| 本名=土岐善麿(とき・ぜんまろ) 明治18年6月8日—昭和55年4月15日
 享年94歳
 東京都台東区西浅草1丁目6–1 等光寺(浄土真宗)
 
 
 
 歌人・国文学者。東京府生。早稲田大学卒。島村抱月に師事。大学卒業後、読売新聞記者(のち朝日新聞に転じる)。昭和15年に退職するまで長く記者生活を続けた。歌人としてローマ字三行書きという第一歌集『NAKIWARAI』を刊行。翌年石川啄木を知る。『黄昏』『不平なく』『佇みて』『雑音の中』などがある。
 
 
 
 
   
 
 
 
 むすめよ。 この黄昏の落葉を父は焚くべし。
 燐寸をもてこよ。
 磯浜に岩ひとつなきさびしさよ。  五月の風の
 いさごをふける。
 あたたかく飯をくひしに、 そのひまに、
 悲しみがいつか逃げてゆきたり。
 かくてあればわが今日をしもあらしめし亡き友の前にひそかにわく涙     遺棄死体数百といひ数千といふいのちをふたつもちしものなし 
 
     明治43年出版の第一歌集『NAKIWARAI』は日常生活の哀感をローマ字三行書きで歌って歌壇の注目を集め、石川啄木に大きな影響を与えた。それを契機に交流を始め、雑誌「樹木と果実」の創刊を計画したが果たすことはできなかった。貧困と病によって倒された石川啄木の葬儀を生家の西浅草・等光寺で行い、遺骨も一時埋葬、遺族の擁護、全集発刊につとめるなど友情を尽くした土岐善麿は、その68年後の昭和55年4月15日、下目黒の自宅で心不全により死去した。94歳、啄木の26歳に比して、なんと長寿であったことか。
 ——自身の会葬御礼に記した歌がある。〈わがために一基の碑をも建つるなかれ 歌は集中にあり 人は地上にあり〉。
 
 
 
 
   〈死後二年の啄木を、事につけては思う心。〉との解説がある歌〈石川はえらかつたな、と おちつけば、しみじみとして思ふなり、今も。〉——。土岐善麿はローマ字綴りの一首三行書きによって、石川啄木とともに歌壇の新しいホープとして注目され、啄木死後、遺稿歌集『悲しき玩具』発行に尽力した。
 ——「一念」とのみ刻された一メートルばかりの黒御影の細い石柱が立っている。香立てに「土岐」の文字があるばかり。浅草・東本願寺近くにある善麿の生家、等光寺裏墓地の門扉のすぐ先にあるその墓碑の清楚さに、達観した人柄が偲ばれて心が洗われた。本堂前に啄木の歌碑がある。
 〈浅草の夜のにぎわひに まぎれ入り まぎれ出て来しさびしき心 啄木〉。
 
 
 
 
                        |