本名=戸板康二(といた・やすじ)
大正4年12月14日—平成5年1月23日
享年77歳
神奈川県横浜市鶴見区鶴見2丁目1–1 総持寺中央ホ–1–9(曹洞宗)
演劇評論家・小説家。東京府生。慶応義塾大学卒。戦中戦後の『日本演劇』を編集。以後、演劇評論に進み、『わが歌舞伎』『六代目菊五郎』『対談日本演劇史』などを発表。また江戸川乱歩のすすめで『車引殺人事件』を発表、『団十郎切腹事件』で昭和34年度直木賞受賞。『丸本歌舞伎』『劇場の椅子』などがある。
信州に疎開するために、汽車に乗ったのが昭和二十年三月、たまたま別の二等車に、別所にゆく花柳章太郎が乗っていた。予めビスケットを届けておき、上田で降りた時、プラットフォームを走って、羽左衛門の客車までゆくと、南京豆を返礼にくれた。
「市村羽左衛門が花柳章太郎に贈る、ヘッそいつが南京豆、これも戦争のたまものかい、有難くできてらア」といったと、花柳が追悼文に書いている。
悲しい話なのに、陰気でないのは、二人の人柄だ。
この花柳は、「市村さんとは女をとったりとられたりした」とあからさまに話していた。まさか文章にしていないと思ったら、ハッキリ、赤坂の鹿の子はこっちがとった。柳橋の小吉はとられた。これで差しひきなしと書いている。むしろ爽快である、花柳は、芸は六代目菊五郎が絶対だが、「ほんとは十五代目のような役者にぼくはなりたいんです」といってもいた。
羽左衛門は昭和二十年五月六日に、湯田中の万屋という旅館で死んだ。その旅館に泊り合わせた人の話で、帳場に遊びに行ったりしている時に、羽左衛門はたのまれると、切られ与三のセリフをいって聞かせたりしたという。これも、羽左衛門らしい。
死ぬ日、昼前に松竹から来た社員と話していて、昼寝をした。ふと目をさまして、時計を見て「三時かい」といったあと、眠るように息が絶えたという。腕時計の針の見まちがいで、午後零時十五分だった。信州の遅い桜の花が戸外から舞いこんで、遺体の胸の上に、点々と散っていたという。死に方まで美しく、いさぎよかった。
(役者の伝説)
女学校の国語教師をしていた時に久保田万太郎に誘われて『日本演劇』の編集長になったのが、演劇に関わることになる第一歩であった。以後は歌舞伎、新派、新劇などの評論に加え、江戸川乱歩の勧めによって推理小説なども手がけたのだが、昭和54年6月、下咽頭がんの手術によって声帯を切除し、63歳にして声を失ってしまった。以来、死までの8年間を発生器の世話になるのであるが、病魔を克服して200冊に近い著作を世に出した戸板康二も、平成5年1月23日午前8時頃、朝刊を取りに出かけて倒れ、午前9時47分、脳血栓のため思いもよらない死を迎えることになった。底冷えのする冷気の厳しい朝であった。
戸板康二は死後まもなくの平成5年3月7日、菩提寺である曹洞宗総本山総持寺の墓地に葬られた。
はじめ能登半島の櫛比庄(現・石川県鳳珠郡)にあったこの寺は大火によって多くの伽藍を焼失、明治38年に鶴見が丘の現在地に移されてきたのであった。大伽藍や諸堂の背後に広がる霊域はすでに梅雨の季節にあった。息づくのも重苦しいような曇天の湿気が漂っているモノトーンの領域に「戸板家之墓」は古然として建っている。
歌舞伎を愛し、関連する多くの著作をものした作家の眠る墓にふさわしい、時間を感じさせる一個の碑であった。しばらく佇んでいると、気は緩やかに広がりはじめてすっくりと直立した碑の周りに一種の真空間ができた。
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