坂東巡礼

第4回 27-33番

山木会の有志 による坂東の第3回巡礼を2007年4月28-30日の3日間行った。

西川隊長以下、北澤(章)、北沢(栄)夫妻、大久保(博)、松本(英)、飯田(邦)、 藤島池田(司)、和田(忠)、 青木の11名が継続参加であった。 加畑(高)が笠森観音から、また小澤(宣)が千葉寺だけ参加 した。

第4回-第1日

少しでも早く滑河駅に行こうと京成特急スカイライナー9号を使う計画を立案してしまったので土壇場で特急券をまとめて買うというハメになった。これもなん とか乗り越え、予定通り、9:19に滑河駅に到着。ここではスイカ・カードは使えず、和田 はJTBで購入した乗車券の経路に成田線が入っておらず、新しく乗車券を買い直さねばならなかった。

滑川観音は利根川沿いにあり、少し下流の佐原の対岸は水郷である。2003年、サッパ船をチャーターし、約1時間、加藤洲十二橋めぐりをしたことを思い出 す。滑川観音の仁王門は1501年建造の重要文化財でいままで大火に焼け残ったのは仁王の威力ということになっている。 注連縄に乾燥した蔦をからめてあるところがめずらしい。とってかえして滑河駅より銚子に向かう。

銚子駅前のレストラン「かみち」でイワシづくしの昼食をとる。生ビールでご機嫌になって、雨の中を飯沼観音に向かって歩く。雨宿りをした店の前が飯沼観音 だった。銚子の町はこの寺の門前町として始まったとされる位の大きな寺だが、第二次大戦で消失したとのことで、観音堂はコンクリート製であった。納経所は 交差点を渡った円福寺本坊にあった。銚子の主要道路がかっての円福寺境内を十文字に分断してしまったことを物語っている。

28番滑川観音の仁王門

27番飯沼観音

番外満願寺さざえ堂

飯沼観音から4km歩いて番外の満願寺にたどり着く。銚子観音とも呼ばれるらしい。ここは円福寺の奥の院だ。金色に輝くさざえ堂は新しい。裏山となる愛宕 山の切り立った崖を背負って建っている。

ついでにと愛宕山に登り、山頂にある地球が丸く見える 丘の展望台に登る。風が猛烈に強かったが、銚子のある岬はまさに島のようで3方が海に囲まれていることを確認。犬吠埼と反対の西側に迫力ある屏風ヶ浦の垂 直の崖が8キロほど続いているのが見えた。北西遠方には掘り込み港を持つ鹿島コンビナートが霞の中に見えた。

屏風ヶ浦の手前に大きなマリーナがあった。銚子マリーナというらしい。翌日ヨット好きのJR職員から、8メートル級の年間係留費は30万円だが、外洋に面 しているため常時うねりがマリーナ水面に入り込み、浮かぶ別荘としては快適ではないと聞く。

愛宕山を下って犬吠埼に向かう。犬吠埼も猛烈な風が吹いていた。グリーンウッド氏にとっては若き頃、スバル360に家族を乗せてここを訪れて以来2度目の 訪問であった。

弓ヶ浜から犬吠岬を望む

弓ヶ浜に下り、銚子電鉄の君ヶ浜駅から銚子駅に戻る。社長に公金を使い込まれて倒産寸前という銚子電鉄は人気がでたのか連休前のためか座ることもできない 程の人気であった。 のどかな田園地帯や緑のトンネルの中をゆれながら走るのはいかにも情緒がある。駅に着いたときはホームから吹き飛ばされるほどのダウン・バーストを食ら い、電車は止まってしまった。銚子電鉄を救うために社員が手作りしたという「銚電のぬれ煎餅」をみやげとつまみとして買い求め て土砂降りの嵐が通り過ぎるのを待つ。「銚電のぬれ煎餅」はなかなかおつな味であった。

夜は「かみち」の対面にある「新橋」というレストランで夕食とする。皆、しこたま飲んで、店のものを驚かす。銚子プラザホテル泊Hotel Serial No.380)池田(司)は仕事のため、遅れて夜半にホテルに到着。

後日、東北震災の1周年の2012/3/11、小泉八雲が「生ける神(A Living God)」と賞賛した濱口梧陵がこの銚子 で醤油醸造業を営んで蓄えた巨額の私財を蓄えていたが、郷里和歌山の紀伊国広村が安政南海地震の津波が郷里の広川町を破壊したとき、最大級の堤防・広村堤 防を約4年かけて修造したことを知った。現・ヤマサ醤油の ご先祖である。江戸と紀州が銚子と利根川水運経由太平洋海運でつながっていたことなど、初めて知った。米本位制下の当時は商業は課税対象でなかったため、 商人は江戸で膨大な利益をふところに入れ、紀州藩の黙認の下、社会事業、地方自治のリーダーシップを振るうことができたのである。

第4回-第2日

銚子から総武線で成東までゆく。総武線は6,000年前の温暖化で生じた縄文海進時代の波打ち際沿いに走る。そのまま乗っていれば東京に行ってしまうので 成東で東 金線に入り、大網で外房線に乗り換えにようやく茂原に到着。ここで加畑(高)と合流。身軽にするためにコイ ンロッカーに不要なものを残す。事前調査に従い、小湊鉄道バスの長南営業所行きを使おうとすると次のバスまで小一時間待たねばならない。加畑(高)を除き、全員、兎に角バスに追いつかれるところまで歩こうということになる。4km歩いたところでバスに追いつ かれると判明。墨田バス停 でバスを捕まえる。愛宕バス停から3km歩いて31番笠森寺に到着。笠森観音近くで牛久行きのバスに追い越されて、調査不足だったと悟る。

そもそも坂東巡礼に興味を持ったのは中学時代のクラスメートのクリさんに笠森観音が印象的だったと聞いたからだ。巨岩の上に数十本の柱で支えられた見事な 四方懸造(かけづく)りで長野 市淺川にあるブランド薬師(ループ橋の西側)を思い出させたという。桃山時代のものがそのまま残っていて重要文化財に指定されている。この辺は全山が笠森 層と称する地質層で自然林の巨木の新緑が美しかった。

31番笠森観音

32番清水観音

途中買ったおにぎりを笠森観音の境内で食して昼食とした。帰りは上手い具合に深沢倉庫バス停で牛久発茂原行きのバスを捕まえることができて約1時間早く茂 原につく。館山までの車中のなぐさみにと昨夜の飲み残しの焼酎を「銚電のぬれ煎餅」とともに楽しもうとプラスチック・コップと水1リットルを購入。

外房線はほぼ1時間に1本走っているため、前倒しのまま長者町に到着。小さな田舎町で期待したタクシーも1台しかない。それも先客にとられてしまった。1 時間前倒しのため時間はある。清水寺へは徒歩で往復することにする。清水観音の八間四面の本堂は1817年の江戸期のものだそうだが、濡れ縁を支える斗栱(ときょう)と呼ばれる通常軒に使われる独特の組物が珍しかった。長者町駅は小さな駅でコインロッカーもない。水1 リットルかついで4kmを往復するのは結構しんどかった。皆かなりの俊足で1時間前倒しを継続できるかもしれないと最後に走ったのが利いたようだ。

安房鴨川で内房線に変るがなんのその、焼酎も入って館山まではアットいう間であった。

ホテル マイグラント泊(Hotel Serial No.381

第4回-第3日

館山駅で列車を待つより早いと3km歩いて那古寺に向かう。那古寺の本堂は改修中であった。本来はここが結願寺だが、我々はあと2つ残している。寺の庭か ら鏡ヵ浦が望めた。

那古船形駅まで歩いて内房線に乗り、君津でJR特急さざなみ10号に自動的にかわるのをきらって普通列車にのりかえ木更津駅にむかう。日曜日は高蔵寺行き のバスはないので東口からタクシー3台で往復する。交渉で待ち時間はサービスしてもらった。

高倉観音の二層屋根の本堂は十二間四面の大堂で、床も天井も高く、少しエンタシスをもつ、円周1.9m円柱の柱列が88本あって見事なものであった。仮修 理した屋根をのぞき、室町時代のものだそうだ。 当山の興りは用明天皇の代といわれ、645年大化の改新に成功した藤原鎌足が鹿島神宮に参詣の折650年に構建したと伝えられ。鎌足桜という桜も残ってい る。鎌倉の浄 妙寺裏には鎌足稲荷があり、鎌倉の地名も鎌足に由来するという説がある。

33番那古観音

30番高倉観音

木更津駅西口で昼食をとり、千葉寺近くに住む小澤(宣)に13:00に本千葉駅に到着すると連絡する。小澤(宣)さんは奥さんと一緒に寺で待っていた。坂東は1番から4番まで一緒に歩いた仲だ。仕事で忙しいため休んでいるの かと思っていたが、大病したのだという。皆で記念撮影し、近くの青葉の森公園で団らんし、回復を祈って別れた。

29番千葉寺にて

京成千葉駅まで歩き、そこから本千葉に移動して15:00には地下街の居酒屋 旬 さがみに到着、 そこで満願祝賀を行い散会した。 

西国、坂東、秩父併せて百観音を結願した隊長は信州の善光寺と別所の北向観音に御礼参りできるが、残るメンバーは全行程330キロの信濃三十三ヶ所の 巡礼を継続して百観音結願をめざすことにしている。

May 21, 2007

Rev. March 11, 2012


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