徳永 直 とくなが・すなお(1899—1958)


 

本名=徳永 直(とくなが・すなお)
明治32年1月20日(戸籍上は3月9日)—昭和33年2月15日 
享年59歳 ❖孟宗忌 
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園19区1種24側17番 



小説家。熊本県生。黒髪尋常小学校中退。大正15年共同印刷争議にやぶれ解雇される。昭和4年『戦旗』に『太陽のない街』を発表プロレタリア作家として注目された。「ナップ」に参加。次いで『失業都市東京』『ファッショ』などを発表。『八年制』『光をかかぐる人々』などがある。



 



 太陽は、山から山へかくれんぼした。
 「谷底の街」は事実「太陽のない街」であった。
 千川どぶは、すっかり旧態を失って、無数の地べたにへばりついたようなトンネル長屋の突出しに、押し歪められて、台所の下を潜り、便所を繞り、塵埃と、コークスのカラと、空瓶や、襤褸や、紙屑で川幅を失い、洪水によって、やっとその存在を示しているに過ぎなかった。
 その千川どぶが、この「谷底の街」の中心であるように、それから距たり、丘陵に沿うて上るほど二階建てもあり、やや裕福な町民が住んでいた。それは、洪水を避け、太陽に近づくことであり、生活の高級さを示すバロメータアのようなものであった。役付職工、事務員らは松平という華族と門を並べている大川社長の邸宅が、山の頂辺にあること等から押しても、ごく自然なことと考えていた。
                                                             

(太陽のない街)



 

 小学校を6年で中退後、印刷工場の見習工、文選工などを経て上京、博文館印刷所(現・共同印刷)に就職し、出版従業員組合結成に加わった。共同印刷争議に敗れ解雇されるという体験をもとにまったく無名の一印刷労働者が書いた『太陽のない街』は、プロレタリア文学の中でも労働者出身の文学として特筆に値する記念碑的作品となったが、のち日本プロレタリア作家同盟を離れて転向。戦後は新日本文学会の創立に参加し、『妻よねむれ』などをのこしたが、徳永の体は蝕まれ、昭和32年夏頃から胃腸に癌症状があらわれた。12月に癌研究会付属病院(現・がん研究会有明病院)に入院し手術を施すもすでに手遅れの状態で、翌1月に退院するが、昭和33年2月15日、世田谷の自宅で遂に永眠する。



 

 結婚早々に労働争議に巻き込まれ、官憲につきまとわれる日々を過ごした妻トシヲは昭和20年6月3日の朝、四人の子供を残して病没した。徳永は『妻よねむれ』を発表してその死を悼んだ。後妻に迎え入れた作家壷井栄の妹新とは僅か2か月ばかりで破局、壷井栄との抗議と弁明のやりとりは「草いきれ論争」にまで及んでいくのだったが、曰く因縁の壷井栄や妹新も亡くなって久しい。
 ——溢れる陽射しに勢いを増した樹葉が、心細そうな自筆文字で「徳永の墓」と刻された桜御影石の小さな墓標を、背後から押し出すようにざわめいていた。 狭い塋域に敷きつめられた大谷石のすきまから這い出てきた蟻が、律儀そうに尻をふりふり、隊列をつくって私の足下をやり過ごしていく。太陽は西へ向かって歩を速めた。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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