本名=佐藤愛子(さとう・あいこ)
大正12年11月5日(戸籍上は11月25日)—令和8年4月29日
享年102歳(豊文愛光大姉)
東京都文京区本郷5丁目29–13 喜福寺(曹洞宗)
小説家。大阪府生。甲南高等女学校(現・甲南女子中学校・高等学校)。佐藤紅緑の次女、サトウハチローは異母兄。昭和44年『戦いすんで日が暮れて』で直木賞受賞。以後、家庭を舞台にユーモラスな筆致で男性批判を行う〈猛妻物〉に本領を発揮した。平成一二年『血脈』で菊池寛賞受賞。ほかに『赤い夕日に照らされて』『晩鐘』などがある。

「だいたいね 、佐藤家の人間が商売やるなんて……そんなこと出来るわけがないのよ」
恵はにこにこ顔をいつまでも愛子に向けていた。自分の無力を知った時にしらずしらずに出 るにこにこ顔 だった。愛子はその顔を見て、この目は気弱く笑った時の忠の目だ、と思った。自分の無力をごま化すような、悲しむような、諦めたような。忠を思い出させるその顔の中からどこがどう似ているといえないままに、八郎の俤が水に溶けるうつし絵のように滲み出てきた。鼻は八郎にも忠にも似ていない。八郎の息子たちに伝わた坐りのいい肉厚ではなく、鼻梁が薄く高く通っていて、よく見るとそれは洽六の、そして与四男の鼻と同じだった。
恵はその「佐藤家の顔」を暮れなずんでいる晩春の庭に向けていた。恵の顔の中には忠や五郎や四郎や、それから久、弥、節、与四男、八郎…… みんなの顔があった。我儘 の限りを尽し、情念に引き摺られ、ある時は途方もなく優しく涙もろく、ある時は狂気の欲望に駆られ、互いに迷惑をかけ合い、傷つけ合い、そして時には助け合うことのあった彼らの血が恵の中にも流れていることを恵の顔は語っていた。恵の父や叔父や大伯父にあった過剰なものの気配は消えているが、しかし恵はやはり彼らの「はらから」だった。自分が何をしたいのかわからず、何がよくてこうしているのかもわからず、人に理解されることを望まず、孤独に徹し切れず、自分で自分をどうすることも出来ない執 拗な呪縛に恵も囚えられている。
(血脈)
見合い結婚した夫が戦地での治療のためにモルヒネ中毒になり、離婚。「お前はお父さんにそっくりだから、一人でやれる小説しか向いている仕事はない」と母に言われ、小説を書くことにしたが、それはただ書くだけの十年、「文藝首都」で知り合って再婚した夫の借金返済に奔走せざるを得なくなり、腹立ち紛れに離婚の顛末を書いた『戦いすんで日が暮れて』が直木賞を受賞したことによってようやく作家としてのスタートを切ることができた。二度の結婚と莫大な借金、苦難の連続だった。遠藤周作、北杜夫、川上宗薫などの友人たちは遠に逝ってしまったが、佐藤紅緑、サトウハチローら佐藤一族の壮絶な血脈を抱かえてここまで書き、生きてきた愛子は令和8年4月29日、老衰のため東京都内に施設で永遠の眠りについた。
佐藤家の墓は青森県弘前市にあるはずなのだが、父・佐藤紅緑の墓は東京大学赤門のすぐそば、曹洞宗の喜福寺にある。金田一京助や柴田翔が住まいしていた赤門アビタシオンというマンションと喜福寺の間の参道の先にちょっと窮屈な墓地がある。暖かな休日の午後、数人の墓参客がちらほらと見受けられ、御影石の墓石に正岡子規門下の寒川鼠骨による筆で「紅緑墓」と刻まれた墓碑が中程にある。左横の狭い空間に一層黒い御影石の小さな墓、画家・村上豊の書で「愛子の墓」と刻まれたのが、歯に衣着せぬ物言いで天衣無縫に生涯を貫いた佐藤愛子の墓である。側面に「令和八年四月二十九日歿」とあり、「豊文愛光大姉大練忌納骨供養塔」と墨書された卒塔婆が木の匂いがするように真新しい。
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