本名=佐佐木茂索(ささき・もさく)
明治27年11月11日—昭和41年12月1日
享年72歳
神奈川県鎌倉市山ノ内1367 東慶寺(臨済宗)
小説家・出版人。京都府生。京都府第一中学校(現・洛北高等学校)中退。芥川龍之介に師事。菊池寛に親しむ。『文藝時代』同人。昭和4年文藝春秋社総編集長に就任、芥川賞、直木賞の創設に尽くした。戦後、同新社社長。『春の外套』『南京の皿』『困った人達』などがある。

けふもおばあさんは可なり満足して、鐐太郎とおぢいさんに愛を感じてゐた。その氣持は、おぢいさんも薄々知ってゐた。表面ではお互いに諍っても、本當はどちらが餘計に鐐太郎を愛してゐるだらうかと、相互に相手の衷心を探り合ってゐた。
---おぢいさんは静かに眼を開いておばあさんを見下した。さうして、かうした場合の何時ものやうに、つと立つと縁側へ出て、盆栽の世話を始めた。
おばあさんは、おぢいさんの後姿を注視してゐたが、暫くすると細い手を延して、手紙を掴んだ。裏表をすばやく幾度も返し乍ら絶えずおぢいさんの後姿を注視してゐた。盆栽の手入れに餘念ないと見定めると、急いで、手紙を抽出して、鳥渡中身を一瞥して直ぐ封筒に戻し、また飽かずに裏表を眺めてゐた。
春は穏かに一室を抱いて、おばあさんをおばあさんにして、慈悲深く押包んだ。おばあさんもおばあさんになって、静かな座敷に、尚も静かな身を横へてゐた。凡てが満足して良かった。おぢいさんはいい人だしと考へてゐた。もう怒ってゐやしまい。仲直りをしやうと考へてゐた。蠅がまた捻り出した。天井に反映する水影がゆらゆらと揺れた。と、おぢいさんが不意に、こちらを向いた。おばあさんは狼狽して手紙を投出した。
(おぢいさんとおばあさんの話)
早くから芥川龍之介に師事し、『春の外套』や『南京の皿』などの作品を書いたが、のち菊池寛に誘われ文藝春秋社総編集長となって、菊池とともに芥川賞や直木賞の創設に尽力したのであった。戦後はいったん解散した文藝春秋社を改組して文藝春秋新社(現・文藝春秋)社長となり、再建に努めた。
昭和41年11月、腸管膜動脈栓塞のため東京・港区の虎の門病院で手術を受けたが、翌月1日午後0時6分に還らぬ人となった。翌朝の新聞各紙は、文士として世に出、大出版人として最後を迎えた男の死を一斉に報じ、本社で通夜が営まれた。3日、本社ホールにて葬儀、告別式が執り行なわれ、葬儀委員長は専務の池島信平がつとめた。
苔生した根っこを踏ん張った大杉の枝々に、香の煙が纏わりついている。文壇御用達と思われるほど関係墓の多い、北鎌倉のこの寺の墓地にある五輪塔の主が、人に乞われるとよく書いていたといわれる歌がある。〈人みなの命亡ばば亡ぶべし、おのが命に恙あらすな〉-——-。
私にその真意はわからない。茂索氏の意は彼自身の生き方が証としているのだろう。(先日、故茂索氏のお身内の方よりメールをいただき、平成13年現在83歳になられた泰子夫人が、一般に流布されているこの説に嘆かれているとのこと。実際は病気で入院された方に送られた言葉であったということです。この言葉は故人の生き方とは全く関係なく、本人はビジネスマンと言うよりいつまでも青年みたいな正義感にあふれる人であったと)。
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