石原隊ツーリング記録

2005年-2006年

2005年6月1-2日、石原隊は川治温泉宿屋伝七一泊のツーリングに出かけた。

参加者は石原隊長、斉藤、飯塚、押川、新潟の荻野夫妻、徳山夫妻の常連に、新に千葉南ロータリアンの北原俊彦氏が新車を購入して参加した。

北原氏は若き頃はモトクロスで暴れまくり何回も死線をさまよったらしいが、今回はハーレーでおとなしくしておられた。

宿屋伝七前で 荻野氏撮影

グリーンウッド氏にとっては半年ブリのツーリングだ。事前のバッテリー充電など準備は怠りない。同行の押川氏は朝エンジンがかからず、やむをえず単騎、鎌 倉から東北道の佐野までノンストップで愛機を駆って駆けつけた。荒川べりで渋滞したため160kmを2時間半かかった。佐野から川治温泉まで折からの快晴 の空の下、新緑を味わいながらゆったりとし気分でツーリングを満喫。伝七の湯を堪能した。(Hotel Serial No.307)

77才の隊長は 若き頃、尊敬する教師の推薦により京大の物理学科の聴講生を勧められたが学生になったのに、長男として家業を継ぐため、退学して準備なしでいきなり東京工業大学を受験するが失敗。日大 理工学部に入りなおし、一族を養うという責任と義務を負ったという経歴をもつ。その語りつくせぬ一生の思い出話を聞いているうちに朝の4:30になってしまった。ようやく就寝し、朝食の8:30までの睡眠時間は4時間であった。

なぜ4:30まで話を聞いてしまったかというと、内容が飛び切り面白かったためである。石原氏は家業を続ける傍ら、長男の教育のために近所の子供達を集め て無償の私塾を始めた。教育法は若き頃、受けた良質の教育をなぞったものだったが、塾生の進学率が高まったことから評判となり、頼まれて塾生を増やした。 そうこうするうちに学校の校長先生がやってきてあなたの教育は 詰め込み教育だ。平等の原則にも反するのでやめていただきたいと抗議されたそうである。しかし父兄の意見が勝って教育委員に担ぎだされるに及んで、くだん の校長先生 は黙認してくれたそうである。夫人も調停委員に担ぎ出されるなど地元の名士である。

それにしてもこの校長先生の平等ウンウンの考え方こそ戦後教育を荒廃させた問題の思想であると感ずる。 教育機会の平等を確保するという政治目的が拡大解釈され、成果も平等にしなければならぬというのはどういうものか。人間みな異なるDNAを持っているのだ。「哲学が変ればすべてが変る

なぜか靖国神社のA級戦犯合祀問題も話題にあがった。石原氏は極東軍事裁判の不当性を訴えるが、仮にその裁判に問題あるとしてもかくのごとき裁判を受けねばならないような敗戦に至ることになる開戦を決意した責任を誰がとるのかとグリーンウッド氏が問い詰める場面もあった。

翌朝、飯塚氏がライトの切り忘れでバッテリーを上げてしまい出発は11時にずれこむ。午後は南関東で雨の予報のため、日光観光は中止して早めに小雨の中、自宅に無事帰着。

2006年4月1日、バイク仲間の徳山四郎氏がご子息徳山昌守君のWBCチャンピオン9度目の防衛を祝う屋外バーベキュー・パーティーに招待してくれた。押川氏と連れ立って穴守稲荷近くの会場で焼肉とお酒を楽しんだ。200人位の参加者があったが、チャンピオンは終始にこやかに談笑してくれた。

チャンピオンベルトを掲げる徳山昌守

2006年9月18日、昨年10月の四国ツーリング以降活動を停止していた石原隊は久しぶりに福島県の飯坂温泉にある穴原温泉摺上亭(すりがみてい)大鳥という豪華温泉旅館にでかけ 、12年記念としてどのようなツーリングをしたいか話し合った。 (Hotel Serial No.364)折からの台風14号で土砂降りの雨だったため、中本氏を除き、全員4輪車での参加であった。

ルート66、ニュージーランド北島・南島縦貫ライド、ハワイ島マウナケア山(4,201m)登山ライド、三陸リヤス式海岸沿いに北上し下北半島を廻って日本海側を新潟まで南下する案、紀伊半島・出雲・島根・山口と日本海沿いに走る案、九州案などが提案された。

摺上亭(すりがみてい)大鳥は築7年で、JAの経営とのこと。建物の設計といい、工事といいすばらしいが、田圃の中の巨大施設には違和感を感ずる。 立地がよくないのと投下資本を回収しようとして料金を高めに設定してるためか、利用客が少なく、閑古鳥が鳴いていた。遅れてきたバブルとでもいいたい現象だ。バブル末期に民間銀行が不良債権で消えてゆくなか、特別扱いを受けたJAがこのような無駄な施設に 巨大な米代金を投下していたことに憤りを感ずる。旅館経営者の荻野氏はJAは各地でこのような無意味な投資をして撤退して行ったと指摘していた。

穴原温泉摺上亭大鳥の玄関前で

翌、9月19日、単騎帰った中本氏を除く全員が磐梯吾妻スカイラインのドライブを楽しんだ。グリーンウッド氏が1996年8月に家族とここを訪問した時は雲が千切れて飛ぶ風の強い日だったが、今回は台風一過で空気は透明であった 。しかし風は強かった。荻野氏と二人で吾妻小富士に登る。

吾妻小富士山頂から浄土平と東吾妻山を望む

所用があって4時までに事務所にかえらなければならない押川氏を母成グリーンライン→磐梯熱海IC経由で郡山駅に見送る。計らずも11月に予定しているwakwakの安達太良山・西吾妻山・磐梯山登山の事前調査となった。その後はこの旅に継続して行った八幡平・蔵王 山登山の旅に出発すべく、一関に向かって北上した。

2006年11月23-24日、石原隊は来年の予定を話し合うために茨城県の水木浜を望む絶好の丘の斜面に建つはぎ屋旅館に集まった。(Hotel Serial No.377

本来バイクで出かけるのだが雨の予報を尊重して各位車で出かけた。雪のためJRで直行した荻野夫妻を除き、常磐道の守屋SAで集合した。 余裕をみて鎌倉を3時間半前に出発したが2時間でついてしまった。1時間は高木仁三郎の「原子力神話からの解放」を読んで過ごした。

宿での会議の結果、2000年に走ったルート66の未走行部分、即ちシカゴからキングマンまでを消化することに決した。国内では東北地方全てを廻る案に人気が集まった。

会議後は太平洋を見ながら温泉とアンコウ鍋に舌鼓を打った。菅原氏は夕食後、ベンツで帰る。

浜の侵食がすすむ水木浜

宿の主人の話によると、70年に一回の金砂(かなさ)神社の大祭礼が 行われる水木浜はかって幅100メートルあったという。火山地帯を源流とする那珂川は黒い砂を供給するが、日本列島最古の地層を含む石英の多い地層を流れ 下る久慈川は白砂を浜に供給してくれたという。しかし河口と水木浜の間に日立港を築いた結果、久慈川の漂砂が途絶え、浜は急速に痩せ、ついに無粋な防波堤 を築き、テトラポットを投入せざるを得ない事態になってしまったという。折角巨額の税金を投入した肝心の日立港は久慈川の砂で埋まり、毎年ドレッジングせ ざるをえなく、使い物にならないという。自然の節理を無視した行政による税金の無駄使いが自然から強烈なしっぺ返しを受けている という構図である。

宿の主人は自然石を使った沈堤を沖に建設し、浜を再生する案を県に提案したが漁民の反対で頓挫しているという。漁民は沈堤は漁礁になり長期的には漁業のた めには良いことを知っているが、目の前に差し出される保証金ほしさのために反対するのだという。保証金は麻薬のようなもの。 望ましい政策をゆがめているのだ。新聞によれば2007年から実施される「戦後最大の農政改革」も補助金でゆがめられそうだと言う。

最近は浚渫費を節約するために漂砂が浜に沿っ流れるように橋で陸と連結する島式漁港が農水省によって考案されているが産業用の巨大な港に適用されたとは聞こえてこない。

赤倉にJRで帰る荻野夫妻と千葉に住む北原さんと別れ、残りのメンバーは日立市から常陸太田→常陸大子(だいご)→明神峠→大田原市→東北道西那須塩原ICに抜けて帰るコースを取る。

常陸太田では坂東巡礼の次の目的地の一つ佐竹寺の名前も見るが、水戸光圀が晩年の10年間、家臣33名と隠居した西山荘を訪れる。 講談に登場する黄門とちがって光圀はあのように自由に諸国を漫遊せず、部下の佐々宗淳らを全国に送り出し、大日本史編纂用の資料を収集したのだという。西山荘は広大で巨木が残り、紅葉が素晴らしかった。 講談の「水戸黄門」に登場する助さん格さんは実在で佐々宗淳と安積覚といい、大日本史編纂に携わった学者であったという。これら家臣が住んだ不老沢(おいぬさわ)の晏如庵(あんじょあん)で抹茶を賞味。 ここで隊長から茶道の作法を教わる。

鎌倉時代から秀吉の時代は八幡太郎義家の弟の新羅三郎義光の流れを汲む常陸源氏一族は久慈郡佐竹郷に住んでいた。源昌義が佐竹寺で節が1つしかない竹を見つけ、これを瑞兆とし、姓を源から佐竹に改めたとという話が残っている。鎌倉時代から400年間この地を治め ていたが、西軍に見方したため家康の命で国替え処分を受け秋田に移ったという。 現在に至るまで茨城・秋田両県における佐竹の殿様の人気は高いという。

西山荘

白砂を海に供給する久慈川を遡り常陸大子に向かうと途中、袋田の滝がある。ここに立ち寄り、うどんを食す。滝は久慈川の支流が男体山や月居山(404m つきおれさん)の 火山角礫岩層の硬い岩石と浸食されやすい凝灰質の砂岩や頁岩が層状になっていたため、硬質の火山岩が造滝岩となり、滝川の浸食作用により四段の滝が形成さ れたといわれる。石原隊長の言によれば滝の上流は平地で水田もあるという。

袋田の滝

月居山の山頂は樹木に覆われて眺望はないが、この樹木の屋根が居心地が良 く、西 行も四季毎に趣があると記したという。この山の登山はお勧めだという。登る時はけっして滝側から登らないように。また山頂近くに源義家が奥州征伐の時 に、このお堂の中に一夜こもって戦勝を祈願したという「月居山光明寺観音堂」がある。地形図を見ると生瀬富士、袋田の滝、月居山、男体山、篭岩と一直線に 連なっている。断層に見えたので調べると棚倉構造線の西側3-4kmを平行に走っている。

棚倉構造線とは福島県東白川郡棚倉町付近を通り北北西に走る幅2〜3キ ロメートル、延長60キロメートルの、著しく破砕された岩石が分布する地帯である。更に北に延長すると月山や羽黒山を通り男鹿半島に抜けると考えられてい る。


常陸大子で給油し、明神峠のトンネルを通過して那珂川を越え、大田原市経由東北道西那須塩原ICに抜けて帰る。 明神峠の周辺は美林が多く、間伐材なども丸太商品として出荷されておりいまだ林業がかろうじて生き残っている気配を感じた。途中八溝山(やみぞさん)が遠くにチラッと見えた。 2日間はバイクで来なかったことが悔やまれるような好天であった。

石原隊ツーリング記録

Rev. December 25, 2017


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