生涯にわたり尊敬した。戦艦ミズーリー号上での日本の降伏文書調印式に出席するために来日した元帥が横須賀を訪れて無残な三笠の姿を目撃し、直ちに監視兵を置いて三笠を保護したという。三笠保存会は元帥の意思を汲んで発足し、今の姿があることを知った。

北アイルランドのベルファストのバローインファーネス工場で建造された当時は世界最大の戦艦であったと記憶している。旗艦として使われた日露戦争での完全勝利の結果、列強が大艦巨砲主義に傾くことの先駆けとなった艦である。

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戦艦三笠 1994年11月13日撮影

艦内で東郷平八郎提督の日本海戦航跡図が展示されており、その巨砲の効果を示すものと興味をそそられた。写真撮影して、翌年の年賀状に使わせてもらった。東郷艦隊の戦法は一般に「T字戦法」とよばれている。この言葉は秋山参謀が名付けたものだが、先輩の山屋他人が考案した「円戦術」の方が理解しやすい。敵艦隊の先頭艦を円の中心にして円周上を単縦陣 で回頭しながら攻撃するという意味だ。敵艦隊も回避動作をするので結果として両者が併走する持続戦法となったようである。「天気晴朗なれども、浪高し」の浪は高かったが天気は晴朗ではなく、蒙気が滞留し、視野は数マイルしかなかった という。この海戦のビデオはIPA「教育用画像素材集サイト」で見れる。

日本海海戦後列強海軍は直ちに大艦巨砲の勝利と判定し、英国は戦艦ドレッドノートを建造。以後超ド級艦時代が到来する。日本はこの圧倒的戦勝の学習棄却ができず、大艦巨砲主義から脱却できなかったのに対し、1941年12月10日、英国の巨艦プリンスオブウェールズがマレー沖であっけなく日本海軍の航空機により撃沈されるや、直ちに航空機の優位を知り、空母機動部隊に積極的に投資した欧米の柔軟性に結局日本は敗れたのである。自戒する意味で使わせてもらった。

日本は政府も民間も柔軟性に欠け、改革だ改革だといいながら、いまだ大艦巨砲主義を脱却できず、老化し価値の下がった既存企業の保護に汲々とし、イノベーションを担う企業が自由に羽ばたける規制緩和を出し渋っている。結局不景気のままである。第二の敗戦といわれても止むをえないだろう。

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1995年の年賀状

後日、東郷平八郎提督の先祖は相模国から薩摩の東郷に移り東郷を名乗った渋谷重国の孫実重であると知る。渋谷重国は鎌倉時代源頼朝の御家人でその居城跡はいまでも瀬谷市にある城山公園である。

2002.5.1

Rev. August 28, 2009


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