本名=佐々木光三(ささき・みつぞう)
明治29年3月18日—昭和9年2月6日
享年37歳(文光院真諦三味居士)
東京都東村山市萩山町1丁目16–1 小平霊園16区17側22番
小説家。愛知県生。明治大学卒。『極東時報』『東京毎日』などの記者をつとめた後、作家生活に入る。大正12年『文芸春秋』創刊に参加。また『文芸時代』の同人となる。『呪はわしき生存』『地主の長男』などで認められた。『右門捕物帖』『旗本退屈男』などがある。

その声をふと耳に入れたのが本篇の主人公---即ち「むっつり右門」です。本年とって漸く二十六歳と言う水の出鼻で、まだ駈け出しの同心でこそあったが、親代々の同心でしたから徴禄乍らもその点から言うとちゃきちゃきのお家柄でありました。本当の名は近藤右門、親の跡目を継いで同心の職についたのが去年の八月、序ですからここで一寸言い足しておきますが、同心の上役が即ち与力、その下役はご存じの岡っ引ですから、江戸も初めの八丁堀同心と言えば無論士分以上の立派な職責で、腕なら技ならなまじっかな旗本なぞにも決してひけをとらない切れ者がざらにあったものでした。言うまでもなくむっつり右門もその切れ者の一人でありました。だのになぜ彼が近藤右門と言う立派な姓名があり乍ら、あまり人聞きのよろしくないむっつり右門なぞと言うそんな潭名をつけられたかと言うに、実に彼が世にも稀らしい黙り屋であったからでした。全く珍しい程の黙り屋で、去年の八月に同心になってこの方いまだに只の一口も口を利かないと言うのですから、寧ろ唖の右門とでも言った方が至当な位でした。
(右門捕物帖)
菊池寛に見出されて『文芸春秋』の創刊に参加、『文芸時代』の創刊同人となって、純文学作家として大成することを志していたのであったが、若くして急逝した亡兄の負債返済と五人の遺児たちを養うため、大衆小説に転じた佐々木味津三であった。
『右門捕物帖』、『旗本退屈男』などの人気シリーズで評判を取り、弟妹一家を東京に呼び寄せて経済的援助もしていたが、昭和9年2月6日、喘息、胃下垂、神経痛などの病と執筆による肉体の酷使を続けた上に、急性肺炎で空しく倒れた味津三の生涯を菊池寛は大いに悼んで、作家の善行を讃えた。純文学に憧れながらも、生活のため大衆作家としての筆を執らざるを得なかった作家の無念の思いを何とするべきか。
嵐寛寿郎演ずる「むっつり右門」の『右門捕物帖』や市川右太衛門演ずる「早乙女主水之介」の『旗本退屈男』は、戦前戦後の時代劇映画として一世を風靡したのであったが、『右門捕物帖』や『旗本退屈男』などで心ならずも大衆作家としての名を成し遂げ、過労死した佐々木味津三に何をか言わん。
——「佐々木之墓」を正面に据え、右脇に建つ「佐々木味津三碑」には三片の浮き雲が描かれていた。広大な霊園の背後から射す冷徹な冬陽の翳りを碑面に抱いてもなお、何時の日にか叶うことができるであろう純文学の世界を、もう一度柔らかな雲に乗って勝手気ままに漂いたかったのだろうか。佐々木右門よ!黙して語らずか。
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