十返 肇 とがえり・はじめ(1914—1963)


 

本名=十返 一(とがえり・はじめ)
大正3年3月25日—昭和38年8月2日 
享年47歳 
東京都東村山市萩山町1丁目16–1 小平霊園41区2側1番


 
評論家・小説家。香川県生。日本大学卒。19歳の頃から文芸時評を書き、昭和16年評論集『時代の作家』を処女出版。戦後は軽妙な文芸評論や社会戯評を書く一方で、自伝小説『最初の季節』初め小説も多く発表。ほかに『文壇放浪記』『実感的文学論』などがある。



 



 私自身は、古い文壇的雰囲気の中で、若年の日を過ごしてきたが、「貧乏と病気と女」の苦労をしなければ一人前の文学者となれぬ、つまり人生がわからないというような観念には絶対に承服できなかった。そんな苦労はごめんだと思っていた。もっとも思いながら、結果はしてしまったが、いまでも、そのような人生認識の様式は信じていない。また同人雑誌を何年も苦労してやってきたなどということが、誇るにたる履歴だとは考えていない。戦前ありがたがられた苦節十年などという観念は、人間をスポイルするだけであった。しかも、それは、すぐれた芸術を創造するための「苦節」ではなく、「文壇」へ出るための処世上の苦労でしかなかったのである。
 このような人生認識の倫理が一般社会に通用する筈はなく、こういう倫理を現在なお信奉している人たちが、今日のジャーナリズムから忘却されてゆくのは当然であり、文壇的倫理の敗北が、文壇の崩壊を促進せしめたといえよう。
                                                        
(「文壇」の崩壊)



 

 小説も多く書いたが、なんといっても軽妙な筆致の文芸評論、社会評論にこそ十返肇の真骨頂を見せた。〈評論もまた読物であつてよいと思つている。専門的領域内の読者をのみ対象として書かれる評論は別として、一般読者を対象として書くべき雑誌や新聞の評論は、むしろ一種の読物でなければならないと信ずる。〉と自ら「軽評論家」と称した十返肇。
 慶応義塾大学病院で舌がんの手術後、昭和38年8月28日、転院先の国立ガンセンター中央病院で逝く。15歳の時、佐藤春夫の門に入るため家出、あるいは翌年、女学生と駈け落ちと、どちらも果たし得なかったが、早熟なエピソードを持つ直情的な批評家のあまりにも急いだ死ではあった。



 

 この大霊園の広々とした夏空の下に、煉瓦塀を背にした大御影石が熱く横たわっている。 墓地特有の霊湿さもなく、あくまでも明るく澄んだ空気が支配する塋域には、あたかも公園の一隅にあるベンチのように穏やかな安らぎがあった。
 吉行エイスケに師事していた関係から子供の頃の吉行淳之介を知っており、デビュー後の評論は〈作家としては、もう完全に父を凌いでいる。〉と非常に好意的であった。十返が亡くなってから吉行は十返の随筆集を編集していたりもする。文壇随一の消息通でもあり、彼の軽妙さを愛した人々は「軽評論家」と呼んだが、「十返肇」墓碑の周辺にある上気した気流は、その大石をちょっと浮きあがらせたようにも見えるのは気のせいであろうか。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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