読書録

シリアル番号 1226

書名

嘉永五年東北  吉田松陰「東北遊日記」

著者

織田久(ひさし)

出版社

無明舎出版

ジャンル

紀行

発行日

2001/3/26初版

購入日

2015/03/28

評価



小笠原蔵書。原田伊織著「明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト」を読んだ後で借りて読む。以下は旅のルート図。全工程2,200km。

松陰は叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となる。同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。アヘン戦争で清が西洋列強に大敗したこ とを知って山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感すると、西洋兵学を学ぶために嘉永3年(1850年)に九州に遊学する。ついで、江戸に出て西洋砲術の 師、佐久間象山に師事する。

松陰としての本質は兵学者であり、国防に関心をもち、全国の国防施設を視察して歩こうというの が旅の目的。この旅に先立ち、五島列島の平戸、三浦半島の横須賀の砲台を見学している。

嘉永5年(1852年)、兄から15両の資金を工面してもらって友人である宮部鼎蔵らと東北旅行を長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たず脱藩し て行う。桜田門外の毛利藩邸(現在の法務省と日比谷公園西部)を出発、通常は水戸に向か うには我孫子を過ぎてから取手で利根川を渡って水戸街道をゆく。しかし松陰は脱藩のこともあり、用心して手賀沼を過ぎてすぐ左折し、花井、船戸の村をすぎ て利根川を渡って水海道に至る脇道を 北上した。水海道を過ぎてからは筑波山を目指して北上する。筑 波山に登り、真壁、笠間、水戸と歩く。

水戸で偕楽園に遊び、学者の会沢正志斎と面会したり、「青柳の渡し」を渡って光圀ゆかりの西山(せ いざん)に遊ぶ。ここで初めて農民の気概にふれて認識を検める。

水戸に一旦帰り那珂川を下って那珂湊の海防を視察しようとしたが、天保の改革が頓挫したあとで何も見えなかった。その後、大洗を通過、鹿島灘にそって南下 し、鹿島神宮潮来(いた こに遊ぶ。利根川を船で下り、銚 子に着く。高台に登り、仮想敵国アメリカを詩にする。水戸には1月滞在した。

「青柳の渡し」を渡り、菅谷→(久慈川の渡し)→森山→手綱と移動し、長久保赤水(せきすい)の「龍虎山記」を見せてもら う。長久保赤水は水戸藩主治保(はるもり)の「天保の改革」の一つの廃仏毀釈にも影響を与えた人である。

磯原→勿来の関で奥州に入る。鮫川→植田→(御斎所街道)→白川に 向かう。御斎所街道は棚倉で棚倉構 造線と交差している山間の道である。同行していた安芸五蔵(江幡五郎の偽名)は白川の追分で分かれて兄の仇に南部藩に向かう。松陰はも う一名の宮部鼎蔵と→(茨城街道)→勢至堂→(勢至堂峠)→御代宿→会津に向かう。猪 苗代湖越しに噴火前の磐梯山が見えていたはずだ。二人は会津では歓待 された。剣士黒川内に宿泊。黒川内は戊申戦争で命を落とす羽目になるなど思いもしない。7日間ここに滞在。

深雪のなか阿賀野川沿いの車峠と鳥井峠越えをする。更に綱木→赤谷の番所(会津と越後の堺)→新発田(しばた)→木坂⇒ (水路)⇒新潟。新潟でも剣客の家に投宿。剣客の修行旅行のルートに乗っていたのである。

これで日本海側の豪雪の恐ろしさを知る。北前船で松前に一挙に北上しようとしたが春まで船は来ない。そこで佐渡に渡って春待ちすることにする。新潟→内野 →赤塚→稲島(とうしま)→岩室泊→石瀬→弥彦神社→猿坂→野積→寺泊→出雲崎(風待ち13日、北越雪譜を読 破)⇒佐渡小木港

佐渡小木港→相川→金山見学→両津→小木港(風待ち13日)⇒出雲崎→新潟

いばりちらす士族を嫌う船頭に拒否されて松前行きには乗れず徒歩で出発。江戸なら桜の花の咲くころだったが、まだ雪は残り

新潟⇒(水路)⇒松崎→藤塚→桃崎(村上領)⇒岩舟⇒村上→瀬波川→ 塩町→葡萄峠(芭蕉もここを南下、グリーンウッド氏はここは通過していない)→中村→田中→碁石→大川→駅鼠関→浜熱海→湯熱海→(海浜平沙 現在の国 道7号)→久保田(秋田)

秋田でも剣客の修行旅行のルートに乗っていた。太平洋側でやませが吹いて凶作でも日本海側は晴れで米作がよいということはよく生じたようである。

久保田→土崎湊⇒(馬)⇒冨岡⇒桧山⇒鶴形⇒飛根⇒(舟)⇒米代川

矢立峠→碇ヶ関(いかりがせき 今は東北自動車道であっけなく通過)→大鰐→弘前城下二泊

弘前→藤 崎→五所川原→金木→中里→今泉→相内→十三湖で浜に出る。

磯伝いに磯松→脇元→権現崎→小泊まり(松前の対岸 泊)

小泊まり→算用師峠(さんようしとうげ)に登り、松前を遠望→三厩(みんまや 松前はここ から渡る)→今別→大泊→上月(泊)。

上月→平 舘(たいらだて ここで松陰は洋風砲台3基を見学、グリーンウッド夫妻が2007年に訪問した「おだいばオートビレッジ」 がこれ)⇒(舟)⇒青森(舟小屋泊)→土屋→中野→藤沢→小湊→清水川→野辺地(泊 砲台1基)

野辺地→七戸→五戸(ごのへ 泊)→沼宮内(ぬ まくない)→川口村→盛岡城下→山影村(安芸五臓の兄の遺族を訪ねる)

盛岡→津志田→郡山(紫波町 泊)→花巻→黒沢尻→中尊寺→一関→石巻→成瀬川(舟で小野橋付近を渡る)→登米(とよま 山頂で富士遠 望 実は岩手県の平庭高原にある富士見平は海抜840mで富士山が見えるとされる)→松島⇒(安芸舟)⇒塩釜→ 仙台(安芸五蔵と再会)

仙台→白石(3人一緒に泊)→(七ヶ宿街道)→戸沢の追分(2泊、ここで浄瑠璃語りを呼び、忠臣蔵十一段と八段を語らせている。その後、安芸五臓と分かれ る)→米沢→会津→田島→日光→足利→館林→関宿⇒(乗合 夜舟で江戸川下り)⇒江戸橋

松陰を待っていたのは士族剥奪、家禄没収であった。その代わり藩主慶親からは十年間の諸国遊学の許可が出たのは藩主のバランス感覚の故か?これから黒船騒 動が続く。

「東北遊日記」は殆ど私の過去15年間のジープやバイクで走り回った地域のため地図と自分の旅行記を対比し懐かしく読めた。マー!若さにあふれ、国防に不 安を覚えた兵法学者の卵が感激しつつ、お勉強の旅をしたと いう程度の紀行文だ。感傷的な漢詩をやたら作ったという感じ。20歳の若者の青臭さがあふれていて好感をもった。一般に流布している松陰のイメージはしか し後世の人間が自分の正当化または商売のために勝手に作り上げたという感じを持った。最近読んだ原田伊織の「明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト」は極論だが神格化された吉田松陰のイメージの 歪みを修正させられた本ではあった。

松陰は赤穂浪士に感情移入し、南部藩の内紛で犠牲になった江幡五郎の兄の仇討ち話しに高揚して「過書 事件」を起こした姿が見える。しかし江幡五郎は、結局、仇討は果たせなかった。その後、南部藩の藩校の教授となり、明治維新後は文部省で小学校の教科書の 執筆に助力する人間になる。これを読むと20才台の多感な四書五経を学んだ青年が藩主に対する「忠」、両親に対する「孝」、また同志に対する「信義」の狭 間でどう苦しんだのかはなにも書いてない。友人の仇討ち話しに興奮していただけの若者の姿が浮かび上がる。旅行記としては地図と自分の旅行記を比較して楽 しめたが、一般に流布している吉田松陰の人 物像とこの著者は一致しない。松陰のイメージはほとんど後世の人が祭り上げたイリュージョンなんだろうという感じである。士族剥奪、家禄没収に終わる脱藩 を した「過書事件」を起こした判断の道筋が浮かんでこない。死人に口なし、いくら祭り上げても問題ない。NHKの「花燃ゆ」は観てないが、「過書事件」はぼ かし切ってなにやらさっぱりわからぬらしい。結局、史上最低の視聴率とか。

Rev April 5, 2015


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