本名=佐佐木信綱(ささき・のぶつな)
明治5年6月3日(新暦7月8日)—昭和38年12月2日
享年91歳(佐佐木信綱大人)
東京都台東区谷中7丁目5–24 谷中霊園甲8号7側9–11番
歌人・国文学者。三重県生。東京帝国大学卒。明治24年父弘綱と共著の『日本歌学全書』を完結。東京帝国大学で教壇に立ち『万葉集』の研究、和歌・歌学の史的研究など打ち込んだ。与謝野鉄幹らと新詩社をおこして31年「竹柏会」を主宰、『心の花』を創刊した。歌集『思草』『新月』などがある。

ひとの世の人のことばに限ありてわが此おもひいひ出がたき
罪なくて世を去りし人の世にあらば安けかりけむ寂しかりけむ
我命うせむ折にと思ひしを心よわくも洩らしつるかな
花に舞ひし昔の姿ゆめに見てさむればわが身埋火のもと
行けば行きとまればとまる我影のありやなしやもわきがたの世や
草深き父の御墓にぬかづきて昔の罪をひとり泣くかな
われは唯ひとりぞ吹かむわれ知らぬ人にきかせむわが笛にあらず
ゆく秋の大和の國の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲
世に生まれ出でざりしが最も幸と君が口より聞くべきものか
『万葉集』を生涯の研究主題として専心していった佐佐木信綱は、和歌に関する研究書も多く、「竹柏会」を主宰、機関誌『心の花』を創刊して国文学の研究と歌人としての活動を続けた。
〈障子からのぞいて見ればちらちらと雪のふる日に鴬が鳴く〉。
信綱5歳の作が伝えられている。以後、昭和38年12月2日、91歳の冬、熱海西山の凌寒荘で急性肺炎により永眠するまで延々と歌の道を歩み続けた。
〈広く、深く、おのがじしに〉を標語に〈歌材は広く探求せよ、表現は深玄であれ、しかして各自の歌境を、おのおのの個性に、環境に求めよ〉と念虜した信綱門下からは川田順、九條武子、木下利玄、大塚楠緒子ら多くの歌人が輩出した。
谷中霊園にかつてあった幸田露伴の小説『五重塔』のモデル、天王寺の五重塔(昭和32年、放火心中事件のあおりを食って焼失)の裏あたりに「佐佐木家之墓」、「佐々木弘綱 佐々木光子刀自 墓」、「佐々木信綱大人 佐々木雪子刀自 墓」、三基の墓が建っている。
長岡半太郎、竹内栖鳳、幸田露伴、横山大観らとともに第一回文化勲章を受章し、父弘綱の墓に詣でて〈御しるしの箱の蓋あけ見せまつる父のみ霊よみそなはしませ〉と誇らしげに報告した日は遠い昔。炎天の烈しい陽を同形三基の墓石はそれぞれに浴びているのだが、弘綱夫妻の碑面にはね返された陽光は信綱夫妻の墓石に吸収され、刻された碑文字を一層濃いものにしていた。——〈おくつきをおほふかしの木とこしへにさめぬ眠を守れとぞ思ふ〉。
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