谷中佐の思い出文集抜粋

小中攻隊の先駆

海軍大佐 今村脩

故小谷中佐、森永中佐は故得猪中佐と共に小官の忘るゝ能はざる諸君である。

想起すれば、昭和九年秋、演習部隊として第一航空隊が編成せられ、不省同隊司令を拝命した当時の第一航空隊は、中攻と中艇の混合隊にて、中攻部隊は館山航 空隊より其大分を抜き編成せられた。当時の中攻隊幹部は実に中攻隊の先駆にして、後日之が発達の中心人物だった諸君であり、之等の諸君により初めて演習部 隊として大活躍をし偉勲を建てた次第です。然レ之等の諸君の大部分が、其営々として育成した中攻部隊幹部として、赫々たる武勲を中外に輝かしつつ花々しく 本事変の花と散りました事は、誠に偉観であると同時に、当時を想う小官は、眞に断腸の思いがする。

・・・中略・・・

田中少佐とは昭和十一年暮小官佐伯空司令として着任以来、第十二航空隊司令を退任までご奉公を共にしました。

当時の佐伯空は今でも黄金時代と信じます。大林末雄副長、前田飛行長、其下に居た隊長連が岡村、榎本、三田、それに田中君、田中君は最若年隊長として能く 前記の猛隊長連中に伍し、眞に見事に其職責を果して居ました。

田中君は大尉の隊長とは申せ、第一支那事変の殊勲者で、全勳で他を圧し部下の坂本以文大尉、江草中尉の名分隊長を両手に其訓練振誠に見事で、彼寡言只之実 行、沈着温和な中に毅然として不屈の謄を有し、論じて熱せず、時々「ニタリ」と微笑を浮かべた時の無邪気と可愛さ、私は何時も嗚呼能くも此の如き優良な部 下揃いの隊に来たものだと有難く思った次第でした。

各隊の訓練で隊の飛行場が使えなくなったのも此の時でした。田中君の隊の如きは彼の困難な地形で昼夜訓練して立派な成果を挙げて行きました。

今次事変突発早々第十二航空隊として出征以来、田中君の隊の活躍は、眞に縦横彼の忙しい時期に殆ど連日連夜の活躍で、陸戦隊、陸軍の戦線攻撃、南京爆撃、 要地攻撃或いは当初の敵主力艦艇攻撃等々、何でもかでも、当たるを幸い薙ぎ倒す様な活躍は彼の隊だからこそ出来たと確信して居ます。

南京電灯廠攻撃の時でした。小官は特に思い切り降下して敵をたたきつけて来いと命じましたが、彼の当時の見事な攻撃振りは外人も感嘆したことは周知の事で す。

其後の田中隊の活躍は何時も抜群、命ぜずして小官の意以上に活躍しました。思えば之等の抜群な戦力を支那相手で消耗したのは惜しい気がします。

小川正一大尉等も此隊長の下に訓育せられました。

田中君の隊の飛行機には小官何回も同乗し、戦線に行き、数回は田中君と二人で飛びました。彼の勇敢な隊長が小官を乗せて、或いは高く、或いは低く、戦線を 飛び乍ら小官に現状を説明して呉れた伝声管の声が今も耳に残っています。

一番呑気な思い出は愈々上海行きの前、周水子より大村へ移ります時で、部下を出発せしめた最後に、田中隊長操縦、小官偵察、電信員と九七艦偵で大連大村直航 の日でした。

周水子発後高度四千不連続線を飛び越え乍ら只一線の洋上飛行、朗らかな気分で二人語ひ明日の硝烟弾雨も知らず、静かな飛行をした時でした。

嗚呼諸君の級には誠に立派な人物が多かった。勿論兵学校出の士官に一人として、立派でない人物は居ないが、自分と一緒に御奉公した諸君右三君(中攻の小谷 中佐、森永中佐、田中少佐)の如きは又何だか一脈相通ずる性格を有史、眞に実戦の闘士でした。

今海上生活の寸暇に此拙なき想出の一文を綴る間にも髣髴として浮かぶ三君の姿に心より冥福を祈る。

Rev. March 9, 2005


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