本名=阪本四方太(さかもと・よもた)
明治6年2月4日—大正6年5月10日
享年44歳(文荘院天岳守方居士)
東京都豊島区駒込5丁目5–1 染井霊園1種ロ13号4側
俳人。鳥取県生。東京帝国大学卒。仙台の第二高等学校時代に友人高浜虚子に俳句の指導をうけ、上京後正岡子規に師事。子規の影響下で多くの写生文を残した。子規との共著、写生文集『帆立貝』のほか自伝『夢のごとし』などがある。

黒き蝶は終に鴉に化けぬべく
若き僧の眼の釣りたるが夏痩せす
唇に薬つめたき清水かな
静かなる道一筋や森の雪
松杉の暗きが中や藤の花
前垂れに摘草あまる日暮かな
腹黒き僧正住めり鴉の巣
戀猫の餘所心なる晝もあり
一輪は咲くべき気色冬牡丹
灯の冴ゆる机の上の夜半かな
明治天皇崩御の年の暮れに肋膜炎を患い療養、翌年勤務していた東京帝国大学図書館を休職、父の死、大正3年には療養中の自宅が類焼にあって着のみ着のままで焼け出されるなど四方太の晩年は慌ただしく不幸なものであった。句作からも遠ざかって久しく、代表作といわれる自伝的な写生文『夢のごとし』のほかは目立った作品も見当たらない。歯切れの良い口調で今の俳人は風交上にも私交上にも全く節操がなく、芸人根性に似て、腐った果ての女郎みたいな者だと憤っていたというが、病はとどまることなく著しく進んで大正6年5月10日、遂には帰らぬ人となった。正岡子規の提唱する写生文の実践と発展につとめた44年の生涯であった。
大正6年5月18日、東京・本郷区駒込富士前町(現・文京区本駒込)の江岸寺で行われた葬儀の後、同寺に葬られたとのことであったが、その後にこの霊園に墓所を定めたのだろうか。かつては生け垣に囲まれた墓域の中央に両親の墓、右に四方太と妻静枝、次女トキそれぞれの戒名を刻んだ共墓、左に弟於菟次の墓があったはずなのだが、いま目の前にあるのはそれらは撤去整地され、日照り続きの埃っぽい土庭に寺田寅彦の表現するところの白晳無髥、象牙のような風貌で近寄りがたかったという四方太の眠る「阪本家之墓」が建っている。供花で彩られた真新しい墓碑、裏面に平成六年利夫建之とある。利夫というのはお孫さんであろうか。右側面に両親と四方太夫妻、次女トキ、弟於菟次、長男泉の戒名、没年月日が読み取れる。
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