佐多稲子 さた・いねこ(1904—1998)


 

本名=佐田イネ(さた・いね)
明治37年6月1日—平成10年10月12日 
享年94歳 
東京都八王子市大谷町1019–1 富士見台霊園東5段–3
 



小説家。長崎県生。小学校中退。上京後、職を転々とする。昭和3年『キャラメル工場から』でプロレタリア文学作家として出発。7年共産党に入るが、戦後に離党。『女の宿』で女流文学賞受賞。ほかに『夏の栞』『くれなゐ』『樹影』『時に佇つ』『月の宴』などがある。







 私は以前に一度だけ、ここの海の独自のひろがりに息をのんだことがある。ここを通過する初めての旅のときだから、中野重治の国会議員選挙に一本田に行くときででもあつたろうか。車窓の前に広がる、ここの海の、一面の雲に閉ざされて猛る波しぶきは、暗うつな中のすさまじさを見せて迫つていた。空と海は合して灰色に深く沈みながら茫漠とひろがり、波は高く渚に打ち当つて飛沫を上げていた。渚いっぱいに波しぶきは次々と高く上って絶えることがない。その暗い激しさは、形容しがたいまま私をゆすった。その暗い中の激しい動きは美と云えた。たしかにそれは、ある美であつた。その印象が強烈だったから、私はその後、何度かここを通過するたびに、あのときの美を期待した。しかしそれ以後、あの激しさにまだ出会うことがない。この日も親不知の海はただ薄蒼く和いでいた。
  ああ 越後のくに親不知市振の海岸
 中野重治の詩の一行が私の胸の内だけにあった。この詩が、中野の若いときのものだから、そして私のこの詩を知ったのも若いときだから、遙かなおもいがよぎる。ああ 越後のくに親不知市振の……そして私は、全集第二十七巻に載った長髪の、紺絣をきた中野の写真をおもい出す。
                                                              

(夏の栞)



 

 佐多稲子は、『驢馬』同人の中野重治、堀辰雄らと出会い、のちに知り合った窪川鶴次郎と結婚、「生きていく目安」を得て、左翼運動にも加わった。哀しくも厳しい少女時代の実人生を描いた処女作『キャラメル工場から』をもって彼女の作家としての巣立ちが始まるが、文学者として、妻として、共産党員として、あまりにも激しい苦難や挫折もともに始まったのだった。
『私の東京地図』終章に稲子はこう書いている。〈道が残っている、ということは、私に、厳然とした喜びをあたへている。古い地図の数々の折れ曲がった道を心にきざみながら、私はまたひとつの方向に進む足音に自分の足音を混じえて歩いて行こう〉と。
 ——平成10年10月12日、敗血症ショックにより作家佐多稲子は死去する。



 

 この寺の墓地に向かう坂をのぼるのは「松本清張」の墓参以来二度目となる。秋彼岸、風はまだまだ熱気を含んでいた。尊敬するモーパッサンの墓を手本に造られた「佐多稲子」墓。開いた形の白影石の本には生年、没年が刻まれ、中央に香が置かれている。
 〈誰かから何とか学資を出して貰い、小学校だけは卒業するほうがよかろう〉といった内容の郷里の先生からの手紙を、住込みの中華そば屋の暗い便所で読み返し泣いたという『キャラメル工場から』の最終行から始まった彼女の作家人生はここに終わっていた。
 息子夫婦と連れだって同じ筋の墓参りにきた年輩の女性が、しきりに「佐多稲子」の説明をしているのだが、若夫婦ともピントこないのか曖昧な返事をしながら足音だけを残して横切っていった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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