堺 利彦 さかい・としひこ(1871—1933)


 

本名=堺 利彦(さかい・としひこ)
明治3年11月25日(新暦1月15日)—昭和8年1月23日 
享年62歳(枯川庵利彦帰道居士)
神奈川県横浜市鶴見区鶴見2丁目1–1 総持寺中央ニ–5–25(曹洞宗)



社会主義者。福岡県生。旧制第一高等学校(現・東京大学)中退。英語教師・新聞記者などをつとめるかたわら、小説を書き続けた。明治32年万朝報社に入る。日露戦争に関して非戦論を展開、『平民新聞』を発刊。大正11年日本共産党創立に参加。『監獄学校』『堺利彦伝』などがある。







 あゝ堺利彦よ。君の半世の如何に平凡にして、そして如何に主我的なることよ。君は士族の子として、少年時代から謂ゆる「立身出世」を夢みてゐた。小學、中學、高等中學と、頗る順調に行きかけて失脚した。その後、小學教員となり、新聞記者となり、文士小説家の眞似事をして、世の中を泳ぎまはった。而もそれが矢張り、少しなりとも自分の生活の程度を高め、社曾的の地位を進めようとするモガキに過ぎない。謂ゆる「立身出世」の信條は依然として少しも變ってゐない。それから君は、兎かくしてゐる中、世間並に妻を持ち子を持ち、甚だしく貧乏でない生活を送り得る境遇となった。そして最後に萬朝報といふ稍や人目を引くに足りるだけの舞臺に登った。それが即ち君の「立身出世」であった。それが即ち君の半世のアコガレの實現であつた。
                                                              
(堺利彦傳)



 

 〈私は諸君の帝国主義絶対反対の声をききつつ死ぬことを光栄とする〉——。
 昭和7年6月頃より精神の異常をきたし、青山脳病院(現・都立小児総合医療センター)に入院、翌8年1月23日午前10時20分、脳溢血により麹町の自宅で死去した。
 万朝報社にあって社主黒岩涙香や同僚幸徳秋水、内村鑑三らを知り、社会主義に近づいていった堺利彦は、日露戦争主戦論の万朝報社を内村、幸徳らと退社し、『平民新聞』を発刊した。明治41年赤旗事件により入獄したが、入獄中に大逆事件がおこり連座の難を逃れ、大正11年には『日本共産党』の創立に参加、初代委員長となったが、のち離脱。12年、第一次共産党事件に連座、獄中の身となって大震災に遭遇するなど、まさに波乱に富んだ半生であった。



 

 社会主義思想に芽生えた万朝報社、非戦論を徹底した『平民新聞』、大杉栄らと設立し、多くの主義者たちの生活を支えた売文社あるいは山川均、荒畑寒村らとともに参加した日本共産党など、それぞれの時代において、一貫して社会主義者として果敢に闘ったのだった。
 ——溶岩を積み重ねた台座に平板な墓碑が建つ。「堺利彦之墓」、三宅雪嶺の筆が刻まれている。手を合わせる傍らを、同じ墓地に埋葬されている昭和の大スター石原裕次郎の墓参に訪れた集団一行が賑やかに通り過ぎていく。彩り豊かな花々が供えられた華やかなその墓域に比べ、この墓の主がたどってきた道とその思想が、もはや遙か彼方に消し飛んでしまったかのように、濃淡の雲片が大寺院の堂の上をあわただしく流れてゆく。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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