本名=川崎 愛(かわさき・ちか)
明治44年2月14日—昭和11年1月7日
享年24歳
北海道余市郡余市町美園町 美園墓地
詩人。北海道生。小樽高等女学校(現・小樽桜陽高等学校)卒。昭和5年頃から北園克衛、春山行夫、江間章子、阪本越郎などと同じ雑誌に投稿していた当時のモダニズムの代表的な女性詩人。新進気鋭の新人と期待されたが病のため早逝した。没後、百田宗治編集の『椎の木』が『佐川ちか追悼号』を出した。また58年『左川ちか全詩集』が刊行された。

暗い樹海をうねうねになってとほる風の音に目を覚ますのでございます。
曇った空のむかふで
けふかへろ、けふかへろ、
と閑古鳥が啼くのでございます。
私はどこへ帰って行ったらよいのでございませう。
昼のうしろにたどりつくためには、
すぐりといたどりの薮は深いのでございました。
林檎がうすれかけた記憶の中で
花盛りでございました。
そして見えない叫び聲も。
防風林の湿った径をかけぬけると、
すかんぽや野苺のある砂山にまゐるのでございます。
これらは宝石のやうに光っておいしうございます。
海は泡だって、
レエスをひろげてゐるのでございませう。
短い列車は都会の方に向いてゐるのでございます。
悪い神様にうとまれながら
時間だけが波の穂にかさなりあひ、まばゆいのでございます。
そこから私は誰かの言葉を待ち、
現実へと押しあげる唄を聴くのでございます。
いまこそ人達はパラソルのやうに、
地上を覆っている樹木の饗宴の中へ入らうとしてゐるのでございませう。
(海の花嫁)
祝福を斥けて、落日と共に失われた夢は閉じたり開いたり、少しだけ毒を含んだ少女、あてどのない暗くて遠い夜の道はどこまで続く。さまようものは眠りにつくしかないのだ。
——昭和10年12月27日、末期症状と診断された胃がんの病状は悪化の一途をたどり、死期を悟ったちかは西巣鴨の癌研究所附属康楽病院から世田谷の自宅に帰った。しかし年を越した1月7日午後8時30分、生涯の支えとなった異父兄・川崎昇や思慕の人・伊藤整、慈しみの師・百田宗治、理解者・北園克衛、詩友・江間章子や北川冬彦、春山行夫、近藤東、阪本越郎等々、数多のやさしい光の中に〈海に捨てられた〉少女の跫音や思い出を追いやって、困惑した少年のようにゆっくりと目を閉じた。
夜露に濡れた草々の先端を刃のように光らせて、北の国の朝は明けた。
晴れ晴れとした碑面を眼下の余市川に向け、墓山は輝きにあふれている。眼鏡の少女佐川ちか、東京・祖師谷にて火葬された遺骨はその夏に余市の川崎家の墓に埋葬されたと。ただその一行を頼りに心細くも余市まで来たのだったが、おびただしい墓群れを前にして足がすくんだ。
しかし一族の墓はあったのだ。「川崎家先祖代々之墓」、新しく建て替えられたと思われる碑に祖父母の名が刻まれてあるが、ちかの名は見当たらない。二昔も前のこと、川崎家の塋域の中の名もない石塊の傍らに卒塔婆がたっていたという話だが、整備された墓庭は黄色い小さな花が咲き乱れているのみ。石塊もなく、ちかの亡骸はここに埋葬されたのか否かは定かでない。
|