本名=森村三郎(もりむら・さぶろう)
明治40年2月12日—昭和34年11月18日
享年52歳
東京都東村山市萩山町1丁目 小平霊園12区4側26番
小説家。埼玉県生。東京帝国大学卒。昭和8年田辺茂一の紀伊國屋書店に入る。『行動』編集長となり、10年『弔花』などの行動主義文学を発表。16年高見順らと報道班員としてビルマ(現ミャンマー)戦線に従軍し、その体験を『行軍』に著す。『仮面天使』『青春』『好きな絵』などがある。夫人は歌誌『藍』の歌人森村浅香、長女は作家の森村桂。
真介は康子の命がすくわれるなら、手術を受け、性を喪失してもいいと、最初から考えていた。彼女はそうなっても、子供たちにたいして立派に母のつとめを果せる。ときたまホルモンを補給すれば、彼女は今までとおなじように生活できる。ただ夫とのあいだに一つの異変がおこるだけだ。彼女はいわば妻でなくて、親しい伴侶、友人になるだろう。最初から夫婦愛より友情の濃い間柄だったし、近年はますます淡い関係に入っていた。結婚当時から老人の精力しか示せない真介が、他に事実上の妻を持たなければ、彼女は性をうしなっても幸福だろう。写真に見入りながら、真介はふいに鋭い痛みで背中を突き刺された。この白いすべての器官は、ある男にとって、あらゆる財物より貴い、生ける宝だったのではなかろうか。親しみ狎れて愛著を深めた、この世の唯一のものが、科学者の誇らしい研究材料になってしまったのを、彼はいまもどこかで悲しみ嘆いているかもしれない。
真介は妻とむすばれている紐帯をそこに見た。たまたまにせよ、もう彼女と手をたずさえて、あの暗い深い谷間にさまよい、一輪の薔薇も摘めなくなるのかとおもい、彼は急に悄然としてきた。
(好きな絵)
プロレタリア文学運動が次第に勢いを失っていった昭和初期の先行きの知れぬ不安が鬱積した時代、文学界は大いに混乱をきたしていた。そんな中で舟橋聖一らとともに提唱した、思考・論理に対して行動を重視する〈行動主義文学〉は一つの活路を見出し、その代表的作家として認められてもいた豊田三郎。戦後は『仮面の天使』などのベストセラーを書いたが、昭和34年11月18日、東京・高輪光輪閣での会合に出席するため、魚籃坂を登る途中に心臓発作がおこり、無理を押して登ってしまったことが最悪の事態を呼び込んでしまった。坂下の病院に運び込まれて治療を受けたが、妻と娘に看取られながら狭心症のため急逝した。葬儀委員長は親友野口冨士男。告別式は神式で行われ、棺には愛用の将棋盤が入れられた。
秋の彼岸が近いというのに、強烈な陽射しが真っ向から差し込んでくる狭い塋域に窮屈そうな二つの碑石が建っている。正面の碑には「森村家之墓」、右側面に豊田三郎の没年月日、裏面に平成6年4月森村義建立とある。長女の作家森村桂の『父のいる光景』によると書斎の小さな床の間に置かれていたという豊田の骨壺は、4年目の命日に、できたばかりの墓に納められたと記してあったのだが、左の傍らに建つ横型洋墓がどうやらその墓のようである。原稿用紙にあった署名を拡大した「豊田三郎」とのみ刻まれた石碑。手をかざすと火傷をしてしまいそうなほどに熱気を放っている。手を合わせていると、草むらから一匹の蟋蟀が顔を覗かせてこそこそと碑裏に逃げ込んでいった。
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