徳冨蘆花 とくとみ・ろか(1868—1927)


 

本名=徳冨健次郎(とくとみ・けんじろう)
明治元年10月25日(新暦12月8日)—昭和2年9月18日 
享年58歳 ❖蘆花忌 
東京都世田谷区粕谷1丁目20–1 蘆花恒春園 



小説家。肥後国(熊本県)生。同志社英学校(現・同志社大学)中退。明治18年受洗。22年兄徳富蘇峰の民友社に入社。31–32年『不如帰』、33年『自然と人生』で人気作家となる。『思出の記』『黒潮』『みゝずのたはこと』『黒い目と茶色の目』などがある。



 



 然しながら已が造つた型に囚はれ易いのが人の弱點である。執着は常に力であるが、執着は終に死である。宇宙は生き居る。人間は生きて居る。蛇が衣を脱ぐ如く、人は昨日の已の死骸を後ざまに蹴て進まねばならぬ。個人も國民も永久に生くべく日々死して新に生れねばならぬ。儂は少くも永住の形式を取つて村の生活をはじめたが、果して此処に永住し得るや否、疑問である。新宿八王寺間の電車は、儂の居村から調布まで已に土工を終へて鐵線を敷きはじめた。トンカンと云ふ鐵の響が、近來鐘の如く儂の耳に轟く。此は早晩儂を此巣から追ひ立てる退去令の先觸れではあるまいか。愈電車でも開通した暁、儂は果して此処に踏止まるか、寧東京に歸るか、或は更に文明を逃げて山に入るか。今日に於ては儂自ら解き得ぬ疑問である。
                                                       
 (みゝずのたはこと)



 

 明治36年1月、蘆花は『黒潮』巻頭に平和主義者から国家主義者へと変容した兄蘇峰へ、「告別の辞」を掲じた。のちトルストイに傾倒し、晩年はキリスト者として東京郊外で半農生活を送ったが、榛名山からの秋風が吹きはじめた昭和2年9月17日、療養先の伊香保温泉仁泉亭から、その訣別以来、交渉の絶えた蘇峰のもとへ、矢継ぎ早に至急電報、至急電話が飛んだ。翌18日、蘇峰一行が到着し、ここに24年ぶりの和解は成ったが、夕刻より病状(衝心症)は悪化、「後のことは頼む」と遺言して、午後10時50分にその鼓動は止まった。
 ——なお、徳冨蘆花の号は〈「蘆の花は見所とてもなく」と清少納言は書きぬ。然もその見所なきを余は却って愛するなり〉から採っている。



 

 憧れのトルストイを訪問し、その田園生活に影響を受けた蘆花は、帰国後まもなくの明治40年2月27日、東京府下北多摩郡千歳村粕谷356番地(現・東京都世田谷区粕谷)にあった一軒の茅屋に住まいを移した。以後死去するまでの20年間を、〈余は斯の雑木林を愛す。木は楢、櫟、榛、櫨など、猶多かるべし。大木稀にして、多くは切株より族生せる若木なり〉と記したこの武蔵野の雑木林の中で過ごすこととなったが、没後、母屋の先の櫟林に埋葬された彼の気分は、存分の田園生活を楽しんであったのだろうか。
 「徳冨蘆花夫妻之墓」と蘇峰の筆を刻した自然石碑の前に、今しがた捧げられたばかりか、名も知らぬ紫色の野の花が深い緑の風をうけている。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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