本名=佐藤泰志(さとう・やすし)
昭和24年4月26日—平成2年10月10日
享年41歳(泰文志道居士)
北海道函館市東山町114 東山墓園2区00番1228号18列15
小説家。北海道生。國學院大學卒。函館西高等学校在学中、17歳の時『青春の記憶』で有島青少年文芸賞の優秀賞。翌年『市街戦の中のジャズメン』で連続受賞。大学入学で上京。『きみの鳥はうたえる』『黄金の服』などの作品で芥川賞候補に五度なる。ほかに『そこのみにて光輝く』『海炭市叙景』などがある。

兄はあの時、なぜ黙っていたのだろう。わからない。その沈黙がわたしに移った時、一瞬、心をよぎったものがある。けれど、それとてもはっきりとはわからない。あれは一体なんだったのだろう。人今は近くの見知らぬ人にも、おめでとう、と声をかけあっていた。おめでとう、おめでとう。誰かがわたしたちにも新年の挨拶の声を投げた。街は一面、雪に覆われていた。家々の屋根も通りも街路樹も。
そうだつた。あの時、わたしはこの街が本当はただの瓦礁のように感じたのだ。それは一瞬の痛みの感覚のようだつた。街が海に固まれて美しい姿をあらわせばあらわすほど、わたしには無関係な場所のように思えた。大声をあげてでもそんな気持を拒みたかった。それなのにできなかった。日の出を見終ったら、兄とその場所に一戻るのだ。
売店の少女と切符売りの女はまだひそひそと話しこんでいる。もし、兄に何かがあったのだとすれば、非予備とはきっと笑うだろう。ただじっと待っていたのかと。何時間もベンチに坐っていただけなのかと。とても愚かなことだと、このわたしですら思う。間抜けだ。あれから二分間がすぎた。あと三分。兄さん、それしか待たないわよ。
(海炭市叙景)
傷ついた自らの分身たちから迸る幾多の渇き、苦悩、悲しみや愛によって、失われた故郷の風景や記憶の色を描いた佐藤泰志。中学2年のときのクラス文集に将来の希望を書いた。〈40代で芥川賞受賞、50代で世界で一流の小説家になる。文学小説52冊、推理小説29冊、詩集12冊、歌集1冊を出し、102才にて死ぬ。〉と。
平成2年、遺作『虹』を編集者に渡したあと、10月9日夜、ロープを持って国分寺の自宅を出る。10日朝、近くの植木畑で首をつって死んでいるのが発見された。
『虹』の最後にはこう書いた。〈僕は空にむかって半円を描いた虹の色を数えた。(略)注意深くハンドルを操りながら、ふたつの山をつないで、空をまたいだ虹に、僕は無心で見とれた〉。
夏の雨はむせかえるような匂いをのこして山の彼方へ退いていった。
プラタナスの街路樹を横切って入った、公園墓地の一角というには広すぎる空間に芝生が敷き詰められ、同じ大きさの横型洋墓が等間隔に整列している。昭和59年秋彼岸に父省三が建てた「佐藤家」墓に泰志は眠っている。裏面に戒名、没年月日、両親よりも前に泰志の名が刻まれているのが哀しい。
木立から聞こえる野鳥のさえずりはうるさいのだが、芝生のあちこちから顔をのぞかせた野草は時折吹き抜ける湿った風にやさしく揺らいでいる。少年の時の夢かなわず、芥川賞の候補に五度もなりながら、ついに受賞できなかった泰志の孤独と絶望が埋まった碑に注ぎ始めた夏の陽は、何ものをも光り輝かせるように底抜けに明るい。
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