戸川昌子 とがわ・まさこ(1931—2016)


 

本名=内田昌子(うちだ・まさこ) 
昭和6年3月23日—平成28年4月26日 
享年85歳(浄賢院楽音文昌大姉)
東京都港区北青山2丁目10–26 高徳寺(浄土宗)
 


 

小説家・歌手。東京府生。東京都立千歳丘高等学校中退。タイピストとして会社勤務ののち、シャンソン歌手を経て昭和37年『大いなる幻影』で江戸川乱歩賞を受賞し作家生活に入る。『猟人日記』『蜃気楼の帯』などの話題作を発表するほか、テレビ出演やクラブ経営などで活躍した。ほかに『蒼い蛇』『火の接吻』などがある。




 



 私は黒川少年をつくり出すことによって、遠く離れている河内恵子と木村よね子を、まわり舞台を自由に使いこなせる演出家のように結びつけるが出来たと思っていた。
考えてみれば、こうしたことすべての計画がおぼろげながら私の心に巣くいはじめたのは、弟が現われてからというよりも、ジョージ誘拐事件からのような気がする。
 七年前に、私は玄関の事務所の前で木村よね子がジョージ誘拐事件記事を読みながら、「この子供の母親は、私が担任だった生徒なのよ。」といったのを聞いていたのだから。その時私は無意識のうちに、木村よね子や河内恵子や上田ちか子を結ぶ一つの視点をつくってしまっていたのだろう。
 こうして、何年ものあいだ陰気な事務所の机の前に坐って、辿りついたただ一つの結論が私を裏切ろうとは夢にも思わなかったのである。
 ところが木村よね子にも私にも、全く予想の出来ない結末が待っていた。工事主任の手で地下の風呂場が掘られたあと、すぐに警察が駆けつけ、法医学上の鑑定が発表されるのに一週間もかかったのだが、その聞の私の得意さとうって代り、一週間後にあの皮肉な、いまわしい事実を知らされたのだ。今、考えただけでも怒りで私の頭は割れそうになる。この揃えられた事実の前では、誰でも一つの答えしか出せないではないか。それがすべて偶然の暗合で、私も木村よね子も砂の上に大いなる幻影の城をきずいていたのだとは。あの三つの事実が、どうして根拠のない砂といえよう。
                                                    
(大いなる幻影)


 

 昭和20年3月、脳溢血の後遺症で半身不随だった父が死んだ。5月には東京中心部をおそった大空襲によって青山北町の長屋を焼け出され、6月には神経麻痺で口のきけなかった兄が防空壕で死んだ。母娘の流浪が始まったが、昭和23年、母が管理人代わりをするという条件で入居できた同潤会大塚女子アパート5階511号室、四畳半で暮らした十五年に及ぶ生活の中で見続けてきた様々な人間模様は昭和37年に江戸川乱歩賞受賞の『大いなる幻影』に結実。作家とシャンソン歌手、伝説のサロン「青い鳥」の経営と失敗、男性遍歴も多く、不倫もした。まさに波瀾万丈。末期がん宣告ののちも銀座シャンソン喫茶「銀巴里」で歌い続けたが、平成28年4月26日、緩和ケア治療に取り組んでいた静岡県の病院で胃がんのため死去した。



 

 大空襲で焼け出され、暮らしていたトタン囲いのバラック横の小さな防空壕で、不自由な口で「辛い」という最後の言葉をのこして死んだ兄の亡骸をゴザに包んで、母と二人で引きずって行き、子供の頃よく遊んでいたこの寺の一番隅っこに穴を掘って「ごめんね」といいながら賛美歌を歌い、父の遺骨とともに埋めた墓地。昭和60年に亡くなった母もここに葬られている。昭和42年12月に昌子が建てた小さな「戸川家之墓」、ときおり壁の向こうからテニスの練習音が聞こえてくる。本堂西奥の都立青山高校と壁一つ隔てた墓地の隅で息をひそめて佇んでいる。書いて、歌って、恋をして、波乱に満ちた戸川昌子、いま再び家族とともに此処に眠る。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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