本名=早乙女勝元(さおとめ・かつもと)
昭和7年3月26日—令和4年5月10日
享年90歳
東京都台東区谷中5丁目10–10 長明寺(日蓮宗)
小説家。東京府生。都立墨田川高等学校卒。東京大空襲でやけだされ、町工場で働く。昭和25年『下町の故郷』で直木賞候補になる。45年東京空襲を記録する会の結成に尽くし、46年ルポルタージュ『東京大空襲』を発表。平成14年東京大空襲・戦災資料センター館長。児童向け著書に『火の瞳』『猫は生きている』『ベトナムのダーちゃん』などがある。

朝方どんよりと曇っていた空が、いつしか惜し気もなく晴れあがった。陽はいっぱいにふりそそいで町は明るく息づき、足の下の地面が今にももつこりふくらんできそうに思える。 そしてすれちがう人々の姿も、なんとなく春めいている。さえざえとして美しいのだ。しかし、考えてみれば、人間はすべて、このように明るく美しいものを求め望んでいるのにちがいない。だれもはじめから、醜い心になるのを好む人間はいないのだ。ところが、実際になかなかやさしい人たちにぶつからないのは、いつも自分たちの頭上に灰色の雲がどんよりにごって重くのしかぶさっており、北風がぴゆうぴゅうとうなりをあげて吹きまくっているからだと思う。みなが眉をくもらせ、笑いを忘れ、うつむきかげんな青白い表情にかわっていくのもしかたがない。だから、まずこの頭上の雲を、すっきりと取りはらわなければならないのだ。
なんと大それたこと。誇大妄想と人は笑うかもしれない。だが、どんなに笑われても、どんなにあざけられてもよい。おれは、自分のせいいっぱいの力を燃やしつくそう。たとえ、それが目に見えないような小さい力であったにしても、力は力を呼びあい力と溶けあい、やがて一つの炎となって、ある日、突然この重苦しい灰色の雲をめらめらと焼きつくすかもしれない。
(美しい橋)
早乙女勝元は東京下町の足立区柳原で四人兄姉の末っ子として生まれたが、生まれた時から虚弱で病気がちだった。室町時代の武将細川勝元の名にちなんで勝元と名付けられたが、学校の先生からは負元君と呼ばれていたというエピソードがある。昭和20年、13歳の時に太平洋戦争最後の年を迎えたが、3月10日未明の東京大空襲では火の海を脱出して奇跡的に一命をとりとめるという体験をした。45年に結成した「東京空襲を記録する会」の中心メンバーとしてその惨劇の記憶を後世に伝える活動に寄り添い、語り継ぐことに生涯をささげたが、令和4年5月10日午後1時6分、老衰のため埼玉県内の病院で死去した。
この寺の枝垂桜はそれは見事なもので、毎年その季節に訪れるのを楽しみにしているのだが、今年は花見のほかに墓参りが加えられた。山門の先、華やかにも奥ゆかしい枝垂桜を暫し愛で、その下をくぐって本堂裏に新設された谷中樹陵という樹木葬庭園に入る。緩やかな階段を上がっていくと、六百年を超えるタブの大木の根元に円形や方形の小さな石碑が並んでいる。その中に早乙女勝元と妻・早乙女直枝の名と生年月日が刻まれた小さな方形の石碑が横たわっていた。平成20年に妻直枝が亡くなった時、富士霊園の「文学者之墓」の勝元の名前と代表作が刻まれた裏面に直枝の名と没年月日を刻んだと著書で読んだが、勝元が亡くなったのち、遺族によって新しくここに二人の墓を設えられたのであろうか。
|