本名=佐藤佐太郎(さとう・さたろう)
明治42年11月13日—昭和62年8月8日
享年77歳
静岡県駿東郡小山町大御神888–2 1区3号1474番
歌人。宮城県生。平潟尋常江東小学校卒。大正14年岩波書店入社。翌年アララギに入会し、斎藤茂吉に師事。近代的な感覚により写生に新生面を開いた。昭和20年岩波を退社し歌誌『歩道』を創刊。歌集に『歩道』『立房』『帰潮』『天眼』などがある。

薄明のわが意識にてきこえくる青杉を焚く音とおもひき
連結を終りし貨車はつぎつぎに伝はりてゆく連結の音
潤ひをもちて今夜のひろき空星ことごとく孤独にあらず
階くだり来る人ありてひとところ踊場にさす月に顕はる
ほこりあげて春のはやちの凪ぎし夜妻も子も遠しわが現より
いのちある物のあはれは限りなし光のごとき色をもつ魚
憂いなくわが日々はあれ紅梅の花すぎてよりふたたび冬木
地底湖にしたたる滴かすかにて一瞬の音一劫の音
ただ広き水見しのみに河口まで来て帰路となるわれの歩みは
ひちちころ蛇崩道に音のなき祭礼のごと菊の花さく
斎藤茂吉に師事し、〈芸術にとって「写実」は母なる大地である〉と論した佐藤佐太郎のいわゆる佐太郎調と称される作品群は、ともに生活した街や空、街路樹や歩道、季節や風、人や花といったモチーフを淡々と自然のあるがまま、丹念に凝視して歌ったものであるが、昭和41年末、突然の鼻出血に見舞われて入院。その後もたびたびの体調不良を重ね、50年には脳血栓で入院。退院はしたものの言語と足に支障をきたすこととなった。東京・上目黒自宅近辺の蛇崩坂を散策する養生の日々での日常詠は「蛇崩坂詠」と呼ばれ、それまでとは違って老境の眼が観じた風景を歌ったものであった。61年3月頃から体調優れず、12月には脳梗塞で千葉の病院に入院。以後、入退院を繰り返し、昭和62年8月8日、ついに不帰の人となった。
初冬の富士山麓は薄らとした朝靄に包まれている。広大な富士霊園の一区画、黒ずんだ砂利石の庭にすっきりと切り取られた白御影墓碑が設えられていた。碑面に「佐藤/歩道」とある。『歩道』は昭和20年に佐太郎が創刊した歌誌である。オレンジと黄色のマリーゴールドとピンクと赤色のベゴニアが咲き誇って無機質な墓前を華やかなものにしている。墓誌の表面に歌集『冬木』からとった〈身辺のわづらはしきを思へれど妻を経て波のなご里の如志〉の自署刻、裏面に佐藤佐太郎と佐太郎死後の『歩道』を主宰した歌人の妻志満の没年月日が刻まれてある。晴れた時であれば右手前方に頭の見えるはずの富士の山は望べくもないが、大正14年に弱冠15歳で上京、岩波書店に入社して短歌に出会い、斎藤茂吉を生涯の師と仰いだひとりの少年はいまここに眠っている。
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