石原隊ツーリング記録

2008-2009年

2008年3月29日(土)

石原隊は箱根一泊のツーリングに出かけた。2008年5月に予定していたルート66ツーリング・パート2の打ち合わせが 目的である。

雪の新潟から新品のサイドカーで参加の荻野夫妻のために徳山氏が山中湖の別荘を前泊として提供した。これも新品のロードキング・アニヴァーサリモデル騎乗 の阪間氏とグリーンウッドらスキー愛好者がこれに参加し、来年のスキーについて打ち合わせた。

16:00に籠坂峠から山中湖へ下った丁字路にある駐車場に集合。鉄砲木ノ頭中腹にあるパノラマ台の駐車場(標高 1,100m)に登り、夕日が沈む富士と山中湖の景色を堪能。

パノラマ台にて

2008年3月30日(日)

11:30道の駅「富士吉田」に全員集合。雨が来そうなため、忍野の「天祥庵」のソバはあきらめ、吉田うどんで昼食とし、箱根に向かって出発。籠坂峠→御 殿場→乙女峠で14:00ホテルグリーンプラザ着。ホテルグリーンプラザは厚生省の役人が無駄使いした元グリーンピアをただ同然で民間に払い下げたもので ある。仙石原は大涌谷の直下の姥子にある。

計画を練った押川氏の説明で5月はまだサンタフェ、アルバカーキー、フラッグスタッフは寒いので9月に延期することとなった。ルートの詳細は有志が運営しているサイトで購入する EZ66 Guideが一番詳しいという。

ポルシェで参加した中本氏は仕事があるとのことで、一泊せずに帰る。

夜は夕食の後、カラオケを楽しむ。グリーンウッド氏は「また逢う日まで」、「雪山賛歌」、「白いブランコ」を歌った。「雪山賛歌」は歌えたが、他の二つは いずれも練習不足であった。

2008年3月31日(月)

荻野夫妻は伊豆半島一周の旅にでるべく雨の中出発した。ポルシェで参加の菅原氏は雨の中出発。隊長以下の群馬組と井原氏も十国峠で引き返す予定でこれも雨 の中出発。残る東京、神奈川組みは13:00までホテルで雨が上がるのを待った。

雨上がりのグリーンプラザ・エントランスで阪間氏のロードキングーと安田氏の ドゥカティ750を前に

2008年5月22日(木)

石原隊は母畑(ぼばた)温泉1泊のツーリングに出かけるべく、11:30 佐野SAに集合した。徳山氏のサイドカーはガス欠で遅れる。

白河ICで降り、南湖公演で一休み。南湖は名君であり茶人、また優れた作庭家であった白河藩主松平定信(楽翁公)により、1801年に造園された、我が国 最古の「公園」という。定信はこの造園において身分の差を越え庶民が憩える「四民(士農工商)共楽」という思想を掲げ、「共楽亭」と称する茶室を建て四民 と楽しみを共にした。庶民もはいれたので公園とよばれるようだ。「南湖」の名は、李白の詩句「南湖秋水夜無煙」からまた、白河城「小峰城」の南に位置して いたことから名づけられたといわれる。

右手の山の中にはいれば白河関跡がある。白河城主松平定信公が、この場所を白河関に相違ないとし建立した碑「古関跡」の 碑。 八幡太郎源義家が、清原氏討伐の前九年の役に際し白河の関を通過したとき、社前の楓に幌を掛けてしばしの休息をしたという幌掛の楓,があるという。

都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関     能 因法師

白河城の脇を通って母畑(ぼばた)温泉 八幡屋(Hotel Serial No.415)に向かう。八幡太 郎源義家が使った御斎所街道は田植えが終わった田舎道で素晴らしいカントリーライドを楽しんだ。八幡屋は八幡太郎義家の愛馬の傷が治った霊泉の上に建てら れた宿というところから、「八幡屋(やはたや)」と名付けられたという。義家が母衣(ほろ)と旗を祀った土地は、「母衣旗(ほろはた)」と呼ばれ、いつし か訛って「母畑(ぼばた)」と呼ばれるようになったという。

2008年5月23日(金)

9:00出発、群馬勢はあぶくま洞に立ち寄るとのことだが付き合っていると夜になるため、井畑、徳山氏と一緒に常磐自動 車道で17:00帰宅。550km

2008年9月11日-12(金)

単独行動で前日の鍋倉高原 パート2が開催された飯山市よりホテル秀山に12:00到着。全員集合の15:30までホテルで昼寝。米国遠征組みは詳細の打ち合わせを行う。非 遠征組は三々五々温泉を楽しむ。




ホテル秀山にて 坂間氏撮影

夜はホテルオーナーの荻原夫妻も参加して結団式と壮行会を兼ねた、宴会を持った。

翌朝は朝食前に荻原氏運転のマイクロバスで赤倉→燕温泉→関温泉→赤倉と観光めぐりをする。

赤倉はかっては別荘地として賑わい岡倉天心も山荘をもっていた。三菱の重役とか皇族も別荘を持っていたがいまはなく、更地となっている。岡倉天心山荘跡に 有志が建設した六角堂が唯一かっての名残を残している。自家用車などなかった時代には別荘に国鉄で移動していた。このような場合、赤倉はにぎわったが、自 家用車 を自ら運転して移動するようになってからは赤倉は東京から遠すぎる。自動車専用道路が完成しても影響はないようだ。北陸新幹線が完成しても最寄の駅は上越 だから、パスされてしまう恐れがある。



出発 坂間氏撮影

スキー場としても早く開けたが、堤氏が日本中に小型のスキー場を作りまくったため、共倒れとなっていまではスキー客はかっての1/5だという。早くからス ノーボーダーを受け入れたところはいいが、赤倉は遅かったためダメージが大きい。倒産し、立ち枯れて、雪の重みで屋根が崩壊している巨大なホテルが幾つか 散見される。

赤倉の最高級ホテルは赤倉観光ホテルである。帝国ホテル、上高地帝国ホテル、川奈ホテルを作った大倉喜七郎によって創業者された。設計士の高橋貞太郎をス イスに派遣してスイス風建築とした。しかし、創業当時の建物は1965年消失し、1年後に当時の建物を模した形で新しく建て直された。その後2度倒産した が、現在は外国資本の下で営業している。

燕温泉は妙高山の外輪山が崩れた場所にあり、険しい道をたどってようやくたどり着く。中学生のころ、妙高登山のためにここに宿泊した記憶があるが、雨のた めにそのまま下った。現在は寂れて4軒だけ営業しているだけだという。

関温泉は国有林の中にあり、借地で営業しているという。ここは早くからスノーボーダーを受け入れたため、程ゝに営業しているがスノーボーダーが大滝の滝つ ぼに飛び込んで死ぬ事故が何回か発生したという。

朝食後は解散としてそれぞれ次の旅に旅立っていった。グリーンウッド氏は長野の実家にバイクを置いて新幹線で鎌倉に帰 宅。

2008年11月16-17日(日)

ルート66  2008年の報告会が磐梯熱海の「四季彩(しきさい)一力」で開催された。(Hotel Serial No.445) あいにくの雨で全員車またはJRでの参加であった。グリーンウッド氏は押川氏のフォルクス・ワーゲンに便乗。ちょうど紅葉が真っ盛りで、充分堪能した。 15:30にホテルに集合し、一室を借り切って、阪間氏持込のプロジェクターを使い、北原氏撮影のビデオ、押川氏・徳山氏撮影のスティール写真を鑑賞し た。

一力のロビー

翌日は2003 年10月25日に道路の混雑で断念した大内宿に挑戦することに衆議一決して磐梯熱海を出発。わが手持ちのGPSは猪苗代湖の南岸を通過するルート を選ぶが、先導する斉藤氏のナビは会津若松市内を通過するルートを選んだ。このため会津若松市内で時間を無駄にする。

大内宿は過去15年間に大観光地となった。大型バスが駐車場を埋め尽くしている。大内宿は江戸時代は江戸と会津を結ぶ脇往還としての下野街道の宿として形 成された。しかし会津から16.5kmしかなく昼食をとる中宿としての地位であった という。保存状態がよいので中山道の妻籠、奈良井についで国選定重要伝統的建造物群保存地区として選ばれている。 旧街道の両側に均等に割り振られた屋敷、茅葺寄棟造り、妻を街道に面するような配置、座敷を街道に面する部屋配置、軒化粧などが特徴だ。名主で本陣の阿部 家は築300年の茅葺寄棟造りだ。1878年(明治11年)イザベラ・バードがこの家を一夜の宿としている。

子安観音から大内宿を俯瞰

ついで大内宿近くの日光街道沿いの塔の岪(へつり)に立ち寄る。阿賀川が石灰岩をえぐって断崖絶壁となり深 い淵を形成してマイクロ・キャニオンとなっている。

塔の岪

国道289号が甲子峠を貫通するトンネルの完成で白河と直結したというのでここを通って、東北道にでて帰宅。

2009年5月11日(月)

ロータリークラブ・ハーレー会は氷見(ひみ)のおいしい魚、千里浜(ちりはま)、五箇山(ごかやま)の筑子(こ きりこ)、高山そして下呂(げろ)温泉をめぐるツーリングを2泊3日で行った。

グリーンウッド氏は2008年9月に長野に置いたままになっているバイクに乗って新井PAに集合した。新井PAからは火打山の迫力ある姿を望める。冬の間 はバイクのエンジンを時々動かしバッテリー充電を心がけたので、問題なし。充電器接続のためのシートを取り外すネジがさび付いて、難儀した。

新井PAから火打山を望む

民宿「氷見つ子」(Hotel Serial No.452)泊。もとは電子部 品製造業だったらしいが廃業して民宿をしている。電子部品製造工程のあった空間にバイクを保管してもらう。

2009年5月12日(火)

翌朝、宿近くの阿尾城跡を散策。前田家に伝わる文書(末森記)によると、佐々成政との阿尾城攻防戦(天正12年)に勝っ た利家は、前田慶次郎らを入城させたとある。


阿尾城跡


千里浜に向かって能登半島を横断。千里浜は2006年にジープで走った。バイクではどうかと思った が、転倒することもなく、何とか通過。

千里浜

北陸道を金沢東IC経由で戻り、東海北陸道で五箇山の筑子(こきりこ)館 を訪問。 「こきりこ」とは小切り子とも書き、よく乾燥したすす竹を七寸五分に切ったもの。放下師(僧形の田楽法師)が使った楽器である。「板ざさら」、「びんざら さ」は短冊形の薄い板を108枚あわせたもので両端を持って手首のスナッチを利かせて鳴らす。

ここの古代民謡「こきりこ」は大化の改新の時代から田楽として歌い継がれてきた歴史をもつ。

筑子の竹は七寸五分じゃ 長いは袖のカナカイじゃ

踊りたか踊れ鳴く子をいくせ ササラは窓の許にある

向の山を担(かず)ことすれば 荷縄が切れてかづかれん

・・・

色は匂へど散りぬるを 我世誰ぞ常ならむ

憂ゐの奥山今日越えて 浅き夢みし酔ほのせず

(はやし)

窓のサンサもデデレコデン

はれのサンサもデデレコデン

 

ここでソバ昼食。

五箇山 村上家

再度東海北陸道に入り、飛騨高山に向かう。高山を散策。高山は1997年にバイクで訪 れて以来12年ぶりだ。ますます観光でにぎわっている。

高山

高山より更に南下して下呂温泉湯之島館泊(Hotel Serial No.453)昭和6年創業の老 舗旅館で風情がある。

2009年5月13日(水)

下呂温泉 湯之島館

裏木曽街道を南下する。恵那山が見えるか注意していたが、雲の中だった。中津川ICより中央道に入り諏訪湖、御坂峠越え で帰宅。

石原隊ツーリング記録

Rev. January 6, 2016


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