石原隊ツーリング記録

2003年ー2004年

2003年3月9日、メンバーの一人、徳山四郎氏のご子息、昌守(まさもり)君の結婚式に主要メンバーが集まった。フライウェイト級世界チャンピオンの披露宴であるから、900人近い人がホテルニューオオタニの鶴の間に集まり、おめでたを祝った。(2006/2/27に9回の防衛を果たしてめでたく引退)

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チャンピオンのキャンドルサービス

2003年5月27-28日、石原隊は潮来に出かけた。赤倉のホテル・オーナーの荻野夫妻が企画した旅である。隊長は体調がすぐれず、中本、押川、菅原は都合により参加できなかった。荻野夫妻はニュージーランドから持ち帰ったサイドカーで500km走って駆けつけた。徳山、徳山友人、グリーンウッド氏は海ホタルで合流。飯塚、斎藤、大須賀氏は潮来ホテル直行であった。(Hotel Serial No.252)大須賀氏は久しぶりにトライアンフでの参加であった。

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潮来ホテルオーナーと記念撮影

翌朝、サッパ船をチャーターし、約1時間、加藤洲十二橋めぐりをした。加藤洲は利根川、常陸利根川、横利根川に囲まれた三角州である。行政上は佐原市である。潮来市には前川十二橋めぐりもあるがこちらは蔵屋敷跡である。潮来ホテル前の船着き場から潮来のはなよめスタイルの船頭さんの乗る屋形船で出発し、二重ロックの水門を通過して加藤洲十二橋のある水路に入る。十二橋の下はエンジンを止め、昔ながらのサオで静かに進む。船頭さんは石原隊の面々と同年代だ。

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加藤洲十二橋

船頭さんの説明によれば、かって加藤洲に住み着いた人はベニスのように水路に囲まれた家屋に住んで水田を耕していた。互いの家は沢山の橋で連結されていた。その数は十二あったのか十二橋と呼ばれる。

いまではこの三角州は大規模な土木工事で4つの二重ロック式水門4個を残しすべて土手で仕切られ、内部水路の水位は利根川より50センチ程低くなるようにポンプで水をくみ出している。ロックは昔はヒンジ回転式であったが今では上下スライド式になっている。水のしたたり落ちるゲートの下を通過するので屋根が必要とわかる。船が通過する毎にロック内に多量の水がながれ込むのでこれは皆ポンプでくみ上げるわけである。

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与田浦をゆく屋形船

小さな水路は殆ど埋め立てられ、いまでは自動車で自宅にアクセスできるようになった。しかし村の中心の水路には十二橋が観光用に残されている。十二橋を過ぎれば、開けた水面の与田浦に出る。与田浦の突き当たりに水生植物園がある。かって車で来たことがある。後日訪問したオランダのヒートホールン村の水路と橋が全く同じ構造をしていることを発見。違いは護岸はこちらは石かコンクリート、向こうが木製であることくらいであった。

米作れの大号令のもと三角州内部は区画整理され、大規模水田に生まれ変わったが、米は余り、米価低迷で農家は採算がとれず苦しんでいるとのこと。よくテレビに紹介されるアヤメ、カキツバタ、ハナショウブの花の中を行く船は水生植物園の中の光景で本来の潮来のイメージとは異なるという。与田浦のアヤメはブラックバスが茎を食べてしまうので、土手の上で栽培しなければならないという。

帰路は霞ヶ浦の東岸を北上し、霞ヶ浦大橋を渡って、土浦北ICから常磐道に入った。いつ来ても土浦北ICに入る案内版が不備で、道に迷う。詳細地図無しにここに来てはいけないらしい。

2003年6月23日、徳山昌守の7度目のWBCスーパーフライ級タイトルマッチ防衛線を押川、中本と見る。同時にミニマム級タイトルマッチを見た。こちらはメキシコの王者がタイトルを守った。

2003年10月20日、隊長の体調が回復し、この24-25日に磐梯熱海温泉一泊のツーリングをすることになった。その直前は小諸でゴルフの予定である。鎌倉と群馬の往復400キロを節約して体力を温存するために事前に群馬県境町の隊長の家まで愛車を運んでおくことにした。鎌倉と関越道入口までの道路は全国に高速道路を建設した割にはよいものがない。結局、湾岸道路、荒川土手沿いの首都高速中央環状道路、東京外環自動車道経由のルートを採らざるをえない。関越自動車道入口まで120キロである。ここから本庄・児玉ICまで60キロに過ぎない。3時間45分で走破した。むそう庵でおいしい石挽蕎麦をごちそうになる。(Restaurant Serial No.223)

2003年10月24日朝、ゴルフ後宿泊していた中軽井沢の親戚の別荘を8:00時にジープで出発、10:00隊長宅着、バイクに乗り換える。東行する利根川沿いに東北道の館林IC向け、35km走行。利根川は天井川とはなっていないし、昭和30年代の土手改修後は水害は発生していないそうであるが、土手の上から見ると川沿いの土地は土手が一旦壊れたら広範囲に水害が発生する危険性を秘めていると感じた。12:00に東北自動車道佐野SA着。斎藤氏のヘリテージのバッテリーが上がったそうで、約1時間の遅れで到着。斎藤氏のヘリテージのエンジンは後藤氏のバイクで牽引してかける。全員そろって磐梯熱海温泉に向け出発。那須高原SAで給油。停電だそうで手回しで給油。ここでもバイクで牽引してエンジンをかける。「ホテル華の湯」泊。(Hotel Serial No.267)巨大・豪華な建物で風呂も24種あるそうだが、冷泉を沸かしているため循環式で、においもあり、感染の危険性を感じる。それでもアルキメデスの湯は面白かった。風呂に入って溢れる湯の量が体重と同じであることを確認できる。頭まで沈めずとも、ほほ体重と同じになるのはその分あらかじめ計量升の底上げをしてあるのだろう。地元のロータリークラブの集会で大変にぎわっていた。斎藤氏は近くのレッドバロンに4年使いだめになったバッテリーをタクシーで持ち込み、新しいバッテリーを買って帰り、交換。

2003年10月25日、磐梯山をながめつつ、会津若松市内を通過して日光街道を南下。5年前の1998年、石原隊が訪問した芦ノ牧温泉を通過。これも豪華な設備だった大川荘は倒産し、経営者が替わったそうであるが、営業は継続しているようである。若郷湖畔で小休止。

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若郷湖畔で休む愛車

茅葺の民家が残るという大内宿で紅葉狩りをしようと日光街道から枝道に入るが、渋滞のため断念。取って返して羽鳥湖経由、東北道白川ICに出る山間の道をとる。菅原グループは日光街道の道をとる。石原本体が採用した天栄村を縦断する道の紅葉はすばらしかった。天栄村には山の上に大型風力発電機が5台程設置されている。道木沢食堂で昼食。斎藤車は昨日と同じ症状を呈しはじめる。どうも充電がうまくいっていないようである。幸い押しがけでスタートできた。羽鳥湖周辺もすばらしい自然であるが時間がないため通過。西郷村で再度エンジンストップ。押川氏が引きがけを買って出る。ここで押川が夜の透析に間に合うように大須賀氏をつれて先行することになる。斎藤氏はエンジンストップしないようにアイドリング回転数を上げる。給油もエンジンをかけたままおこなう。多少リスクもあるが、白川ICから東北道にはいり、那須高原SAと佐野SAで小休止するもエンジンは回したまま。エンジン焼けを回避するため、小休止に止める。館山ICで降りて利根川土手沿いの普通道を石原宅にむけ走行。利根土手からみる秩父連峰に沈む夕日の景色は格別のものがあった。石原宅到着時に斎藤車のエンジンストップ。万事めでたし。皆で夕食をとり、散会。グリーンウッド氏は愛車を石原宅にあづけ、ジープで更に3時間かけて帰宅。

2003年12月3日、季節はずれの台風一過の晴天の下、群馬県の石原邸に預けておいたバイクを鎌倉の自宅まで、移動。斎藤、飯塚両氏が伴走してくれる。

2004年5月10日、雨の中、3日間にわたるバイクツーリングに出かける。中央道の釈迦堂SAで中本氏と合流するまでは押川氏と一緒である。東富士五湖道路経由のため、冬用革ジャンとチャップスの上に雨カッパを着用。中本氏はBMWで約束の時間きっかりに現われた。3人で松本経由、長野のある善光寺平に入る頃、雨は小降りになる。無線に聞きなれた飯塚氏の声が入る。近くを走っているようだ。小布施SAに集合しようと連絡。途中聞こえた音楽は斎藤氏が最近購入したホンダのトライクルが放送したものと判明。

6名が一団となって雨の上がった上信越自動車道を妙高高原に向かって走る。妙高の雪も溶けて残雪は谷筋に残るのみとなっている。妙高ICには荻野氏がサイドカーで出迎え。氏の経営する池の平の元で昼食をとる。(Hotel Serial No.255) 昼食後、荻野氏の奥様もサイドカーに納まって一路、本日の目的地、金沢に向かう。東方はるか遠くに頂上が平らな大きな山は苗場山(2,145m)であろうか?

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元で

北陸自動車道に入ってすぐのトンネル入り口に春日山の表示がしてある。後で地図をみるとトンネルは上杉謙信の城があった春日山城址の直下を貫通しているのだ。糸魚川を渡るところにフォッサマグマのサインが見える。ここより東が北米プレートに乗っており、西日本のプレートと不連続な断層を形成していることになる。トンネルに入るのが少し不気味である。北アルプスが海に落ち込むところはトンネルの連続である。黒部川を渡るころ、立山や剣岳が見えないか注意してみたが強い雨脚に遮られて視認できなかった。冨山を過ぎるころ、雨脚はますます激しくなり、走行速度を60kmに落とさねばならなくなる。水溜りにはいれば、足が水に入り、強い衝撃をうけて驚くという始末である。

今夜の宿は湯湧温泉、「湯の出」である。(Hotel Serial No.277) 金沢東ICに女将がハーレー騎乗で出迎えてくれるはずが、強い雨のため乗用車であった。ここから兼六園の脇を抜けて湯湧温泉まで35kmである。夕食時にくだんの女将が挨拶に現れたが、和服の着付けもまだしっくり来ないうら若き女性であった。バイクが縁で若い後継ぎに見染められたとか。意外にも群馬の生まれという。明日は白川郷まで道案内してくれるとのうれしい話だ。「湯の出」は10室のこじんまりした宿で施設も品良く、料理の腕も一流でおすすめである。苔むしたブナの大木をみながら豪華な露天風呂に入るというのもなかなかオツなものである。

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湯の出の豪華な露天風呂

2日目の2004年5月11日、朝は10時まで雨が上がるのをまったが、見切り発車で小雨の中を出発。一旦、金沢東ICにもどり、ここから国道304号で冨山県の福光市に向かう。この県境越えの山道がよかった。道の駅福光で中本氏は単騎で東京に戻るため先発した。福光市から五箇山に向かう路傍の苗を植えたばかりの水田も美しかった。休耕田にも水を張り、ちゃんと手入れしてある。いつでも稲作再開OKとお見受けした。全国一律の休耕田制度もあまり良いとはいえない。残すべきところと、完全に稲作からの転作をするところがあった方が合理的だと思う。

長い五箇山トンネルを出ると眼前に広がる庄川がつくった深い谷間の緑と金剛堂山、人形山、猿ヶ馬場山など1,800mクラスの峯々に残る残雪のコントラストがすばらしかった。庄川の渓谷沿いに白川郷を目指す。菅沼という場所に白川郷と同じ合掌造りの集落が保存されている。川沿いに発電用ダムが数珠つなぎに作られているが、白川郷と菅沼の他の集落はダムの底に沈んだのだろうか?

白川郷はかってタンデムで訪れた時と同じ姿を見せてにぎわっていた。ここで昼食をとり、「湯の出」の若き女将夫婦と別れる。かって通過した天生峠(あもうとうげ)が通行可能か聞くと、まだ無理という。標高1,290mでまだ残雪があるので無理かもと予想していたのだ。鏡花の不朽の名作「高野聖」の舞台となった峠で再訪したかったのだ。やむを得ず御母衣湖(みぼろこ)沿いに国道156号線を南下する。御母衣湖は庄川の最上流にあるロックフィルダムによってせき止められた白山の雪解水をたたえる人造湖だ。長大な湖畔をうんざりするほど走らされる。白川郷から少し南下したところで仰ぎ見た真っ白な白山は一度登ぼりたいという気持ちを持たせるに充分であった。荘川村で反転し、国道158号線を北上して松ノ木峠を越えて飛騨高山に向かう。荘川村から郡上八幡に向かうと荘川村の少し南に太平洋と日本海の分水嶺があったことを思い出す。長良川はここから太平洋に向かって流れているのだ。

午後3時になって、午後6時までに安房峠、松本市経由戸倉温泉にたどり着くのは無理と判断、高山市をバイパスすることにする。本日2回目の給油をして安房峠にむかう。アルプスの西側は山容は穏やかで真っ直ぐに坂を登坂する。平湯トンネルを越えと平湯だ。いつかここは再訪しよう。料金を払って真新しい安房トンネルに入る。長いが設備が新しいのでアルプスの山の中にいるという実感がわかない。しかし出口を出たとたん厳しい山容に圧倒される。あとは松本までかってダム建設に穿たれた旧式の狭いトンネルを数え切れないほど通過しつつ山を下る。ここを前に通過したのは2002年8月の奥穂高岳登山のときだ。

森永氏は一高の学生時代、高山から平湯に入り、ここから高下駄で安房峠を越えたという。坂巻温泉で一泊し、上高地に入って徳本峠(とくごうとうげ)越えで島々に下ったという。

松本で高速に乗ってしまえば、戸倉温泉までは一ッ飛び。笹屋ホテルは戸倉温泉でもトップクラスのホテルで施設は立派。(Hotel Serial No.278) だが大型ホテルはサービスがいまいちなのはやむをえない。

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笹屋ホテルにて

3日目の2004年5月12日は快晴。荻野夫妻は戸隠経由で赤倉に帰ることになる。残るメンバーは中 山道の和田峠からビーナスラインで車山、白樺湖を回って今回のツーリングをしめくくった。車山では昼食後、コロボックル・ヒュッテでコーヒーを楽しむ。押川氏は 大門峠で別れる。隊長以下、群馬の3人とは再び大門海道経由で中仙道に戻り、長久保宿で別れ、グリーンウッド氏は一路長野に向かう。

アマ無線の到達距離は12kmはありそうで、長久保宿で分かれてから、しばらく通話が可能であった。

グリーンウッド氏は長野に2日間滞在の後、一人、逆コースで自宅に帰る。双葉SAで給油、昼食をとっただけで後はノンストップ5時間であった。箱根宮の下では革ジャンも脱ぎ、真夏のスタイルと変わった。

走行距離は計測しなかったが、8回給油したことから約1,400km走行したことになりそう。

2004年6月28-29日、四万温泉(しまおんせん)に1泊ツーリングに出かける。関越上里SAに正午集合、渋川・伊香保ICより、中之条町経由で山口館に到着。(Hotel Serial No.281)ここで1泊。ここのお題目大露天風呂は多量の湯のかけ流しで、あふれる湯量が多いため湯船は透明。飲用も出来るし、カルシウム分はありとあらゆるところに析出して、温泉の感じいっぱいであった。南無阿弥陀仏と彫った大岩も印象的。少し乳白色に見える四万川の流れがすぐそばにあるのも魅力。

お題目大露天風呂

今年の夏の北海道大周遊、冬のフロリダ半島・キーウエストをレンタル・ハーレーでまわる周遊、来年夏のイタリアアルプス、コモ湖、ステビオ峠をレンタルのモトグッチで周遊する計画を検討した。

翌日は関越・北陸道周りで帰る荻野夫妻とは中之条町で別れ、吾妻渓谷経由、長野原に抜けた。吾妻渓谷は1998年のタンデムで志賀高原から水上へのツーリングで通過したところだ。長野原からは2001年6月石原隊が通過した鬼押ハイウエー経由で中軽井沢にぬけた。そのときにも休んだ、浅間山が見張らせる草原のなかのレストランで小休止。駅前の有名そばやでそばを食す。急にきた夕立を喫茶店でやり過ごし、関越の帰る本体とは別れ、佐久・清里経由、中央道の須玉ICに向かう。一宮御坂ICまでは中央高速を使うが、御坂峠も篭坂峠も普通道で抜ける。篭坂峠では強い西風が富士に突き当たってできた乱気流によって発生した雨の中を通過。タイヤが坊主になり、慎重に通過。総走行距離は555kmであった。帰宅後、タイヤ交換。

この旅の間に行われたタイトルマッチで昌守(まさもり)君は残念ながら9回の防衛には失敗。パパの体質を受け継いで、減量がきつくなっていたことが、敗因とされている。それでも9回も防衛したとはたいしたものだ。

2004年8月7日(土)、石原隊東京支部は箱根新道入口PAに集合、三島大社で北海道ツーリングの安全祈願をし、元祖「うなよし」(Restaurant Serial No.239)でうな丼を楽しみ、「白糸の滝」から富士山を時計方向に回って流れ解散とするツーリングを行った。

徳山氏のサイドカーが海老名付近で後輪のブレーキの加熱から火災が発生したと予定より遅れて到着。ブレーキパッドとブレーキシューをはずすも、ブレーキディスクそのものが熱変形してしまってメタルタッチしている。ハンマーで変形を修正してなんとか走れるようにするが、前輪だけのブレーキで箱根越えするのは技量が必要だ。奥様も連れているため、「うなよし」で昼食をとった後、徳山氏は先に帰る。 徳山氏は昌守君が9回目のタイトル防衛に失敗したのは、リングに上るとき2分間も噴霧したドライアイスの雲の中を登場させられたのが原因ではないかと疑っていた。炭酸ガス中毒でもうろうとなったまま、試合がはじまってしまった。計られた!といっておられた。復帰するかどうかは未定だが母親としてはもう良いと!

「うなよし」は仕入れたうなぎを2-3日、富士の伏流水で打たせるので無駄な脂肪がとれ、うまいのだという。なるほど、店外に列ができるほどの賑わいだ。

白糸の滝は3回目だが、見るたびに印象が異なる。柿田川では富士の伏流水が湧き出ているが、ここでは伏流水が滝のように崖からしたたり落ちている。他の滝と異なるわけである。前回来たのは9年前の1995年の夏、タンデムで富士を反時計回りで周遊したときだ。朝霧高原の屋根が花壇になっている観光スポットもハンググライダーの練習場も健在のようであった。青木ヶ原では小雨であったが、 北京で開催の日中サッカー優勝戦に間に合うように走り抜ける。本日の走行距離は250kmであった。

石原隊ツーリング記録

Rev. June 20, 2007


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