本名=斎藤茂吉(さいとう・もきち)
明治15年5月14日(戸籍上は7月27日)—昭和28年2月25日
享年70歳(赤光院仁誉遊阿暁寂清居士)❖茂吉忌
東京都港区南青山2丁目32–2 青山霊園1種イ2号13側15番
歌人。山形県生。東京帝国大学卒。明治39年伊藤左千夫の門下となり、『馬酔木』『アララギ』に短歌や評論を発表。左千夫没後は島木赤彦らと〈アララギ派〉の中心的歌人となる。大正2年処女歌集『赤光』刊行。10年第二歌集『あらたま』を刊行。『連山』『つきかげ』などがある。

死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる
我が母よ死にたまひゆく我が母よ我を生まし乳足らひし母よ
のど赤き玄鳥 ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり
現身のわが血脈 のやや細り墓地にしんしんと雪つもる見ゆ
墓はらを白足袋はきて行けるひと遠く小さくなりにけるかも
あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり
草づたふ朝の蛍よみじかかるわれのいのちを死なしむなゆめ
母の死や師伊藤左千夫との対立と別れ、過去に於ける悲しい命の捨てどころであった『赤光』は、青春の記念碑として、〈実相に観入して自然・自己一元の生を写す〉という茂吉独自の写生観いわゆる「生写し」を実行し、茂吉調を完成させた。
晩年は「残年にあえげる」という状態だった。昭和22年秋に、疎開先の郷里山形県南村山郡金瓶村(現・上山市金瓶)より帰京した以後は「寂寞として奈何ともなすべきなき境」ともいうべき老枯の中、天衣無縫の歌をつくっていったが、肉体は徐々に衰えてしまった。
昭和28年2月25日、「第二の人麻呂」といわれた大きくて沈痛な歌人の生涯は、心臓喘息のため新宿・大京町の自宅で終焉を迎える。遺骨は郷里金瓶の宝泉寺及び大石田の乗船寺にも分骨埋葬された。
さまよって迷い込んでしまったのか白黒斑の子猫が一匹、赤松の木陰に不安そうにうずくまっている青山の墓地。近くには志賀直哉の墓も見えている。
霊園を分断して南北につながる中道の脇、矩形の斎藤家墓域には生涯を通じて茂吉を苦しめ、悩まし、心身ともに疲れさせた妻輝子や茂吉の墓誌、長男茂太の建てた「斎藤家之墓」、そして奥には紅梅の木の下に生前から準備していたという、本人書による「茂吉之墓」の墓石がひっそりと佇んであった。左手前にはあららぎの小木。敷石には小石が四、五個、所在なげに転がっている。
〈人生は苦界ユエ、僕ハ苦シミ抜カウト思フ。毎夜、睡眠薬ノンデモカマハヌ。正シキ道ヲ踏ンデ行キツクトコロマデ行キツカウ〉。
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