平泉・八幡平・蔵王山

周遊ドライブ

2006年9月18-19日のバイクツーリングが台風14号のため ジープでの参加になった。4輪車で東京ジャングルを苦労して通過し東北道に出かけるなら、かねてより懸案の東北地方をめぐる家族旅行を引き続き継続するの が良いだろうと考えた。宿は社会保険庁がバブルに乗って建設した施設、そのような施設がないところでは郵政公社が同じように展開しているカンポの宿を利用 した。 建物の質は良いのでサービスの悪さを我慢して年金の損失分や高い切手代金による損失分をリカバリーするのも悪くないだろう。

紫色ルート

第一日

2006年9月19日、郡山駅で正午に押川氏を下ろして、あとは東北道を北にまっしぐら。国見SAで昼食、長者原SAで休憩しただけで200kmを走り、 午後4:10に宝竜温泉かんぽの宿一関(Hotel Serial No.365)に到着。ここで新 幹線とバスでたどり着いたミセスグリーンウッドと合流。

かんぽの宿一関からは2005年6月登った栗駒山が夕日を背景にしてよく見えた。

第二日

一関近傍には100mの石灰岩の断崖をもつ猊鼻峡(げいびきょう)がある が、時間がないのでパス。ナビに毛越寺を入力して指示に従って行く途中、崖の下に達谷窟が見えた。先をいそいでいたので通過した 。奥州攻めの時、頼朝はここを訪れているという。

毛越寺には平安時代の作庭様式の浄土庭園と臨池伽藍跡が発掘再現されていた。隣には観自在王院庭園があり、牛車の格納庫跡も残されていた。

毛越寺の浄土庭園

金色堂

次に中尊寺を訪問。50年近く前の学生時代に一度訪問したことがある。今回非常に長くかつ急勾配に感じた月見坂の記憶は全く残っていない。金色堂の鞘堂は 一回り大きいコンクリート製になり、金色堂も解体修理されて黄金色の螺鈿が光り輝く姿を見せてくれていた。学生時代にみたみすぼらしい姿を見ないでよかっ た。武力で制圧した頼朝が平泉の文化に抱いた劣等感が良く理解できる。やはり歴史的遺物は修理して見せなければ意味が無いと感じた。鎌倉幕府が作ったオリ ジナルの鞘堂も近くに移転して保存されていた。近くには伊達家が竣工した白山神社能舞台もそのまま残っている。

中尊寺にしろ毛越寺にしろ、「前九年の役」、「後三年の役」を契機として源氏と白河法皇との深いかかわりのうちに権力を手にした奥州藤原が三代 100年間にわたり繁栄した間に造られたものである。

奥州より凱旋した頼朝が中尊寺大長寿院の二階大堂に擬(も)して鎌倉の二 階堂の地に永福 寺(ようふくじ)を建立した。そしてその庭は毛越寺の浄土庭園をコピーしたものだろうという。

JRの踏み切りを渡って高館義経堂に向かう。ここも学生時代に訪問している。観光バスも入ってこず、従って観光客もすくなく、なかなかよろしい。高台から 望む北上川は美しい。

高館義経堂から北上川を望む

江刺に藤原郷を再現したテーマパークがあり、時代劇のロケに利用されているようだが、時間がないのでパスし、東北道で一 路八幡平(はちまんたい1,613m)へ向かう。 八幡平は楯状火山(たてじょうかざん アスピーテ)である。広い高原上のあちこちに様々な形の火山起源の小 さなピークがそびえ、その間に無数の沼や湿原が点在する。最高地点の標高は1613m。車山・蔵王山と同じく、車で山頂 近くまで登れる100名山の一つだ。盛岡を過ぎると左手に富士山のように裾野のスロープが美しい岩手山(2,039m)が見えてくる。 この山の標高は2,038mで、二つの外輪山からなる複式火山だ。頂上のドームは草紅葉で赤くなっている。そのドームの奥は険しい岩山だ。2001年9月 の北 海道ツーリングの時、バイクから その裾野を見て以来だ。岩手山を大きく回りこんで、松尾八幡平ICで東北道を降り、八幡平の台地に向かってアスピーデ・ラインを登り始める。

半分ばかり登ったところで硫黄を採掘していた松尾鉱山の旧社員宿舎が廃墟となっているのが見える。その近くには巨大な水溜めがある。坑廃水を、鉄酸化バク テリアを利用して中和させ、上澄水は赤川へ放流したのち残る沈殿物を溜めておく貯泥ダム とのこと。露天採掘跡地は埋め戻されている。戦後の石油産業の勃興とともに硫黄鉱山は競争に敗れて閉山されたのだ。根子岳・四阿山にもかって米子鉱山があったが同じ運命をたどっ た。

八幡平山頂近くのレストハウス駐車場に車を止める。北海道にある台風の影響で強風が吹いているが晴天である。ここから見る眼下の原始林と岩手山は美しい。

八幡平山頂レストハウスから岩手山を望む

完全装備で山頂に向かって登ってゆくと八幡沼が草紅葉のなかに紺色の水を湛えて美しい姿を見せている。 沼の奥、左手の突起は源太森である。八幡沼より一段高いところにガマ沼という火口湖がある。

八幡沼

八幡平は苗場山に似て山頂といってもどこか分からないほど平坦 なところだ。山頂は樹木にさえぎられて視界はない。 帰路、3つの火口湖を見る。

八幡平山頂にて

約1時間の散策の後、駐車場にもどり、御生掛温泉(ごしょうがけおんせん)に 向かう。途中、八幡平のピークの一つ、畚岳(もっこだけ1,578m)が美しい姿を見せており、その向こう 遠方に秋田駒岳がかすかに見える。

御生掛温泉に向かってアスピーデラインを下ると、谷の向こうに多量の湯気が立ち上っている。温泉にしては、規模が大きいいので地熱発電所の冷水塔の排気と 推察する。翌日津軽街道(国道341号)で地熱発電所の機器を運搬しているトッラックが三菱マテリアルの地熱発電所に入って行くのを目撃して確認。

八幡平アスピーテラインから畚岳を望む 左遠方に岩手山

御生掛温泉泊(Hotel Serial No.366) 完全な掛け流しの温泉だ。有り余る温泉を使った床暖房の新館に泊まる。暑すぎるので窓は開放で寝る。

第三日

出発前に御生掛温泉の源泉地帯を散策する。噴気が作るマッドポッドが沢山ある。なかでも大湯沼は最大のものであった。 湧き出る熱湯が川となって流れている。

御生掛温泉の大湯沼

津軽街道経由で乳頭温泉に向かう。途中の渋黒川や宝仙湖(玉川ダムの人造湖)沿いの道は原始林に囲まれ、自然が一杯である。

やがて秋田駒岳(1,637m)が左手に見え始める。秋田駒岳 は玄武岩と安山岩の二重式成層火山(コニーデ)である。山頂部北東側の北部カルデラ(1.2km×1q)と南西側の南部カルデラ(3km×2km)が相接 しており、カルデラ形成期の火砕流・降下火砕物が山麓や火山東方に分布している。北部カルデラは男女岳(最高峰1,637m)などの火砕丘や溶岩にほとん ど埋積されている。男岳(1,623m)は北部・南部両カルデラの接合部西縁上の峰である。南部カルデラには女岳・小岳・南岳火砕岳があり、それらからの 溶岩流がカルデラ底を覆っている。

山頂が紅葉している。秋田駒ケ岳の山麓を通って乳頭山(1,478m)の山麓にある大釜温泉まで車で入る。乳頭温泉では若い男女が足湯を使っている。若い 女性に人気のある一番奥の孫六温泉には歩いてゆくしかない。ここでUターンし、田沢湖に向かう。

乳頭温泉の大釜温泉旅館

田沢湖はカルデラ湖と考えられている。しかし噴火の痕跡はなく、クレータとしても隕石の痕跡がなく、諏訪湖のように四方を断層に囲まれてもいず。本当の成 因は不明とのことだ。湖面は海抜249mなのに水深は423mもあり、湖底は170m海面より低い。昔は田沢の潟、辰子潟と呼ばれたそうで、西側の湖畔に はこの湖の伝説の主の辰子姫の黄金像が建っている。かっては摩周湖のように透明度が高かったというが玉川の酸性度の高い水を灌漑用に導入したため汚染さ れ、全ての魚は死に絶え、透明度も下がってしまったという。

田沢湖、辰子姫の像、秋田駒ケ岳、乳頭山

田沢湖の南方にあり、みちのくの小京都といわれる角舘(かくのだて)の武 家屋敷は良く昔の面影を今に伝えている。秋田新幹線(狭軌のミニ新幹線、田沢湖線)が盛岡から直接入っているためか観光客が大勢散策している。観光客目当 てのリキシャまである。この町は、元和6年(1620)この地方を領していた芦名義勝によって造られという。豊かな仙北平野の北部に位置し、清流玉川と桧 木内川に沿い、三方は山々に囲まれた地形は、城下町を形成するに適した場所であったようだ。 藤原周平の「蝉しぐれ」 など武家物のロケ地に使われているようだが、彼の架空の海坂藩のモデルは鶴岡市なのだ。

角舘の武家屋敷のリキシャ

秋田新幹線沿いの秋田街道(国道46号線)で雫石町にある小岩井農場に向かう。創業者、小野義真、岩崎弥之助、井上勝の3名の頭文字をとって小岩井とつけ られたという農場は東西5km、南北15km、3,000haの巨大なものだ。明治時代に岩手山山麓の不毛の原野に風防の植林をしたというその林は巨木に 育ち見通しはない。そのなかに牧草地が点々とある。 農場を縦断する道を網張温泉に向かい何キロも走った末、ようやく岩手山を見通すことができる 農場経営の遊園地の広場を見つけることができた。

遊園地付属の羊毛館でグリーンウッド夫人は「メリノ種はスペイン原産でこの優れた羊毛の輸出で財をなしたイザベラ女王が コロンブスに航海資金を提供した。もしメリノ種が中世スペインになかったなら、コロンブスがアメリカを発見できず、世界の歴史は変わっていたかもし れない」という説明パネルを発見する。今まで読んだ歴史書「スペイン帝国の興亡」等には書かれていなかった見方なので 多いに興味を持って帰り、調べた結果を以下に記す。

羊の中で最も白く、最も細く、かつ捲縮が多く、長くて丈夫で、しなやかで、衣料用に適した羊毛を産出するメリノ種は北ア フリカから侵略した牧畜民族ムーア人の支配下のイベリア半島で (アンダルスの ことか?)、土着の羊と、ローマ人が持ち込んだ白い羊との交配によって生まれた。レコンキスタが成就し、回教徒の支配から脱することができ たカスティーリア王国はメリノ種の種羊を禁輸処置とし、その優れた羊毛の輸出によって大いなる利益を得た。これを原資としてイザベ ラ女王はジェノバ人クリストバール・コロンブスに大西洋横断の資金を与え、続くスペイン大航海時代の原資とすることができた。くやしく思った欧州各国の国 王はスペイン王室にメリノのプレゼントを頼んだ。オレンジ公のオランダに贈られたスペイン・メリノが南アフリカのケープ植民地を経て、1797年にオース トラリアに13頭が 移され、オーストラリアはメリノ王国となった。メリノ羊は湿気に弱い反面乾燥に強く、水や草が少なくても歩きまわって餌を探すことができる。半砂漠地帯で はメリノ種しか飼育できないといっても過言ではないのだ。

岩手山を背景にした小岩井牧場

グリーンウッド氏はここでニュージーランド、バックハウス社製のクラシックなオイルスキン製のツバ広帽子を購入する。木綿生地にワックスを塗ったもので 宇宙技術を転用したゴアテックス製に比べ、重く、洗濯もできないが、レトロな味が魅力だ。

午後4:00に小岩井農場を出発し、ひたすら東北道を走り、山形道に入って山形市のウェルサンピア山形(Hotel Serial No.368)に到着したのは午後7:00であった。山形の市街地を見下ろす丘の中腹にある。ここで一泊。 トクトクプランは安くしたがって宿泊客も多い。建物への投下資金回収はあきらめて、経費の収支さえ合えばよいとしているのかもしれない。

第四日

山寺に立ち寄る時間はないのでパスし、蔵王山を越えて東北道に向かうことにする。蔵王山は車山・八幡平と同じく、車で山頂 近くまで登れる100名山の一つだ。蔵王温泉、エコーライン経由刈田峠に向かう。小岩井農場で購入したオイルスキン製のツバ広帽子を着用し、リフトで馬の 背に登り、御釜を覗く。暫時、刈田岳(1,758m)の山頂に登る。刈田峠から刈田岳直下まで有料道路ハイラインが通じており、大勢の観光客や車椅子の人 まで続々と登ってくる。49年前 の学生時代、蔵王山に登ってお釜を覗いたことがあるが、写真から熊野岳(1,841m)からだったようだ。 刈田岳からは南方には来月登る予定の安達太良山とつい3日前登った吾妻小富士と 来月登る予定の西 吾妻 山が連なって見える。南西には飯豊山、西に大朝日岳のピークが見える。

蔵王山の刈田岳山頂より御釜を俯瞰 左手向こうは熊野岳

白石ICから東北道に乗り、高速中央環状線、高速湾岸線、横浜横須賀道路、逗子IC経由自宅に帰りついたのは午後6:30であった。横浜横須賀道路、逗子 IC経由としたのはたまたま横浜新道で事故があったためである。

それにしても荒川沿いの高速中央環状線と高速湾岸線はこの10年間に次第に渋滞するようになり、環状8号とおなじような状態になってしまった。地方に使わ れない道路を作り、大人口を擁する東京を南北に縦断する道がどうしようもなくなっていることに政治家諸君はどのような回答を用意しているのであろうか?

September 25, 2006

Rev. October 8, 2007


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