2003年も終ろうとしている。2004年、オリンピックの年という人も多かろうが、それよりなによりアメリカの大統領選の年だ。4年前のあの犯罪行為による結果を改める機会であるべきなのだが、状勢は暗いと言わざるを得ない。暗愚の大統領が再選される確率は依然として高い。

 現時点で民主党の最有力大統領候補といわれるハワード・ディーンはリベラル色が強すぎて、ジョージ・ブッシュにとっては戦いやすい相手といわれている。予備選挙の展開によってはディーンではなくウェズリー・クラーク、ジョン・ケリー、ジョセフ・リーバーマンなどが出てくる可能性はあるというが、そのいずれでもあっても、ブッシュが、よほどのバカをしでかすか、イラク状勢がとことん悪化するか、経済の低迷が誰の目にも明らかになることでもない限り、これらの顔ぶれではサルの帝国の継続を阻止する可能性は低いようだ。唯一のエキサイティングな展開はヒラリー・クリントンの出馬とそれに怯えたブッシュ陣営の第二ウォータゲート事件くらいかもしれない。

 できるなら来年のきょうは、暗愚の帝王がクロフォード牧場での逼塞に備えて、ホワイトハウスで荷造りをしているというシーンを見たいものだが・・・。(12/31/2003)

 昨夕、自民党の新井正則が買収容疑で逮捕された。新井の家は児玉畜産の近くらしい。昨夜は捜査員が6人も来て、小一時間、家宅捜査をしていった由。自民党の内規では2回落選すると公認は受けられなくなるとか。僅差とはいえ連続2回の落選、3回目となる今回の公認は異例中の異例、森派ゆえの厚遇との陰口も。「これが最後」との切迫感は大きかったのだろう。

 選挙期間中、小泉は、2回も応援演説に来た。「所沢駅前、すごい人出だったって」と**(家内)が言っていた日があったっけ。その時の小泉の演説をニュースで見た。「新井さんは一度や二度の敗北ではくじけない人ですから」。こんなことになると、なんともいいようのない可笑しさがにじむ。ワンフレーズ・ポリティシャンは、いま、こう思っているだろう、「(こんどは離陸すると)思ったんだけどね、こんな失敗するようじゃ、ただのバカだよ」。いや、冷血コイズミのことだから、あの選挙カーから降りるや否や、疾く、新井のことなど、忘れてしまっていたかもしれないが。

 それにしても近藤に続いて新井、いずれも森派。「亀井が警察を動かした」という雅之の説、にわかには否定しがたくなってくる。(12/30/2003)

 夜のニュースから。べーカー大統領特使と小泉首相が会談、首相はわが国の対イラク債権の大規模な放棄に応ずる用意がある旨伝えた由。わが国の債権は41億ドルで、これは日米欧19ヵ国で構成するパリ・クラブの中で最大とか。

 NHKのニュースはじつにお上品だ。このニュースを聞いて誰でも疑問に思うのは、なぜイラクの債務放棄要請をアメリカが行うかということのはず。ところがこの素朴だが重大な疑問に一切ふれようとしない。「アメリカが親切な国だから」ではない、正解は「イラクの借金を棒引きにして浮いたカネをアメリカが巻き上げることになっているから」だ。だからイラクの関係者が各国にお願いするのではなく、アメリカが直々に暴力金融の手代よろしく「気の毒じゃねぇか、負けてやんな、(オレへの借金返すのが先なんだ)」と口利きをしに来たわけ。

 べーカーは既にフランス、ドイツ、ロシアと話をつけて日本に来た、わが国の債権額が最大であるにもかかわらず。だいぶ前にはやったパーティジョークを思い出した。こんな話だ。

 客船が難破し救命ボートで避難することになったが数が足りない。女・子供を優先させるために男性客を説得しなければならない。イギリス人には「紳士たるもの、譲るべし」、ドイツ人には「規則です、お譲りください」、イタリア人には「危険ですから海に飛び込まないように」、アメリカ人には「あなたには生命保険がかけられております」、そして日本人には「他の方は皆さん、そうなさっておりますよ」といえばよい、と。

 べーカーが我が宰相に「各国はみな、債権を放棄していますぞ」といったかどうか、それは「藪の中」。
(12/29/2003)

このパーティジョーク、最近の流布版では
アメリカ人には「ヒーローになりましょう、お譲りください」
というようです。しかし、ここでは「保険金につられる」方を採りましょう。その方がいかにも拝金主義の国柄にふさわしいので。

 危険食品騒ぎがあると必ず流される映像がある。大臣やら政治家が群れて集まり当該の食品を「うまい、うまい」と食べてみせる例のあれだ。カイワレを食って見せた菅直人、ハムをほおばる土屋義彦、牛カルビを平らげてみせた武部勤、・・・、別にこの国に限った話ではない、名前は記憶していないがヨーロッパでもその手のパフォーマンスは変わらぬものと嗤ったニュース映像もあった。

 「大統領は牛肉を食べ続けている」。マクレラン米大統領報道官は26日、ブッシュ大統領が年末年始を過ごすテキサス州クロフォードの牧場に向かう機中で記者団にこう語り、牛海綿状脳症(BSE)感染が確認されても米国産牛肉は安全だと強調した。

 しかし、このニュースには「嗤い」よりは「寒気」を覚えた。ひょっとして現大統領はアルツハイマー・レーガンと同様の病気持ちではないかと思ったばかりだったから。ブッシュがビフテキに食らいつく映像が流れなかったのはBSEとスポンジ・ブレイン・ブッシュの連想が真実味を帯びすぎていたからかもしれない。(12/28/2003)

 今週半ばに拉致議連の平沢勝栄と松原仁が北朝鮮の対日交渉担当大使と会談したというニュースが流れた。いちばん早く見かけたのは毎日のサイトで24日夕方のことだったが、見出しだけで本文は「指定されたURLは存在しません」というエラーメッセージが出るばかり。何らかの「検閲」でもあるのかしらと思わせた。

 翌日、各紙が伝えた内容は、北朝鮮側が「家族が平壌空港まで来るならば家族の帰国を取り計らう」、「家族の他に議員・マスコミなどが同行してもいい」、「疑うならば金正日の一筆を入れる」などと伝えたというもの。はたして本当に「金正日の一筆」とまで言ったのかどうかはクエスチョンマークだが、平沢がそう言い張る以上、否定することもできぬ。

 さして驚く話ではない。5人とその家族の帰国は承認、それ以外については死亡で確定、名前のあがっていない人々については徹底否認、これがもともとの北の方針だったのだろうから。忖度するに、つぶされたメンツさえたてば、最初の項目の実現はさしたる問題ではないというところか。

 これに対し、まるで石頭の役人のような「正式に日本政府を通すべきで非公式ルートの話は一切するべきではない」という硬直した主張から、「北朝鮮は日本の経済制裁、船舶の入港制限、送金停止などを恐れている」、「リビアの核開発放棄などにより国際的孤立感が深まった」まで、またぞろ「北は困っている、もっと強硬に出て、一気にすべてを解決すべきだ」という主張をしている者がいる。バカじゃないかと思うが、いいだろう、突っ張ってチップをさらに積み上げてみたら。どうせ二の矢の備えもなしに虚仮の一点張りで一年以上もの時間を空費してきたのだから、一年が二年、さらに三年になるぐらいどうということはない。ただ、その決定は生身の人間を犠牲にすることにいささかの痛痒も感じないという一点において、彼の国とこの国がまったく同一の体質を有することを示すことになるけれど。(12/27/2003)

 夕方、**と待ち合わせて、加藤登紀子のほろ酔いコンサートへ。入り口で紙コップに酒。ご一緒にどうぞというわけ。聴衆は同じくらいの年頃か、もう少し上の年代の夫婦が多い。直接会場で待ち合わせたらしい隣席に後から着いた奥さん、「ハゲ具合ですぐ席が分かったわ」などといいながら着席。

 加藤登紀子は1943年12月27日生まれ、マレーネ・ディートリヒが1901年の同日生まれの由。「わたしがユーラシア大陸の東のはじで生まれた時、・・・どこそこの国といわずにユーラシア大陸というところがいいでしょ・・・、彼女は42歳、既にアメリカに渡っていたか、連合軍の兵士の慰問でヨーロッパ、ユーラシア大陸の西のはしで頑張っていたのかもしれない・・・」、トークがうまい、歌もいいが。

 終演は9時20分頃と出ていて、第二部はたしかにそれくらいに終ったのだが、アンコールに応えてからが実質的には第三部。客席の中まで入って来て歌う。その頃にはかなりの観客が立ち上がり、手拍子をとり歌う。歌声喫茶のノリに近い。なるほどリピーターになるわけさ、と、納得。

 終ったのは10時を少し回った頃。西武新宿から新宿線で帰ってきた。(12/26/2003)

 久しぶりの新幹線。帰りはばらばらになったので、持参の養老孟司「まともな人」を読む。「バカの壁」と同工異曲という感じもする(「脳という都市、身体という田舎」などはそのまま)が、「新しい宗教施設を抱え込むなら」などはそうも考えられるかと思ったし、「わかってます」の前半など完全に意見が一致、胸がすく思いだった。とくに笑った一部を書き写しておく。

・・・ことほどさように、日本はアメリカの一部になっている方が、考えることが少なくて済む。小泉首相もむずかしい顔をして、「アメリカを支持します」などと見得を切る必要もない。大統領に任せてありますといえばいい。そもそも首相を選ぶ必要がないではないか。どうせ誰を選んでも変わりはない。それが日本人の本音だとすれば、ブッシュだっていいわけである。なにか悪いことがあるか。・・・(中略)・・・教育基本法の改正で、愛国心ということが問題になったと仄聞する。愛国心は大切だという人たちは、よくアメリカを見てみろという。それならはじめからアメリカになった方が簡単である。愛国心の教育もしてくれる。星条旗と日の丸はあまり似ていないが、それなら日章旗を日本州の旗にすればいい。

「日本州にも大統領選挙権を」から(「まともな人」所収)

(12/25/2003)

 技術部の方から早く出勤したどうしの会話が聞こえてきた。・・・「サンタさんからって言ったんですか、早いんじゃないの」、「いや、あした、出張だから・・・、あける時の顔が見たくてさ、どうしても」、「奥さんは?」、「いいって、うちは早かったねって」・・・。フライングするサンタさんもいるらしい。

 朝起きて歓声を上げるような、そんな可愛い年頃は長くは続かない。だから、キミのその判断は絶対に正しい。そう思いながら記憶をたぐろうとして少しばかり忸怩たる思いにとらわれた。はっきりと「あの時のあの表情」、「あの時のあのプレゼント」というのが浮かばない。一方、もらう側だった頃の記憶は鮮明だ。25日は終業式で、朝、開けたてのプレゼントの包みに未練を残しながら学校に行き、終るやいなや転げるようにして家に帰ったっけ。

 最近の子供はかなり早くにサンタクロースの正体を知ってしまう。だからプレゼントはイブの晩に渡してしまっていたが、やはりお芝居にはお芝居の楽しみがあったではないか。どうしてそんなあたりまえのことに気づかなかったのだろう。

 アメリカでBSE感染牛が発見されたというニュース。日本やヨーロッパでは全頭検査を実施しているがアメリカはやってこなかった。特段の根拠はないにもかかわらず生産量が多いことを理由に、抜き取り検査でお茶を濁してきた。検査の手間を省いているのだから価格競争力はあるに決まっている。フェアプレイ精神などとっくに捨て去った、世界一図々しい国がこれからどんないいわけをするか、興味津々。(12/24/2003)

 天皇誕生日。どうも今上は気の毒だ。天皇誕生日というよりはイブ・イブというイメージの方が強い。睦仁と裕仁の誕生日はそれぞれ「文化の日」、「みどりの日」として残ったが、今上の誕生日は嘉仁(8月31日生まれ)と同様に残らないだろう。それは事績の問題などではなく、時節としての魅力に乏しいからだ。徳仁さんは2月23日生まれ、微妙な線かもしれない。

 君主制というかたちばかりの擬制はこのようにして崩れてゆくのだろう、砂糖菓子のように。(12/23/2003)

 「刀剣友の会」なる団体のメンバーが「建国義勇軍」あるいは「国賊征伐隊」と名乗って行った一連の銃撃、脅迫事件の犯人として逮捕されている。逮捕者は金曜日から今日までで計11人になった。(面白いこと:朝日・毎日は「義勇軍事件」と呼び、読売・サンケイは「征伐隊事件」と呼んでいる)

 逮捕ばかりがクローズアップされているが、昨日の夜、「刀剣友の会」の理事が淀川で水死体となって発見されたというニュースが気にかかる。朝鮮総連新潟県本部銃撃について事情聴取を受けた後のことだという。遺書はないが、新十三大橋にバックと靴がそろえてあったことから入水自殺と見られている由。

 警察の取り調べはほんとうに総連新潟銃撃事件だったのだろうか。嫌がらせ程度の事件、それも自分が直接手を下したものでもない事件の事情聴取ぐらいで自殺などするだろうか。他殺を疑う根拠はない、しかし、自殺だとすると発表されている聴取項目よりははるかに重大なものに関する事情聴取ではなかったのかという疑いがどうしても出てくる。たとえば赤報隊による殺害事件のような。(12/21/2003)

 曽我ひとみが昨日の記者会見で、「今まで以上に知恵をしぼって、早い時期に解決してほしい」と政府に要望した由。知恵の出ない者にとって「知恵をしぼれ」といわれることほど辛いことはあるまい。政府、外務省、とくにこの問題の中心人物を自負する安倍晋三にとっては酷な話。

 安倍晋三やその取り巻き連が無い知恵をしぼって考えついたのが「経済制裁」と「船舶の入港拒否」、これを家族会や救う会に言わせて世論形成を狙ったのだろうが、これが有効な圧力になると考えること自体が「知恵の乏しさ」を現わしていて哀れを誘う。日本ただ一国が経済制裁を行ったところで、それは国内の北朝鮮ヒステリーを慰撫する以外の効果は発揮し得ない。経済制裁は国際的な合意の中で実行されない限り、日朝貿易の真空はすぐに他国によって埋められてしまうだけの話だ。六ヵ国協議の年内開催がなくなってしまった経緯を考えれば、実効のある国際的な経済制裁を実現するにはまだまだ里程のあることぐらい素人でも分かること。下手の考えは休むより始末が悪いものだ。

 安倍晋三のような人間に「もっと知恵を出して」と言うのは、統合失調症の患者に「頑張れ」と言うようなものなのだ。頑張らなくちゃいけないと思いこんだ患者は精神の統合性によりいっそう変調をきたすようになる。安倍も出来の悪い頭から無い知恵を絞り出そうとしてより混乱し、ひたすら強硬姿勢だけを強めるだろう。ちょうど遮眼帯をつけた競走馬のように。

 それにしても外務省は国際刑事裁判所のことを少しでも検討しているのだろうか。(12/20/2003)

 夕刊に「イラクで大量破壊兵器を捜索する米調査団の団長のデビッド・ケイ米中央情報局(CIA)顧問が、来月にも辞任する意向を固めていると、複数のメディアが18日、米政府関係者らの話として報じた。『決定的な証拠』が見つからないことに失望している」とのニュース。記事は「ケイ氏は元国連兵器査察官。6月以降、1400人を率い、生物・化学兵器や核兵器などを捜索している。10月の暫定報告の際、『WMD計画の全体像をつかむには6〜9カ月かかる』と述べ、来年夏から秋にも最終報告をまとめる意向を示していた」と続けている。フセインが拘束されたこの時点で「大量破壊兵器捜索チーム」の最高責任者がミッションに絶望して辞任しようとしているというのは、いったい何を現わしているのだろう。

 一般的には「ある」ことを証明する方が「ない」ことを証明するよりはるかにたやすい。あるならば、「ほら、この通り」と見せればよいのだから。

 パウエル国務長官が国連の安保理事会で「イラクの国連決議違反」を「証明」したのは今年の2月のことだった。「大量破壊兵器は隠されている」だけのことだとアメリカは公の場で断言した。あれから10カ月、「戦争」が終わり、イラク国内には死体にたかるウジ虫の如くアメリカ兵が駐留しているというのに、なぜ、アメリカはイラクが保有していた核爆弾や毒ガス弾や細菌爆弾を「ほら、この通り」と見せる、こんな簡単なことを実現できないのだろうか?(12/19/2003)

 今年の大佛次郎賞が山本義隆の「磁力と重力の発見」に与えられることになった由。この本は既に毎日出版文化賞を得ているとも聞いた。「山本義隆」の名前がふたつの賞を受賞させたと考える者もいるかもしれない、既にそういうことを言っている者もいるかもしれないが、それは誤解だ。

 誤解であることを記録しておくために、選者の一人である養老孟司の一種異様な選評を書き写しておく。書き写す部分は選評全体のスペースの半分以上を占めている。

 次に個人的な意見を付け加える。私自身はこの著作をこれ以上には論評する気がない。それは右の価値評価とは別である。強く表現するなら、選評を拒否する。私自身は、山本氏と同じく60年代末に、演じた役割の軽重はあれ、同じ東大闘争に巻き込まれた。その結果、私は自分の考え方、さらにその後の研究者としての生涯に多大の影響を受けた。私はそう思っている。その結果としての私の思想からすれば、まったく別な論評も可能である。しかしそれは、かならずしも書物自体の論評ではないという性格のものになるはずである。
 そうしたことを熟慮した結果、背景を含めた選評は拒否するしかないという結論に至った。それ以上の説明はいまは不可能だし、そもそも紙面も不足である。読者のご了解を乞う。

 「これ以上」とか「右の価値評価」という語が指しているのは「どのような文化もそれ自体の盲点を持ち、西欧も例外ではない。著者の目はそこをみごとに見通」しているということ。この要約自体が、アカデミズムと在野、自分はどこに立つのか、・・・、そういった視点に立つと、いろいろなことがびっくり箱から飛び出してくる思いがする。(12/18/2003)

 フセインの拘束のニュース速報を聞いた時、アメリカは意図的に裁判問題にスポットをあてるだろうと思った。はたしてapeブッシュ、昨日は「個人的な意見はあるが、刑はイラク人が決めることだ」というような発言をし、今日は「極刑が望ましい」などと言っている由。彼の知能程度がさして高くないことはもはや常識になりつつあるが、それにしても前日に言ったことを忘れるほどバカだとは考えにくい以上、精一杯、ミスディレクションを誘おうとしているのだと解釈する方がいいだろう。

 それともあのアルツハイマー・レーガンよろしく在職中にして早くもその兆候が現れ始めたのか。最新のニュースによれば、膝痛の診察のためMRI検査を受けるとのことだが、いい機会だから頭部も撮影してみる方がいいだろう。おサルさんそっくりのジョージの場合、大脳がスカスカのスポンジ状態になっている可能性がないとは言えない、ちょっとばかり恐ろしい想像ではあるが。

 ブッシュがフセインの断罪を主張しかつその公平性を担保したいのなら、フセインを国際刑事裁判所にあずけることが世界各国の理解を得る一番の近道だ。既にハーグではミロシェビッチに対する裁判が進められている。問題はブッシュが手前勝手な理屈から国際刑事裁判所の設置に関する条約の批准を拒否しているばかりか、いくつかの国に条約を批准しないよう圧力をかけ続けていることだ。(我が日本は、当然、アメリカの属国であるから、この条約を批准していない。アメリカの脅迫にもかかわらず、批准国は既に90ヵ国を越えているのだが)(12/17/2003)

 朝刊に「元大統領を支持のデモ」という見出し。ティクリートでフセイン支持デモがあったという。昨日のテレビにも別の町でのフセイン支持デモ映像があった。アメリカのイラク侵攻以来、「フセインの圧政による暗黒時代」が世の「常識」になっているいま、なにかとても不思議な気がする。

 ふと山本夏彦が「誰か『戦前』を知らないか」の中で「なぜか戦前真っ暗史観」を嗤っていたのを思い出した。別に毎日が真っ暗だったわけでも息苦しかったわけでもひもじかったわけでもない、そんな「真っ暗史観」などは嘘っぱちだと、その時代を知らぬ者を諭すという体のものだった。

 おそらくフセインの恐怖政治は厳然とあったに違いない。しかし、フセインやバース党がのさばり、秘密警察がいつも目を光らせ国民を監視していても、食えて眠れる安穏な生活ができるなら思想・信条の自由なんかあろうとなかろうと関係ないさというのが大多数の人々の気持ちであるならぱ、フセイン時代がよかったと主張する気持ちも理解できる。「人はパンのみにて生くるにあらず」とはいいながらパンがなくては生きられない。とすれば、パンさえあればいいという人だっているだろう。かつて「鼓腹撃壌」は政治の理想でさえあった。

 似たような話はロシアにもある。彼の国の高齢の年金生活者には「共産党による真っ暗史観」を嗤いとばしてソ連時代を懐かしむ者が多いらしい。彼らにとっては、まさに「誰か『ソ連』を知らないか」なのだ。ましてフセインは「戦前」よりも「ソ連」よりも最近のこと、山本がしてみせたようにことさら「誰か『フセイン時代』を知らないか」などと気取って懐かしんでみせるまでもない。only yesterdayのことなのだから。

 ところで、真っ暗ではないという「戦前」は「ソ連」や「フセイン」程度には懐かしむに値する時代なのかしら。(12/16/2003)

 年賀状の受付開始。例年ならば年賀状作成作業のトリガを引くニュース。喪中欠礼のはがきは楽でいいが、反面、寂しさも。年賀状には、義理は別として、出したい人にひとことを書く歓びもあると気がついた。双方に喪欠が続いて切れてしまうことだってある、来年は気をつけないとなるまい。

 書簡体小説といえば、「若きウェルテルの悩み」と「危険な関係」、対照的な二作品が思い出されるが、清水義範に「年賀状小説」と名付けたい掌編があった。かつての上司・部下の間で取り交わされる年に一度の近況報告。年に一度であるが故にちょっとした勘違いの訂正も二年越し、三年越しになる可笑しさ。一方が亡くなってからの文面など、「面白うてやがて哀しき」味が絶妙だった。ああいう歳にさしかかりつつある。(12/15/2003)

 ついさっき「フセイン大統領、米軍に拘束」というニュース速報が流れた。日本時間の21時に「重大な発表」という予告も流れている。

 フセインの拘束にはふたつの疑問の解消が期待されている。ひとつめは「大量破壊兵器問題の真相」、ふたつめは「アルカイダとフセインの関係」だ。もし、拘束された人物がまちがいなくフセイン大統領だったとすると、これらを明らかにすることが最優先されるはずだ。なにしろ、それが「イラク戦争」の開戦理由だったのだから。

 逆に、フセインの拘束後も、大量破壊兵器の存在が証明されず、アルカイダ手法によるテロが続くことにより反米ゲリラと無差別的テロが独立事象であることが判明し、アメリカが「フセインの反人道的所業に関する裁判」にのみスポットライトをあてるように画策したとしたら、アメリカの開戦理由はただのでっち上げだったということになるだろう。(12/14/2003)

 「東京物語」の余韻の中で笠智衆のことを調べてみた。1904年5月生まれ。ということは小津とはひとつ違い、いや、学年こそ一学年違うものの、ほぼ同い年だったことになる。「東京物語」は1953年の作だから老夫婦を演じた時はまだ49歳。ずいぶん早くから「老人」を演じ始めていたわけだ。

 熊本生まれと知って、いつか熊本で乗ったタクシーの運転手さんを思い出した。笠が日常どのようなしゃべり方をしていたかは知らない。しかし、笠が演じた人物たちのしゃべり方はあの運転手さんのしゃべり方とぴったり符合する。

 テンポがゆったりしている。(アレッ、聞こえなかったかな)と不安に思うくらいの間があってから、はじめて「そうですねぇ」と合いの手が返ってくる。意味のある答えが返ってくるのはまだその先のこと。あの折は訛りにとらわれて(川上哲治に似てる)と思ったが、あの間合い・呼吸は笠に似ていた。

 いや、それとも、あれこそがちょっと前までの日本人の意識の流れ、それにあったしゃべり方だったのかもしれない。我々は内心の意識などおかまいなしに、あくせくと言葉を垂れ流しているが、かえって、その言葉は上滑りをし、なにひとつ相手に伝えられずにいるのかもしれない。(12/13/2003)

 8時からのBS映画は「東京物語」だった。今日は小津安二郎の誕生日にして命日。そして生誕100年、没後40年。

 「小津、いい。好き」という****(友人)に、「どこがどう好きで、どこがどんな風にいいのか、説明してくれよ」と言ったことがあった。今日の毎日の「余録」の冒頭はその時の気分に一番近い。

 「小津安二郎の作品は、私にはどこがいいのかわからない。いつもテーブルを囲んで無気力な人間たちがすわりこんでいるのを、これも無気力なカメラが無気力にとらえている。映画的な躍動感が全く感じられない」。

 カギ括弧がついているのはフランソワ・トリュフォーの言葉だから。映画監督ではなくかつ日本人だから、躍動感などはどうでもいいし無気力とも思わない。ただ、小津の名作たちは「かつてあった日本」というだけではないか、そう思っていた。ビデオの録画確認をするためにちょっとだけのつもりでテレビの前に座った。しかし、結局、最後まで見てしまった、いつものウォーキングをとりやめにして。

 「余録」は先の言葉に続けて、こう書いている。

 だが後に彼はこう語ることになる。「ところが最近、『秋日和』『東京物語』『お茶漬の味』とかいった作品を連続して見て、たちまちそのえもいわれぬ魅力のとりこになってしまいました」(山田宏一著「友よ映画よ、わがヌーヴェル・ヴァーグ誌」)。

 尾道に住む夫婦が東京に住む息子・娘の家を訪れる。町医者を開業している長男、美容院をやっている長女、戦死した次男の嫁は独り身のまま会社勤めをしている。それぞれに両親を迎え、もてなしはするものの自分の生活のリズムを乱される意識は否めない。夫婦が一番に「気持ち」を感ずることができたのは義理の娘とのやりとりだった。尾道に帰る汽車の中で体調を崩した妻は倒れ危篤の知らせに子供たちは尾道に駆けつけるがあっけなく死んでしまう。葬儀が終ってあわただしく帰る実子たちと数日家の中のことをして帰る義理の娘。2時間ちょっともの時間を費やしながら、これだけの映画なのだ。

 「余録」は「昭和日本のおだやかな家庭生活、そこにゆったりと流れる時間、端正で品位を失わぬ登場人物、それら全体をつつむあたたかな情感」と書いている。だが杉村春子が演ずる長女などは形見分けに我を張り、山村聡の長男には男としての芯がぬけている。けっして品位を失わぬ登場人物だけではないのだ。**(弟)の葬儀からこちらのことを考えると、頭でいろいろ考えていたばかりで、どれだけのことを思ってやれたかとなると心許ない。そうしてみれば、彼らの不人情さえ、弁護してやりたくなる。「いい人」に見えた原節子演ずる義理の娘だって「義理なればこそのこと」かもしれぬではないか。

 柔らかな美しい日本語はたしかにもう消え去ってしまい、家族関係も人も大きく変わってしまったといわれるとそうかもしれないとは思うものの、人の心根そのものはさして変わっているわけではないように実感させる映画。けっして「説明」せずにこの世の中で起きてきたことを織り込んでひとつの世界を作って見せることは、やはり、たやすい技ではない。小津の評価はテンプラではない。(12/12/2003)

 コイズミが行った「派兵説明」に対する新聞・テレビなどの「解説」、「意見」をたんとに見聞きした中で、なるほどと思ったのは朝の「スタンバイ」に出ていた酒井啓子のコメントだった。「イラクの人々に心からの支援をし、その復興を実現しようとするならば」、酒井は言った、「イラクにおける雇用を起こすようにすることです」と。

 先週書いた「アラブニュース」の社説中で唯一正しかった言葉は「イラク人は自由で安定した豊かな国を望んでいる」だった。言い換えるならば、イラクの人々の雇用を安定させ、その生活を成り立たせること。そのことが、テロといってもいい、ゲリラといってもいい、なんと表現してもかまわないが、治安を回復する最良の方策であることは、思えば、あたりまえのことだ。

 テロリストは、多くの場合、失うものが自分の命より他なにもない環境から生まれてくる。したがって、「テロに屈しない戦い」をテロリストと同じ次元で「戦う」のは下策、テロリストになろうとする人的リソースを絶つ「戦い」を行うのが上策だ。迂遠な道かもしれないが、忍耐を必要とするその行動の標語こそ「テロに屈しない」というフレーズにぴったりだ。

 ところが夕刊にはアメリカ国防総省がイラク復興事業の発注先を対米イラク協力をしている61ヵ国に限定する発表をしたというニュースが載っていた。アメリカが自国のカネを使う分にはとやかく言うことはできまい。しかし、アメリカがイラク支援を名目に他国からもらっているカネ、イラクの石油を処分して得ているカネによる事業となれば勝手な言い分は通らない。人の財布に手を突っこみ、そのカネを好きに使おうというのは強盗の仕業そのものだ。下賤なブッシュ政権、それを許容するアメリカ人はもはや「ハイエナ」になったようだ。ハイエナは叫んでいる「戦争する奴には儲けさせてやる、イラクの石油代金はオレたちのものだ、イラク人の雇用など考えるにも値しない」と。

 だからイラクにいるアメリカ人とその協力国民はテロリストに狙われ殺されるのだ。だがブッシュもコイズミもイラクで働いているわけではない。悪い奴らは「清潔な照明のよいところ(A Clean, Well-Lighted Place)」にいるのだ。(12/10/2003)

 朝刊に「70%の人反対でも国益のため・・・」という見出しでこんな囲み記事が載っていた。

 「たとえ70%の人に反対されても、国益のために必要なら決断しなければならないといけない。責任はすべて政治家がとる」
 防衛庁の浜田靖一副長官は8日夜、東京都内のホテルで開いたパーティーで、自衛隊のイラク派遣を決める基本計画の閣議決定を翌日に控えた胸の内を明らかにした。
 石破防衛庁長官も、「何年も先に、ああそうだったのかと思われることかもしれない」。派遣される自衛官の心境に思いを巡らし、「石破と浜田ならば信じられるということでなければ、辞めなきゃいかん」と決意を語った。

 70%いう数字の根拠がよく分からない。浜田はこの数字がもっと多かろうと同じことを言うのだろうか。浜田、石破、そして小泉がいう「国益」というのは具体的にはどういうものなのだろうか。その「国益」とはいったいどれくらいの期間、この国の「益」たり得るものなのだろうか。

 かつてこの国は「半島における権益」からスタートし、やがて「大陸における権益」を「国益」とし、破滅的な戦争が必然的なプロセスであるかのように奈落へと突っこんでいった。しかし、すべての人がそう考えていたわけではなかった。たとえば石橋湛山は、在野のジャーナリストとして、かなり早い時期からそうした「国益」論を「王より飛車を可愛がるヘボ将棋」と批判し、この国に「一切を棄つるの覚悟」を奨めていた。

 湛山がそれを述べてから5年の期間ではその主張の当否は生活に忙しい多くの人々には分からなかった。それを述べてから15年の期間でちょっとばかり目の利く人たちには、湛山の正しさというよりは、愚鈍な政府の主張の誤りが見えはじめただろう。そして25年の期間で見た時には、万人が湛山の主張の正しかったことを認めざるを得なかった。「飛車を可愛がった」ヘボ政治家が、我が祖国に、誰の眼にも明らかなる国家的破産をもたらしたからだ。

 浜田靖一という男が、石破茂という男が、小泉純一郎という男が、彼らが語る「国益論」が破綻した時、どのように責任をとるものか、できるものなら、この眼で見届けたいものだと思った。が、しかし、おそらく、いくら永らえたところでそれを見届けることはできそうもないことに思い当たった。今夜、小泉がなした説明を聞く限り、彼は政治家などではない、ただの三百代言に過ぎぬ。そのことを彼は自ら証して見せた。

 コイズミのような人間に政治をあずけたオットセイの群れよ、オレはあんたたちが大嫌いだ。(12/9/2003)

 比例区東海ブロックで当選した自民党の新人議員が逮捕されたのは土曜日のことだった。最近では議員本人が選挙違反で逮捕されること自体珍しくなり、逮捕されるのはどういうわけか落選議員関係ばかりというのが「常識」化しつつある中で久々の議員、しかも(選挙区では落選、比例区での復活当選だけれど)当選議員というのは久々。

 昨日あたりの新聞には自民党の地元ホープとしてかなり期待されていたと報ぜられていたからどれほどの人物かと思っていたが、党はあしたにも除名手続きに入る由。即座に馘になるとはずいぶん軽量級の「ホープ」もいたものだが、本人自ら現金を運動員に渡す程度の感覚ではいくら自民党とはいえ少しばかりレベルが低すぎる。この議員、名前は近藤浩、心なしか顔があの森前首相に似ている。森派所属というから脳みその軽さもシンキロウに似たのかもしれない。(12/8/2003)

 奥克彦参事官と井ノ上正盛三等書記官の葬儀。事件以来、小泉首相は「テロに屈しないためにも」、川口外相は「二人のご遺志を引き継ぎ」を繰り返している。彼らの頭には亡くなった二人に対する哀悼の気持ちよりは彼らの死をどのように利用するかということばかりがあるのだろう。

 ニュースソースを確かめられないが、インターネットに「亡くなった井ノ上書記官は親しい記者にイラク戦争には賛成できないと伝えていた」という情報が流れている。ふと先日読んだ天木直人の「さらば外務省!」の或るくだりのことを思い出した。天木が外務省を辞めさせられるもととなった意見具申に関する反応について書いた部分だ。

 そのような絶望的な沈黙の中で、中東の日本大使館に勤務する若い外交官から、次のようなメールが寄せられた。
「貴使意見具申電を拝読し男泣きしました。今朝頭を冷やしてもう一度読みましたがやはり泣けました。まさに、血を以てかかれた書。天木大使の後輩であることを心から誇りに思います」
 唯一の反応である後輩からのメールに、私は心底勇気づけられたのであった。
天木直人 「さらば外務省!」 より

 メールの主が井ノ上であったのかどうかは分からない。まったく別の外交官であったのかもしれない。さらに井ノ上がほんとうに「イラク戦争に賛成できない」と言っていたかどうかも曖昧な話だ。しかし、川口がしきりに口にする「ご遺志」なるものが、政府が主張するアメリカ追随のイラクコミットメントとぴったり一致するものかどうかも、井ノ上がイラク戦争に批判的であったという仮説と同じ程度の単なる仮説に過ぎないということを忘れるわけにはゆかない。それは奥についてもあてはまることだ。なぜなら、宮仕えをする者であれば誰でも知っているように、命ぜられた仕事と個人的考えが常に一致しているとは限らないのだから。

 とすれば、ほんとうにふたりの「遺志」を引き継ぐということは、今一度ここに立ち止まり、前後の行きがかりを捨て、あえて書くなら二人の犠牲者を出したことにさえとらわれずに、この国と国民の多くが自らの心と頭が共に得心する政策と行動をあらためて選択し直すことでなくてはならない。(12/6/2003)

 武富士の会長が逮捕されたのは火曜日のことだった。容疑は武富士の取材をしていたフリージャーナリストに対する盗聴容疑。武富士にとかくの噂があることは以前から知られていた。右翼や暴力団に相当のカネを渡していろいろな「問題」を処理してきた武富士の体質を考慮すると、「盗聴」という手段はずいぶんスマートに見えてしまう。

 武井会長は「右翼は暴力団に弱い。暴力団は警察に弱い。警察は右翼に弱い。この関係をうまく使ってトラブルを処理しろ」などと命令し警察OBなどの天下りを引き受けたというから、おそらくこのとき雇われた警察出身者あたりが盗聴という手口の活用を進言したのかもしれない。盗聴法(通信傍受法)が成立する前から、この国の警察は旧共産圏の秘密警察同様、盗聴を行ってきた。警察幹部にとって盗聴はさしたる違法行為ではなかった。

 「警察じゃ、盗聴なぞはあたりまえの手段ですよ。えっ、裁判所の許可を取ってるかって、なに言ってるんです、会長。いちいち許可なんか取ってるわけないでしょう。バレなきゃいいんですよ、バレなきゃ。盗聴されたって、誰も被害なんて受けないんですから」などと言ってのける警察OBがいても不思議ではない。

 一番悪質な法律専門家は俗称「ヤメ検」、検察官を中途で辞めた連中だという。その伝にしたがえば、一番悪質な犯罪者は「ヤメ警」、つまり警察OBということになる。とすれば、盗聴の指嗾など、いかにもありそうな話だ。(12/5/2003)

 夜のニュースで奥参事官と井ノ上三等書記官が銃撃された際、乗っていたランドクルーザーの映像を見た。左側面の全部と後部座席に集中した弾痕が凄まじい。昨日の朝刊に載っていたスペイン情報部員殺害の手口とほとんど同じようなものだったようだ。

 不思議なことがふたつある。ひとつは事件当初アメリカ軍当局は「殺害された日本人外交官は食料を買うために車から降りて売店に行ったところを襲われた」と発表した。ほぼ同時にイラク警察が「併走する車から銃撃を受けた」と発表しているのに。いったいアメリカ軍は、なぜ、どのようなことを根拠に虚偽の情報を伝えてきたのかということ。

 もうひとつは二人の外交官は開催予定の北部イラク支援会議に出席するためにバグダッドからティクリートに向かったのだったが、フセインの出身地として特に抵抗の強いティクリートで会議を開催する必然性はどのようなものだったのだろうかということ。アメリカ軍当局にはあえて危険地帯ででも支援会議を開催してみせるパフォーマンスというもくろみがあったのかもしれない。そうだとすれば相応の安全対策をとる義務があったはずだ。それとも日本側にもそろそろ血を流してもらいたいという計算でもあったのだろうか。

 これらに関するアメリカからのなにがしかの説明はまだ報ぜられていない。アメリカが常に誠実で信頼できるパートナーであるなどと無条件に考えるのはもうそろそろやめた方がいいだろう。(12/4/2003)

 朝刊に一昨日の「アラブニュース」紙社説に述べられていた「世論調査」値とは少し異なる世論調査結果が出ている。調査主体はオックスフォード・リサーチ・インターナショナルで、協力者はバグダッド大学、調査時期はこの10月から11月、3244のイラク世帯(ただし地域に関する記載が記事にはない)を対象にしたもの。

 それによると、米国が率いる占領軍に対しては、57%が「まったく信頼感を抱いていない」と回答。22%が「ほとんど信頼していない」と答えた。「大いに頼りにしている」は8%にとどまった。
 回答者の70%は「宗教指導者を信頼している」と答えた。その一方、主に宗教指導者で構成される政府の樹立を求めたのは12%にとどまった。「今後1年以内にイスラム国家を実現したい」と答える人は1%以下に過ぎず、望ましい政体としては、90%という圧倒的多数が「民主主義」と答えた。
 過去1年間で最もうれしかった出来事を問うと、半数近くが「フセイン政権の追放」と答えた。逆に最悪の出来事としては「イラク戦争」をあげた人が、回答者の約三分の一にのぼった、という。

 「米軍の駐留」についての直接の質問はここにはない。アラブニュース紙の社説に出てくる「世論調査」というのが、どこ国の誰がどんなイラク人を対象にどの程度の規模で行ったものかは分からない。もしあの社説子が勝手な「現実」を創造したのでないとすれば、イラク人は信頼していないアメリカ軍の駐留を願っているという分かりにくい話になるが、それがこの世の「現実」というものかもしれぬ。

 もう少しはっきり言えそうなことがある。少なくともイラクの多くの人々とイスラム原理主義者との間にはかなりの距離があるということだ。にもかかわらずテロリストがイラクを彼らの「培地」とするにいたったのは、アメリカが無謀な戦争をし、無策としか言えぬ占領策で臨んだ結果だろう。

 ここに並ぶ数字が示すものは、厄災のほとんどはアメリカが招きよせたものだという事実だ。(12/3/2003)

 朝刊の広告から。「正論」、「またもTBS! 石原発言"誤報"に悪意はないか」。「諸君」、「私は捏造報道を許さない−恥を知れ、TBS−」。どうやらTBSが「石原慎太郎がまたまた放言」というようなニュースを流したが誤報または虚報だったということらしい。

 どんな報道でどんな間違いであったのかは知らないし、調べる気にもならない。しかし、「爆弾を仕掛けられて当然」というのが持論ならば、「誤報の対象になっても当然」だろうと言われれば、石原も返す言葉はあるまい。自分が被害者になったら「痛いんだな、これが」とはじめて気づいたというのなら、これほど情けないことはない。この程度の人物が大手をふって闊歩し、知事にまでなれるということ自体が恥ずかしいことだが、人間、生まれる時も場所も選ぶことはできないから、それは諦めよう。

 さあ、慎太郎さん、田中某氏に謝罪し、「仕掛けられて当然」発言を撤回して、しかる後にTBSの断罪を世に訴えてはいかがか。もっとも、あなたの場合、謝罪する先が多過ぎて、しばらく時間がかかるかもしれないが・・・、呵々。(12/2/2003)

 朝刊の「世界の論調」、各国の新聞社説を紹介するもの。きょうはロシア「モスクワ・タイムズ」の「グルジア 厳しい『革命』後の道」とサウジアラビア「アラブニュース」の「イラク状勢 認識と現実の隔たり」。面白かったのは後者の方。書き写しておく。

 イラクに関して、認識と現実との間には大きな隔たりがあるようだ。
 米国と同盟国軍に対する連続攻撃、米軍ヘリ「ブラックホーク」撃墜やイタリア軍兵士19人殺害を見れば、武装勢力は軍事・戦闘能力を飛躍的に高めているという印象を受ける。
 ところが、米英暫定占領当局のブレマー代表は否定する。防衛手段の改善とフセイン前大統領派への攻勢で、米英軍への攻撃は過去二週間に激減し、武装勢力は、新政権に協力するイラク人などのソフトターゲットを狙い始めたという。
 事実とすれば、バース党の残党は思ったほど力がなく、劇的ではあるが、散発的な攻撃しかできないということになる。
 警察署への自爆テロは続いても、警察や軍への志願者は減らない。派手な攻撃は見出しにはなりやすいだろうが、こうした流れをせき止めることはできない。
 認識との隔たりはまだある。イラク以外の国では、イラク人は米軍が去ることを望んでいると思われている。しかし、世論調査によると大半のイラク人が米軍の駐留を望んでいる。イラク人は主権回復を望まないのではなく、内戦を恐れているのだ。誤った認識の背景には、それを望む人がいる。中東だけではなく多くの国で、イラク状勢は悪循環に陥り、血なまぐさい内戦になるとみられている。確かにその可能性はある。しかし、そう主張する人の多くは、混乱が米国の厄災になり、ブッシュ大統領が辱めを受ければいいと思っているだけで、イラクのことを十分に知らないのだ。
 イラク人は困難な復興を早く成功させ、自由で安定した豊かな国を望んでいる。米国が撤退すればイラクは内戦に陥り、中東は不安定化するだろう。我々は米国人のことより、まずイラク人の希望と必要を考えるべきなのだ。

 この社説子の現実認識はブレマーの説明が正しいという前提に立っている。なるほど米英とその同盟軍にとっての「敵」は彼らを攻撃するものすべてということになろうけれど、果たして「敵」はひとつなのだろうか。フセイン残党とバース党残党は近い距離にあるから場合によってはひとつとなることもあり得るが、イラクの無政府状態につけ込んでイラク国内に流入したイスラム原理主義テロリストとこのフセイン残党がひとつになっていることは考えにくい。なぜならフセイン政権は世俗主義の色彩が強くイスラム原理主義とは水と油の関係にあったのだから。意識的にか無意識的にかは不明だが、この社説子が決定的に見落としていることはそこだ。

 ブレマーが断言できることはせいぜい「フセイン残党の封じ込めに効果を上げている」程度のことだ。逆に、アメリカは、イスラム原理主義テロリストも、顕在・潜在を問わず鬱勃として頭をもたげつつあるイラク民衆の反米感情の爆発も、いずれも押さえ込めないでいる。その結果、「米英軍への攻撃は激減し」、「(外交官などの外国人やアメリカに協力的なイラク人などの)ソフトターゲットが」襲われるという現象変化が起きていると考える方がはるかに「起こりつつある本当の現実」をうまく説明できるだろう。

 それでも社説子はたったひとつだけ説得力のあることを書いている。それは「イラク人は自由で安定した豊かな国を望んでいる」という部分、これだけがこの社説の中の唯一の真実だ。警察や軍への志願者が社説子の書くほど大きな流れになっているというのは眉唾ものだが、もしそうだとしたら、それは志願者が「安定した豊かな」生活を得るための手段として選択した行動であって、けっして米英の占領統治を心から歓迎し、そのための崇高な職務につこうと志願しているわけではなかろう。

 さらに付け加えるならば、世界中の多くの人々はいまさらブッシュ大統領を辱めたいなどとは思っていない。なぜならブッシュなんぞとっくの昔に冷厳な現実によって満座の前で辱めを受けているのだから。ブッシュは、5月1日、イラク戦闘終結宣言を得意満面の表情で行った。現実はどのように推移したか。その後アメリカ軍の死亡者は終結宣言前の数を上回ってしまった。「平時」の方が「戦時」よりも多くの戦死者を出しているというこの可笑しさよ。

 いつまでたっても発見されない大量破壊兵器、次々とあげられる開戦前の情報捏造の実態、・・・、ブッシュはもう十分に他ならぬ「現実」そのものによって辱められている。この上さらにブッシュをあらためて辱めたいなどという者はいそうもない。ドブに転げ落ちているイヌを岸からさらに叩くようなことに多くの人は興味など持たないものだ。社説子はよほど鈍感なセンスの持ち主らしい。まるでブッシュなみ、そう、サルなみ。この社説子に「現実」を語るだけの人間的な能力はなさそうだ。(12/1/2003)

 イラクのティクリート付近でイラク支援会議に参加する予定で移動中だった外務省の審議官と三等書記官が殺害されたというニュース。けさからのテレビニュースは「危険なイラク」とか「日本もついに標的」というトーン一色だが、もっと注目したいのは殺された二人が外務省の現地スタッフの中で、今後、自衛隊のイラク派遣準備のみならず中期的なイラク情勢分析のために欠かすことができない人物だったらしいこと。

 つまりピンポイント的にアキレス腱を狙い撃ちされたのではないかと、そういうこと。もし、それほどに反米抵抗勢力の情報収集能力・分析力・実行力が組織され、洗練されてきているとしたら、これは容易ならざることだ。これが杞憂であるかどうか、少なくともそれを確かめる手を打つくらいの細心さは欲しいものだが、我が政府高官は「ここでくじけたら、テロリストに乗ぜられることになる」などという国会答弁を繰り返している、ほんとうに脳天気な奴らだ。(11/30/2003)

 起き抜けのニュースは、一国の元首が他国の首都を訪問したにもかかわらず、その国の元首にも有力者にも会わずに帰国してしまうという珍事だった。

 件の元首の名前はジョージ・ブッシュ、訪問先はイラクのバグダッド、滞在時間たるやわずか150分で、訪問事実の公表は帰国の途についてからというから徹底している。国内にいれば「かかってこい(bring 'em on)」などと粋がってみせるくせに、その地に行くとなると「こそ泥」なみの臆病者ぶりを発揮してみせる、このコントラストが可笑しい。

 で、スニーキー・ブッシュはバグダッドまで何をしに行ったか。GIジョーに七面鳥を切り分けるお父さん役を演じるためだった。ジョーたちは心の中で思ったろう、「Talk turkey,あんたがこんなくだらない戦争を始めなかったら、オレたちは本物の家族と感謝祭を楽しめたんだよ」と。

 バカバカしい演出に感激して涙していたのはturkey cock ブッシュ御当人ぐらいのもの、世界中のおおかたの人間はアメリカ国民と米兵に心から同情したよ、冷笑とともに。(11/28/2003)

 工場に戻ってきて1年半以上。毎日、西国分寺で乗り換える。このあいだ、面白いことに気がついた。武蔵野線の府中本町方向(山手線でいえば内回り)は「上りホーム」になっており、西船橋方向(外回り)は「下りホーム」になっている。面白いというのは、一時間に一本くらいだろうか、西船橋からさき京葉線内を通り東京行きの快速電車が運転されていること。この電車、当然の話、西船橋方向ホームに入ってくる。つまり「下り:東京行き」電車として。(11/27/2003)

 2年前の2月、コロンビアで誘拐された矢崎総業の現地法人副社長が射殺死体で見つかったというニュース。被害者の村松氏は、最初、犯罪組織に誘拐され、そののち活動資金を営利誘拐で調達している左翼ゲリラに「転売」されていた由。夕刊によれば、過去のコロンビアでの誘拐事件はほとんどが「取り引き成立」で解放されており殺害された例は珍しいとか。ただ、あげられている東芝社員や山梨県議の事件は91年、98年、01年とある。つまり、911前のこと。

 コロンビアの「ゲリラ」勢力というのは「左翼」を看板にしているものの実態は誘拐産業そのもの、ちょうどこの国の「職業右翼」が暴力団の別名であるようなもの、看板と中味はおおいに違う。ところが、それまで比較的「安定的」に行われていたビジネスが911以降「テロ」という言葉が媒介することによって様相を変えてしまい、単純な「解決」を複雑に長引かせてしまったのではないかと思う。

 射殺の経緯についても疑問はある。誘拐をビジネスにしている組織が不用意に「商品」を連れ歩き、挙げ句の果てに手足まといになったから殺してしまいましたなどというのはにわかには信じがたい。疑えば、死体の発見者が下手人ということも可能性としてはゼロではない。最初に彼を誘拐し転売をはかったメンバーの中には現役の警察官がいたという、そんな国なのだから。(11/26/2003)

 米兵が一日に数人死ぬぐらいはもう恒常化してほとんど耳目をひかなくなってしまった。それでも一昨日のニュースには少しひっかかるものがあった。交通事故を起こした車に乗っていた米兵を群衆がコンクリートブロックで殴り殺したというのだ。

 フセインの暴政からイラク国民を解放し民主主義をもたらしてやったんだというブッシュの言葉が正しいとすれば、その恩義ある米兵をよってたかって撲殺したり、それを止めることなく座視したイラクの民衆はよほどの人非人ということになる。イラクの人々はそろいもそろって人非人なのだろうか?

 いや報ぜられた事実はそのような表面を撫でるような言葉で語れるレベルのものではない。事故車輌からけが人を引きずり出した上でよってたかって石で打ちかかり嬲り殺しにするという行為は、テロリストによる洗練された殺害行為というより、素朴で根深くかつ激しい反米感情がきわめて広範囲に行き渡っていなければあり得ないことではないか。

 「米軍のイラク占領はフセイン政権の残党や流入したアラブ原理主義テロリストの散発的テロ行為により困難な状況になっています」などというニュース原稿では言い表されないもの、それは何か。そういう疑問が浮かんだ。そのひとつの答えが、きょう、配信された田中宇のメールマガジンにあった。

 9月下旬、バグダッドから北に70キロほどいったイラク中部の町ドルアヤの近郊で、米軍のブルドーザーが果樹園の木々をすべて根こそぎにする作業が行われた。付近は旧フセイン政権の支持者が多いスンニ派の地域で、米軍に対するゲリラ攻撃が頻発していた。米軍は、付近の村人たちを尋問したが、誰もゲリラの居場所を教えなかったため、その「懲罰」として、村人たちが所有するナツメヤシやオレンジ、レモンなどの果樹を、根こそぎ切り倒した。
 伐採するなと泣いて頼み込む村人たちを振り切り、ブルドーザーを運転する米軍兵士は、なぜかジャズの音楽をボリューム一杯に流しながら伐採作業を続けた。ナツメヤシは樹齢70年のものもあり、村人たちが先祖代々育ててきた果樹園だった。伐採を止めようと、ブルドーザーの前に身を投げ出した女性の村人もいたが、米兵たちに排除された。
 伐採を担当した米軍部隊の中には、村人たちの悲痛な叫びを聞き、自分に与えられた伐採の任務と「なぜ村人たちにこんな辛い思いをさせねばならないのか」という不合理感の板挟みに耐え切れず、突然大声で泣き崩れてしまう兵士もいたという。
 テロ・ゲリラ攻撃が起きた場所の近くで、実行犯の居所を教えろと村人に尋ね、情報をもらえなかったら「懲罰」として村の家々を壊したり、果樹園を伐採したりするのは、イスラエル軍がパレスチナ占領地でよく行っている「作戦」である。パレスチナ人はオリーブの果樹園を大事に育て、オリーブはパレスチナ人の「民族の木」のような意味合いを持っているが、それがイスラエル軍のブルドーザーによって潰されることは、パレスチナ人の全体にとって、イスラエルに対する憎しみを植え付ける「効果」がある。
 ナツメヤシの実が特産品であるイラクでは、ナツメヤシが人々にとって民族の象徴のような木になっている。その意味で、ドルアヤでの果樹園の伐採は「イラクのパレスチナ化」「アメリカのイスラエル化」を象徴する出来事として報じられた。

 自衛隊の派遣候補地サマワに入った幾人かのフリージャーナリストが現地のレポートをしてきている。既に同じ任務についているオランダ軍に対する評判はかなり悪いのに対し、自衛隊に期待する声はかなり高く、街には歓迎の横断幕まで出ている由。どういう誤解からか、自衛隊は日本企業の工場を建設し、若者の働き口を確保するという期待感があるらしい。

 自衛隊が任地においてほんとうの復興に貢献できればよいが、オランダ軍と変わらないばかりか独自のポリシーなどかけらも持たないアメリカ軍の傀儡と認識された場合には、かえってその反動は大きくなるかもしれない。一般的には手足(現地軍または日本政府)は頭脳(本国政府またはアメリカ政府)を上回るはたらきはできないものだ。(11/25/2003)

 ブッシュが訪英し、ブレア首相との会談が始まろうとする時に、イスタンブールにあるイギリス総領事館とイギリス系金融グループの現地本部に自爆テロが行われ、総領事を含めて27人の死者を出したニュースが飛び込んだ。トルコでは先週シナゴーグに対する自爆テロで死者25人を出したばかり。

 テロに力で応じても事態はどんどん悪くなるばかりだと言うことは既にイスラエルのシャロンが実証済み。いまイスラエル経済は、海外投資が激減し、観光産業は壊滅、失業率は10%を超え、年金支給は5%カット、教育予算削減のため教師は大量解雇、税収の落ち込みから軍事費すら12%のカット、・・・、という泥沼スパイラルを下降中の由。力対力の激突は双方の消耗の結果、共倒れとなるのは歴史が教えてくれている。その愚かさを目前にしながら、アメリカもイギリスも渦の中心に向かいつつあるのは不思議といえば不思議なこと。

 会談後の共同記者会見、「ロンドン市内の反ブッシュデモをどう思うか?」には「自由に意見表明できることは素晴らしい」とかわせたが、デモの状況を軽く説明した記者が続けて「なぜ、あなたはこれほど嫌われているのか?」と尋ねると絶句した後にやっと「分からない」と答えていた。どうやら、サルの感性でも自分が嫌われ者になっていることくらいは理解できたようだ。しかし、所詮サルには猿知恵しか浮かぶまい。アメリカはいつになったら「サルの帝国」であることをやめるのだろうか。(11/21/2003)

 安全だったら出動するが危険だったら出動しないという消防士はいない。イラクへの自衛隊派遣についての議論を見聞きするたびに可笑しく思うのはこの一点だ。

 兵を用いるということは安全だから行い危険ならば行わないというようなことではない。逆説的に書くならば、安危を問わず必要な場合なればこそ用いねばならぬから「兵」なのだ。もちろん、その成功を期し、無用の危険を避けるため、万全の策を講ずるのは当然。安全だから出すというのならば別に兵でなくてもよい。あえて自衛隊を出す必然性などどこにもない。

 小泉は、今夜、テンプラをつつきながら堀内総務会長に「わたしは年内に自衛隊を出すとは一度も言っていない」と宣もうた由。自衛隊の派遣目的が本当に「国連の要請」に基づく「イラクの復興援助」であり「日本の国際的責務」を果たすためのものだとしたら危険の有無などは本質的な問題ではない、準備が整い次第即日派遣するがよろしかろう。では、なぜ、「年内に出すとは言っていない」、つまり時期に拘らず状勢が好転したら派遣するなどと言うのか。

 小泉の逡巡は、まさに、およそ大義のない戦争を勝手におっ始め、あげくににっちもさっちも行かなくなったブッシュの寂しい祭壇に生花を贈って飾り立てる類の派遣であることを証明している。仮に自衛隊に二桁単位の犠牲者が出たならば、小泉も内閣も自民党も金魚のフンのごとき公明党も立ち往生してしまうだろう。犠牲者の墓前に手向ける大義が何もないのだから。だからこそ、安全なところに出すなどという本末を転倒した事柄があたかも重大事であるように語られてしまうのだ。

 ところで選挙期間中に田中真紀子はじつに痛烈な小泉批判をしたらしい。「そんなにイラクに自衛隊を出したいのなら、小泉さんは自分のところのあの売れない役者でも派遣したらいい」と。このアイデアは長谷川如是閑が紹介した「戦争絶滅法案」そのもので新味があるわけではないが、じつに妙案ではある。イラク派遣を熱心に主張している議員にもし適齢の子弟がいるのならその子弟を、議員自身が自衛隊員として適齢ならば本人がイラクに赴けばよかろう。生命の心配は要らない、確実にイラク国内の安全な場所に派遣すると、誰でもない彼らの親御殿か自分自身が請け負ってくれているから。(11/20/2003)

 日科技連のソフトウェア生産管理研究会の活動説明会を聞きに行く。主催の研究会、セミナー、シンポジウムのPRといえばそれまでなのだが、冒頭の「上海におけるソフトウェア最新事情」を中心とする話が面白かった。既に数回の技術交流を行ってきているのだが、彼の地の発展はめざましくメンバーは「もう上海には勝てないのではないか」という印象を強く持って帰ってきたものらしい。

 「中国式の乾杯はつがれた酒を飲み干さなければならない。紹興酒で数回乾杯を繰り返すとかなりアルコールが回る。驚いたのはかなり飲んだ後も相手の上海側メンバーがほぼ完璧な日本語を話すということ。あれほど飲んで外国語を的確にコントロールする自信はわたしにはない」と武蔵工大の兼子毅は言っていた。言語の障壁などものともせず、少人数によるプロジェクトチーム(5人ないし6人、その中に品質保証スタッフを含んでいる!)でモチベーションを維持しつつ高い品質のソフトウェアを作ってみせる彼らの能力は、現時点ではまだ日本に及ばないものの、そのスピードを考え合わせればもはや指呼の間にあるといってよいようだ。

 もちろんそれは時代も社会も「若い」からの話で、やがて彼ら自身にも彼らの社会にも必ず成長のひずみというツケは回り成熟というプラトーは訪れる。しかし、彼我の若者の姿勢の違いとおそらくは天と地ほどにも異なる「目の輝き」はかつて「若い」時代を経験した者には「焦り」のような感慨を抱かせるのかもしれない。(11/19/2003)

 藤井前道路公団総裁の馘をとろうと半日をかけて会談をした際、藤井が何人かの国会議員の実名ないしはイニシャルをあげて恫喝したと主張していた石原国交相、きょうになって、「広い意味で国がらみの土地の話が出たと述べただけだ」として国有地疑惑の発言を撤回した由。

 あれだけのことを言いながらこの発言。こんなお粗末な男でも今時の大臣は務まるんだから、この国、たいしたことはない。(11/18/2003)

 朝のラジオで永谷脩が昨日の高橋尚子の敗因について語っていた。おおよそこんな話。小出コーチは高橋の他に千葉真子のコーチも引き受けている。小出から見ると高橋はほぼ完成しているのに対し、新しく面倒を見ることになった千葉にはいろいろつけたい注文がある。女子の有力選手二人という時、往々にして優秀な選手の方がつぶれてしまうことがある。高橋には、おまえはもうオレの方からいうことはないいままでのようにやれといわれて、とまどってしまったところがあったのではないか。それが体調万全といわれた昨日の大会、思わぬところで破綻するもとになったのでないかということ。

 昨日、高橋が二着、しかも2時間27分21秒という予想外の記録に終った時、インタビューを受けた小出が「イヤー、ボクの方に油断があったということだね」と言っていたのはひょっとするとこのあたりのことをさしていたのかもしれない。

 木枯らし一号。風が冷たい一日だった。もし、東京国際女子マラソンが一日ずれて、きょうのコンディションだったとしたら、高橋の記録はどうだったのだろう。(11/17/2003)

 週末のニュース・サマリ番組、わずか一週間前の衆院選挙が、ずいぶん昔のことに思えるのが不思議。それでも党首交代した社民党とか自民党に吸収合併された保守新党といった「その後」のニュース・フォローを通しで見ると、それなりに興味深いものがある。

 保守新党の落選議員、熊谷某のニュースを見ながら雅之が「保守新党で一番汚い奴、知ってる?」、「江崎洋一郎ってんだよ。もとは民主党で、保守新党に鞍替えして、今度の選挙は自民党の比例代表に潜り込んだんだよ。比例だから落としたくても落とせないんだ」、「ずっと前、慶応で企画した政策ディベートの時さ、いざ本番という時になったら体調がよくないとか何とかいって帰っちゃったんだ。秘書がさ、先生はディベートがお嫌いなんですなんて言い訳してた、じゃ、最初から来るなよ、とにかく、卑怯な奴」。

 さっそくホームページを探索。本人のホームページはあるのだが、最新のデータは保守新党に移ってウンヌンカンヌンしてますというところで終っている。誇らしいはずの自民党比例区にて「当選!」というあって当然の記載がない。多少の恥は知っているということか、いや、ホームページなど選挙前だけ派手にすればいいと割り切っているのか。

 それにしても、民主党、保守新党経由というコウモリが自民党比例名簿でいいところに位置づけられたのは不思議と思って、さらに調べてみた。疑問はすぐに氷解した。あの江崎真澄の息子だった。なんのことはないただの二世議員なのだ。自民党を単なる政党と考えてはいけないようだ。あれは議員ギルド、血は他のなによりも強いマフィアのような集団らしい。(11/16/2003)

 NHK特集「崩れたイラクの復興計画〜アメリカの誤算〜」を見た。番組によると、アメリカ国務省は昨年の4月「戦後のイラク」の復興計画を立てるべく主にアメリカ国内やヨーロッパ在住の亡命イラク人を集めていたとのこと。つまりアメリカにとって「イラク攻撃」は何がどのように推移しようと必ず実行する「既定のプロジェクト」だったというわけだ。

 番組はその復興計画プロジェクトを構成する部会のうち「民主化部会」と「法と秩序部会」の活動を取り上げ、国防総省と国務省の綱引き、またその代理戦争ともいうべきINCとその他の民主化グループとの確執を描いていた。

 アメリカという国は、冷戦時代から伝統的に、こういうシチュエーションにおいては一番あやしげな人物を担いできたものだ。それはアメリカが目先の国益にとらわれるあまり常に茶坊主に籠絡されてきたという事情による。今回もアメリカはよりによって一番イラク国民が受け入れがたい、反政府活動とは縁もゆかりもないばかりかヨルダンの銀行で横領事件を起こした前科持ちという極めつけの胡散臭い人物を選んだ。それがアフマド・チャラビという男だ。チャラビは茶坊主特有の嗅覚で亡命イラク人の様々な階層の意見集約に手間取る国務省を見限り国防総省に乗り換えた。ペンタゴンはハイテク兵器による効率的に人を殺すことに関してはプロだが、生きている人間による生きている政治をどうするかについてはアマチュア以下なのかもしれない、あっさりこの「漢奸」を受け入れてしまった。ペンタゴン主導のイラク占領が現在のような混乱状態を招いたのは、ある意味で必然的なことだったのかもしれない。

 番組は「法と秩序部会」がまとめた報告書がほぼ正確にこの約半年の状況を予見していたことを紹介し、その提言が活かされなかったことを惜しんでいたが、エテ公なみの思考力のジョージ・ブッシュ、イラク復興ビジネスで私腹を肥やすことしか頭にないリチャード・チェイニーやドラキュラ公ドナルド・ラムズフェルドらには、この客観的かつ理性的言葉は理解不能だったに違いない。彼らにとってはイラク破壊とイラク復興に潤沢なカネが流れることだけが重要で、その地に暮らす人々がどうなるかはさしたる関心事ではないのだから。むしろ、事態の振れ幅が大きく通常以上の金が集まればその方がいいとさえ考えているのだろうから。(11/15/2003)

 武富士といえば東証一部上場、生まれはどうあれそれなりの会社と思いきや、その会社の法務担当の課長が「探偵会社」と組んで盗聴、しかも、その対象は武富士に対する批判記事取材をしていたフリージャーナリストとなれば話は穏やかではない。

 二重人格は人間に限ったことではない。会社にだって表の顔もあれば裏の顔もある、それは当たり前のことだが、問題はその落差の大小だ。武富士は、ヤクザ屋さんとの関係についてとかくの噂があり、残業代も支払わないトラブルが頻発するなど、必ずしもテレビコマーシャルの「ティッシュ配りも真心を持って」などという看板通りの会社ではないようだ。消費者金融比較サイトには数多くの業者の金利・サービスなどのデータが載っているが、武富士については一切掲載がなく、わざわざ「業界最大手の武富士のデータを載せない理由」というお断りを書いているくらいだ。

 いずれにしても、労基署から指導されるまで残業代も支払わず、口実を設けて退職金さえも延滞させる会社とあらば、裏の顔のレベルは「違法行為、脱法行為、当たり前」というところにあるのだろう。東証一部上場会社という看板も最近はずいぶんと劣化したものだ。(11/14/2003)

 夜のニュース。福田官房長官、記者から自衛隊の派遣について尋ねられて、「あなた、昨日の会見、出てなかったの、年内に派遣するという考え方は変わっていないといいましたよ、たまに来て質問しないで毎日来なさいよ」と、例の人を小馬鹿にした調子で答えていた。

 しかし、皮肉なことに、現実から馬鹿にされてしまったのは、福田の方だった。

 ナーシリアのイタリア軍警察の駐屯地に自爆攻撃がありイタリア軍兵士十数人が死亡というニュースが、夕方、入ってきたからだ。ナーシリアは自衛隊の派遣候補地とされていたサマワから100キロほど、比較的安全といわれ、それが候補地選定の理由だった。

 教訓、人に話す時は最低限の謙虚さは忘れない方がいい。とくに朝令暮改しなければならぬ可能性があるような場合には。(11/12/2003)

 夕刊に「原発の後処理19兆円」の見出し。それによると「内訳は、再処理工場の操業費9兆4千億円、高レベル放射性廃棄物を地下に埋める処分費2兆5千億円、使用済み核燃料の保管費用1兆9千億円など」となっており、「今回の試算を織り込んで発電コストを計算すると、天然ガス火力(6円40銭)や石炭火力(6円50銭)と『同等水準になる』(電力関係者)という」と記事は結んでいる。

 記事の中にはさりげなく「廃炉費用」が含まれるかのように書いてあるが、廃炉に関する費用は単純な炉の解体作業のみを非常におおざっぱに算出した程度の試算しかなく、解体した原子炉の「炉材」という超高レベル放射性廃棄物の処理費用までをきちんと見込んだものではない。電力会社、就中、原子力発電関係者は彼らはことコスト、安全性に関する限り、詐欺師も裸足で逃げ出したくなる強者どもだ。

 原子力発電は安全ではない、なぜなら人間は放射能を除去する技術をまだ獲得していないのだから。原子力発電は安くもない、なぜなら燃料、施設それぞれのライフサイクルにおいて発生する膨大な放射性廃棄物の処理に莫大なカネがかかるのだから。原子力発電は環境に優しくもない、放射性廃棄物の件を別にしても発電過程の前後に膨大なCO2発生過程を持たざるを得ない以上、CO2削減にも反するのだから。彼らの一人一人の顔と名前と発言内容を記憶しておこう。そして彼らが死した後に明らかになった虚偽項目の一つ一つを彼らの墓石に刻んでやろう。その上で「清浦雷作賞」を贈ることにしよう。清浦雷作、水俣病の原因解明を妨害し続けた「学匪」の名にふさわしい東工大教授にちなんで。(11/11/2003)

 衆院選の結果。自民237:小選挙区168:比例69(改選前247)、民主177:105:72(137)、公明34:9:25(31)、共産9:0:9(20)、社民6:1:5(18)、保守新党4:4:0(9)、無所属の会1:1:0(5)、自由連合1:1:0(1)、諸派0:0:0(2)、無所属11:11:0(5)。自公保で275は安定多数の由。したがって小泉は勝利宣言。民主もプラス40は「躍進」とかで勝利宣言。しかし、自民のマイナス10、保守のマイナス5に公明のプラス3では与党はけっして勝ったとはいえまい。もっとも、民主の増加分も共産、社民からはぎ取ったものと考えれば、与党に勝ったというのはあたるまい。

 注目すべきなのは、自民党が小選挙区で26%の得票を得ながら比例区では20%しか得票できなかったのに対し、民主党はそれぞれ21%、22%の得票率だったこと。投票率が59.86%であったことを考え合わせると、わずかながら地殻変動が起きつつあるような気がしないでもない。

 かつて大都市圏の首長選挙において「保革対決」という選挙があった。いまとなっては懐かしい「社共共闘候補」対「自民(保守)候補」という構図の対決だった。それぞれの選挙の多くは高い投票率のもと、反自民候補が連戦連勝する結果につながった。自分の票が死に票にならないという実感は、投票率を押し上げ反権力に向かう契機となりうる。今回の選挙は一挙に「自民党の対抗馬には民主党」という分かりやすい「選択例」をクローズアップすることになった。

 無党派層が自民党の集票構造の限界を見極め、自分おかれた状況に呪詛を投げつける時、自民党は権力の座から転げ落ちる。「投票日には家で寝ていてもらいたい」(森前首相)の言葉はそういった事情を動物的感覚から語ったものだった。比例区で目に見えぬ敗北を喫した自民党にその足音は聞こえているだろうか。(11/10/2003)

 衆院選投票日。全国的に天気はよくないようだ。ただ雨は降っていないので、かえって投票率は上がるかもしれない。選挙のたびに期待することは、もうそろそろ、このどうにもならない閉塞感をふりはらうような結果が出ないものかということ。

 たとえば、自衛隊員とその家族。彼らにとっては、わけの分からない理由のもとにイラクで自分や夫・父母・子供・兄弟の生命を危険にさらすか否かがかかっているだろうに。小沢一郎をして「恐るべき答えだった。(戦争を)その場の雰囲気で決めるっちゅうんだから」と語らしめた小泉が率いる自民党に投票する自衛隊員はどれほどいるものだろうか。「空気」で派遣されることが予想されても、彼らは自民党に投票するのだろうか。

 政権が適宜交代することなくしては権力は腐るばかりだ。「誰がなっても同じ」というなら、変えればいいではないか。その緊張感が自民党をまっとうな政権に叩き直すだろうに。(11/9/2003)

 朝日新聞のホームページを見ていたら、「『戦争のヒロイン』リンチさん、軍の操作を批判」という見出しが目に入った。イラク「戦争」中頃に報ぜられた捕虜救出劇のヒロイン、ジェシカ・リンチ上等兵が、米軍関係者がことさらに救出場面を撮影し、英雄物語を捏造したとABCテレビのインタビューで語ったという記事。末尾にはこんな記述がある。「イラクの病院関係者には感謝している様子を見せ、『誰も私をたたいたり、張り飛ばしたりしなかった。生きていられるのは彼らのおかげだ』と語った」。

 ジェシカ・リンチ事件は、少しばかり注意をはらえば、最初からでっち上げくさいところが仄見えるお粗末な「戦争美談」だった。この陳腐な「美談」にすぐにも酔っぱらってしまった新聞があったっけ。戦争大好き、アメリカ盲従のサンケイ新聞だった。ほぼ同時にスポニチは並行して入った外電情報で「眉に唾をつけて」見せた。まさにジャーナリズムのジャーナリズムとしての機能を発揮したわけだ。

 スポーツ新聞にも劣る「眼力」のサンケイ新聞の読者は「お気の毒」という他はない。もっともそのバカさ加減が一部のサンケイ読者にとってはたまらなくよいのかもしれぬが。(11/8/2003)

 エン振協のシンポジウム一日目。招待講演、キャノンの御手洗社長の話も、特別講演、毛利衛の話も、それぞれにインパクトのあるもので、なかなかよかった。そのあとのパネルディスカッションでは三菱重工の柘植綾夫が光っていたと思う。

 毛利はあまり話がうまくない。少なくとも立て板に水、たくさん講演をこなしてますという感じはしない。むしろ講演後の質疑応答に彼のパーソナリティが発揮されていた。質問はふたつだった。ひとつは宇宙飛行士の多くが神の啓示を受けた体験を語っているが・・・というもの。もうひとつは中国の有人宇宙飛行をどう思うかというもの。前者に対する答えはあっさりしたものだった。「わたしはサイエンティストなので神の啓示というよりは、地球規模でいろいろな現象が相関しあっているということに感銘を受けた」。後者に対する答えが毛利の話のエッセンスだったと思う。「中国には軍事的なことや国家威信のようなものがあるのだろうが、飛行士はけっしてそういうことだけを思って帰ってきていないと思う。わたしが興味があるのは4000年という長い歴史をもった国の人が何人か宇宙飛行をして帰ってくれば、きっと欧米の宇宙飛行士とは少し違ったアジア的な考え方、自然と人間を対立させず、すべてのものがつながっているというアジア的な見方というものを発展させてくれるのではないか、そういうことだ。いずれ中国も国際宇宙ステーションの枠組みに合流することになるだろう。これからは一人勝ちの世界というものはない。51%の多数をとったら残りの49%は負け組として支配されるという世界が成り立たないことはだんだんに分かってきていると思う」。非常に示唆に富む回答だったと思う。

 あるものを引き立てるために、別のはるかに劣るものを引き合いに出すというのは下品なことだと思うけれど、やはり書いておこう。中国の有人宇宙飛行について、首都の知事を務める男がこんなことを言って右翼マインドの人々の拍手喝采を受けていた。「中国人はバカだから、あんなものに大騒ぎをしている。有人宇宙飛行なんか、もう時代遅れなんだ」。スペースシャトルが打ち上げられても「アメリカ人はバカだから・・・」とは言わないくせに、相手が中国となるととたんに妙な競争心を高ぶらせるのがなんとも子供じみている。言葉の端々に悔しさをにじませたこの言葉こそ、この男の人物としての器の小ささを如実に現わすものだった。

 毛利、石原、どちらの言葉が日本を代表しているのか、一昔前なら話は決まっていたが、最近の愚かしい風潮の中では分からなくなってきた。こんな男が首都の知事を務めていられるのだから。(11/6/2003)

 今や話題の人、天木直人の「さらば外務省!」を読んだ。高杉良は「腐りきった外務省にも志の高い気骨のある憂国の士が存在した」と評していたがたしかにその通り。森政権の末期を「幹が腐り果てても、巻き付いた蔓草が絡み合っているがために倒れない」と書いたことを思い出したが、まさにそういう感じた。しかし、どうだろう、天木がこの本で批判したことがらのいくつかはちょっとスケールが違うだけで、普通の会社でもよく見かけることだ。タクシーチケットやコーポレイトクレジットカードでの支払い内容に常識を疑いたくなるような部課長などはどこの会社にもいる。共通しているのは、そのいずれもが心の中にいささかの教養もノーブルさももたないくせにエリート意識ばかりが過剰だということだ。問題は、それが国を代表する外交官だというから、目も当てられない話になるということ。

 天木が書いたいくつもの挿話の中で「弄ばれた外交―EAEC構想実現への顛末」の章などは拉致問題を首脳声明にも議長総括にも盛り込ませることができなかった先日のAPECにおける「小泉外交」の不様な失敗の背景を語るものだし、「栗山尚一―『外務省員洗脳の書』の読まれ方」の章に紹介されている日米安保論のバカバカしさなどは岡崎久彦の「国家と情報−日本の外交戦略を求めて−」の無論理性に通底していておおいに嗤える。(11/5/2003)

 夕刊から。EUが域内の世論調査(対象:加盟15ヵ国、回答者:約7500人)を行ったところ、世界の平和にとっての脅威は、一位、イスラエル59%、二位は53%の同率でアメリカと北朝鮮が並び、イラクは52%でわずかにアメリカを下回った由。

 アメリカが脅威だと答えたのはギリシャが88%で最も多く、スペイン、フィンランド、スウェーデンでそれぞれトップ、15ヵ国中13ヵ国で過半数の人がアメリカこそ平和の脅威と回答した。面白かったのはイギリスでも55%がアメリカを平和の脅威とし、フランスの52%、ドイツの45%を上回ったこと。引きずり回された国の国民の怨念なのかもしれない。

 この記事の脇に、米国務省エアリー副報道官のコメント記事。「米国が世界平和の脅威であるという認識に関して、もしそういう認識であるならば、実態と非常に異なっている。米国の行動は、友好国や同盟国とともに、世界中に安定と平和と自由を拡大したいという願望に基づいている。我々の行動を見ればおのずと分かるはずだ」。反省しない奴はどんな事実を前にしても反省しないものだ。アメリカよ、おまえこそが世界の癌なのだ。(11/4/2003)

 「テロ」という言葉が猖獗をきわめている。ところが「テロ」という言葉の定義について確たるコンセンサスがない。街頭で百人の人に「テロとはなんですか」という質問をしたら、論理的にまともな答えは返ってこないだろう。そんな幽霊みたいな言葉がふらふらと独り歩きをしている。イメージばかりの言葉に寄りかかって、いったい何が分かり、どのように当為を考え得るのだろう。

 ひとつふたつあげておく。

 マスコミの多くは「イラクでは米英軍に対するテロ活動が治まらず・・・」などと報じているが、これほど引きも切らず、占領当局の打ち手の裏をかいてなされる攻撃は散発的なテロと呼ぶよりは、むしろある程度組織され統制されたゲリラ戦という方が正しいのではないだろうか。テロというよりはゲリラであればこそ彼らの行動がイラク民衆の海の中に隠され、その結果、米英軍の「取り締まり」はほとんど効果を上げていないのだから。

 今や愚かさが売り物になってしまった感のある「家族会」と「救う会」が衆院選の立候補者にアンケートをとった。その中に「北朝鮮による日本人拉致をテロと認識するか」という質問項目があった。「拉致ヒステリー状況」にあって立候補者が無難な回答を選ぶことは無理もなく975人の回答者のうち93%が「テロと認識する」と回答した由。「家族会」と「救う会」の知能程度の低さには呆れるばかりだ。

 拉致は北朝鮮の国家機関によって計画的になされた犯罪行為だと認識されているはずだ。昨年、金正日が小泉に対して「一部の者が誤った英雄主義から引き起こした」といったと伝えられた時、かなりの日本人は内心「ウソをつけ、おまえが計画・指導したんだろうが」と思ったはずだ。なるほど金正日が主謀者であること、あるいは少なくとも計画時点でその内容を知っていたことを明確に立証することはできない。しかし、あの体制下で金正日が関知しないことが実行されるとは考えられない以上、この推定はおそらく正しい。

 一方、現在、EUや国連で論議されている「テロ」の定義は「一国または複数の国、そしてその機関や国民に対し、それらを威嚇し、国家の政治、経済、社会の構造を深刻に変容させる、あるいは破壊する目的をもって、個人または集団が故意にはたらく攻撃的行為」というもので、「テロ行為」の主体は「個人」または「集団」とされ、「国家」および「国家機関」は周到に排除されている。

 つまり、「拉致はテロだ」ということは一連の日本人拉致を北朝鮮の国家犯罪ではなく、北朝鮮内の「一部の者」が引き起こした犯罪だという金正日の主張を認めることを意味している。「家族会」や「救う会」は自分たちがどれほど支離滅裂な活動をしているか、自らの愚かさにとんと気づいていないらしい。(11/3/2003)

 丸谷才一の「恋と女の日本文学」は彼の「訪中日本作家団」の思い出から始められている。懇談の際に井上ひさしが少しエロチックな比喩を用いたところが、むこうの作家はぜんぜんそれにのってこない。井上ひさしは意地になって幾度も同種のイロがらみのジョークを放ったが、ついに相手はそれを受けて返してくることがなかったという話。丸谷はこのエピソードから、なぜ中国人はエロチックな冗談を嫌うか、それは儒教の伝統のせいだとして、「古来、中国文学で恋愛が軽んじられるのはこれと関係がある」、「中国文学は恋愛嫌いなのだ」と結論していた。(「長恨歌」の中の「温泉水滑洗凝脂」などの表現は十分にエロチックだと思うが)

 中国西安にある西北大学の文化祭で日本人留学生が演じた卑猥な寸劇(いったいどんなものだったのか?)が中国人学生を怒らせかなりの騒動になっているというニュースを聞いて、ふと丸谷のこの本のことを思い出した。黄色人種としての容貌の相似、漢字を言語表記の核として共有していること、様々な故事・格言その他の文化的共有、・・・、そういうものはあるとしても、やはり、違いは違いとしてある。「手紙」はこの国では「レター」だが、彼の国では「トイレットペーパー」だ。同じ文字から二国の人々が脳裏に浮かべるものは時に大きく違うのだ。(11/2/2003)

 埼玉参院補選の結果。当選は自民党の関口昌一。得票は、自民648,319、民主635,332、共産232,850、投票率27.52%。それにしても投票率の低いこと。もっとも来年の7月までの任期とあらば、こんなものかもしれぬが。自民党は共産党に足を向けて寝られないだろう。共産党の活躍がなければ、知事選に続いて惨敗したことはまちがいないのだから。

 日本シリーズ第7戦は6−2でホークス。ある意味では面白いシリーズだった。どちらのチームもホームでしか勝てなかったという点で。もっとも、谷博というヘボ審判が二塁塁審を勤めていなければ、第4戦はホークスが一点差ないしは二点差で勝っていた試合だったから、ホークスは敵地で一勝していたことになる。と、すれば、このシリーズは5勝2敗という内容で終った、珍しいシリーズだったと記録しておくのが正しいのかもしれない。(10/27/2003)

 松本清張の小説に視聴率調査の怪しさをタネにしたものがあった。テレビ視聴率はいろいろいわれるが身近に視聴率調査に協力しているという話を聞いたことがないという素朴な疑問から物語を始めていたように記憶する。清張の素朴な疑問はサンプル世帯の数が普通に想像するより圧倒的に少ないことと、協力世帯に関する情報が厳重に秘匿されていることから発したものらしい。

 しかし、マーフィーの法則、「失敗する可能性のあるものは必ず失敗する」どおり、「視聴率をごまかす可能性があるなら必ずごまかそうとする者が現れ」た。日本テレビのプロデューサーが興信所を使ってビデオリサーチの調査対象世帯を調べ、その世帯に5,000円〜10,000円の金券あるいは現金を渡し、自分が製作に関わった番組を見るよう依頼をしていた由。

 たったひとつの指標を万能の指標のように扱ったり、ひとつだけの手法に調査を限定する限り、この手の話は繰り返し起きるものと思った方がよい。いや既に露見しない形で広く行われている可能性だってあるかもしれない。

 それにしても、昔は視聴率調査にニールセンという名前もあったはずだが、いまはビデオリサーチの独占なのかしらん。(10/25/2003)

 石原国交相が藤井総裁の解任を正式に決定した。今週月曜といわれた解任がここまでずれ込んだのは、先週の聴聞の報告書のとりまとめに手間取ったためとされているが、たぶん、藤井が地位保全の訴えを起こした場合に備えて、文書をいろいろな角度から検討しブラッシュアップしておくことが必要だったからだろう。

 それにしても石原のバカさ加減がクローズアップした一連の騒動だった。テレビに出てチャラチャラと藤井が道路族議員の名前を出したなどといい、名前を問われるやあわてて実名ではなくイニシャルだったと釈明し、それなりの調査が必要だと指摘されて、国交省が調べることではないといい、大臣としてそれでは責務が果たせぬのではないかと詰め寄られると、藤井が明らかにすればいいと逃れ、藤井側から守秘義務解除に関する確認請求が出る始末。「子供の使い」でかいた恥で留めておけばよかったものを、ご丁寧極まる恥の上塗りの連続。小泉内閣にはよくよくノータリンがそろっているものと見える。

 タイガース、甲子園三連勝。もし、このタイガースが優勝したらMVPはセリーグの審判、谷だ。(10/24/2003)

 小泉首相が中曽根・宮沢を順に訪問し、比例区候補73歳定年制の党規定を理由に公認辞退を申し入れた。宮沢は「総理に恥をかかせるわけにはゆかないでしょう」と了承したのに対し、中曽根はこれを拒否したというニュース。夕刊に中曽根の弁が載っている。こんな話だ。「平成8年に群馬県の小選挙区に小渕さんと福田さんが出るので、ぜひ比例区に回ってくれ、と。当時の橋本総裁や加藤幹事長が討議決定して、中曽根は北関東で終身、最上位にする、と。これは選挙民に対する党の公約だ。それを破るのか。小泉総理はバリ島でもバンコクでも私と宮沢氏については本人の判断に従う、と言い続けてきたが、突如おいでになって『やめてくれ』というのは非礼だ。・・・(略)・・・本来なら総理・総裁の立場で2回も3回も会って、その上で決める、というのが総裁の仁義だろう」。

 ふたつある。ひとつは「終身一位保証」の可笑しさだ。「終身刑」ではあるまいに死ぬまで名簿順位一位を保証するなどということそのものが前近代的な話で、それを楯にとる中曽根の言い分は形式論としては成り立つが強く主張できるほどのものではない。しかし、もうひとつの手続き問題は圧倒的に中曽根が正しい。孔明が劉備に仕えたのは玄徳が三顧の礼を尽くしたからだ。後進に譲ってもらう時も同じこと。まして中曽根は大先輩。自分の理屈を説明し、頭を下げ、思いの丈を十分に聴き取ってはじめて通ずる話を、もうどん詰まりの選挙公示直前になって辞退しろというのは、たしかに非礼な話だ。

 おそらく小泉は藤井総裁の時もそうコメントしたように「当然、辞退するものと思ったんだけどね」ということなのだろう。事が自然に運ばないこともある、それに備えてどのようにしておくか、小泉という男にはそういう想像力と知恵が浮かばないらしい。馘にするという空気である以上、自分にとって一番都合のいい時に「馘だ」といえば辞める「と思ったんだけどね」。定年制がある以上、立候補は辞退する「と思ったんだけどね」。それでも辞退するといわないのなら、総理である自分がゆけば恐縮して辞退するに違いない「と思ったんだけどね」。

 一年ほど前、「一時帰国」した拉致被害者を帰さないという政府決定が出た際、十日先の状況も読めない小泉政権を嗤ったものだが、一事が万事、小泉は先の読めない行き当たりばったりを繰り返している。はっきりと言えることは何か、小泉には眼前の事態を見抜くための知恵がない、そしてこれは既にほとんどの人が同意すると思うが爬虫類のような冷たさでおよそ人間としての情を持ち合わせていない、そしてなにより事を詰めてゆく注意深さというものが欠片もない。

 こういう人間には「改革」などはできっこない。経済に限らずありとあらゆることを手当たり次第散らかしたあげくに、「できると思ったんだけどね」などといいながら、万策尽きて政権を放り出されることだけは避けなければならないのだが・・・。小泉政権はそういうことをしかねない兆候を示している。

 タイガース、二夜連続のサヨナラ勝ちでシリーズ2勝2敗に。今夜は6−5が公式結果だが、初回の赤星の盗塁はあきらかなアウト。本来は5−3、ないしは5−4でホークスが勝っていた試合。(10/23/2003)

 バンコクで開かれていたAPECが終了し首脳声明が発表された。日本が強く主張した拉致問題については首脳声明はおろか議長総括文書にも盛り込まれなかった。15億ドルの無償供与をぽんと出し和牛ステーキで歓待したばかりの小泉が頼りにしたブッシュは肝心の場ではみごとに「沈黙」してしまい、「援軍」を期待した日本は肩すかしを食らった格好。

 けさのNHKニュースには拉致問題も北朝鮮問題も声明に盛り込まれなかったことを意外とするような口吻が聞き取れて思わず嗤ってしまった。客観的かつ冷静に考えれば、もともと拉致問題など核開発問題に比べれば些細な問題であることは誰にでもわかる話だ。国にとっても、多くの国民にとっても、拉致問題のようなものが最重要課題であるわけがない。先週発売のニューズウィーク日本版に「拉致ヒステリーの落とし穴」という記事があった。「拉致問題をめぐるかたくなな姿勢は日本が地域の平和の推進役になる上で障害になっている」という彼の「外資系週刊誌」の指摘は100パーセント正しい。

 しかし、それでも拉致という国家犯罪の早期解決のために参加各国の口添えが欲しいというのなら、日本政府には相応の独自性とアジアの先進国たる尊敬を集められるような「日常活動」が必要だった。歴史認識において「あの国はまだ大東亜共栄圏時代の意識から一歩も出ていない」と疑われたり、いくつかの国際課題の解決にあたって「アメリカの信託統治領程度の発言しかできない幼児国」と見なされている状況で、そのような尊敬などあるわけがないことに我々は留意すべきだ。

 そういう決定的な自己認識の低さが「小泉外交」の不様な失敗につながったのだ。所詮忠犬ジュンイチローにできる「外交」というのはブッシュに尻尾を振って「ヒェーヘッヘ」という下卑た笑いをとるくらいのことだったようだ。ごく普通の国ではあのようなものを「外交」とは呼ばない。(10/22/2003)

 日本シリーズは雨で順延。中継時間の関係でワールドシリーズと同期することになってしまった。

 夕刊に高杉良が「志、いかに貫くべきか」と題する一文を寄せている。取り上げられているのは、藤井治芳道路公団総裁、天木直人前駐レバノン特命全権大使、中坊公平旧住宅金融債権管理機構初代社長、そして、原辰徳前ジャイアンツ監督の4人。それぞれの出処進退について高杉はこのように評価している。「4人の中で見事な引き際を見せたのは、天木氏だけだ。原氏は中途半端、藤井氏は言葉とは裏腹に地位に恋々とし、中坊氏は遅きに失したと、と私は思う」と。

 天木はアメリカのイラク攻撃前に意見具申の制度に則って、国連決議なしの対イラク攻撃を日本として阻止すべきことと中東和平交渉の一日も早い再開を訴えたものだったが、外務省内で握りつぶされ、8月末に依願退職の形式をとりながら事実上の馘になっている。天木の件をいちばん早く伝えたのは近々休刊する「噂の真相・10月号」だった。「噂真」によると、69年入省のキャリア、アフリカ二課長、内閣安全保障室審議官などを経て、2001年から駐レバノン全権大使を務めていた由。これまでもアパルトヘイト政策をとり続けた南ア共和国の経済制裁を主張して左遷されたことがあるとかで、おそらく名誉白人称号などをもらうとすぐにヘラヘラしてしまう岡崎久彦のような典型的外務官僚とは対極にある人なのだろう。(10/21/2003)

 ビンラディンが送ってきた声明テープをアルジャジーラが放送。イラク国内の反米攻撃を賞賛し、アメリカ内外のアメリカ人に対する殉教作戦を継続するとした上で、「この不当な戦争に参加するすべての国々、特にイギリス、スペイン、オーストラリア、ポーランド、ニッポン、イタリアに対して然るべき時期と場所を選んで報復を行う」と宣言した由。ポーランドの次というのが不満かもしれないが、日本の「グローバル化」の発露としてコイズミ、以て瞑すべしか。そんなことより、ブッシュ政権の支持率が落ちるごとに、ビンラディンが声明を出すタイミングの良さの方が気にかかる。

 死んであの世からこの世を見ることができるならば、是非とも本当のところを確認したいものがある。イスラエルとパレスチナ強硬派、北朝鮮と韓国安全企画部、コンピュータウィルスの作成者とアンチウィルスソフトメーカー、・・・、そしてアメリカとビンラディンの関係。

 朝刊の片隅に小さな記事。スイス当局がフジモリの銀行口座に関する情報をペルー当局に提供する意向を伝えたとのこと。容疑はフジモリ政権時の戦闘機購入に際し1,800万ドルのリベートがフジモリ個人に支払われたのではないかというもの。既にフジモリ側近だったモンテシノスがスイスの17あまりの銀行口座に合計7,000万ドルを隠し持っていたことが明らかになっているとあるから、フジモリに対する容疑内容の確度は高いのだろう。これだけのカネを隠し持っているとすれば、曽野綾子がフジモリの宿の世話をイソイソと引き受けた理由も頷ける。(10/20/2003)

 朝はワールドシリーズ第一戦。松井4打数3安打するも、試合は3−2でフロリダ・マーリンズの勝ち。中継映像のバックネットPRスクリーンに「イーオンはMLBの公式スポンサーです」という表示。これが日本語。天下のNHKをCMに使うとはイーオンとその広告代理店はすごい。松井効果といってもいいのかもしれない。

 夜の日本シリーズ中継に備えて午後のうちにウォーキング。いつもの川沿いの遊歩道で一休み。老夫婦がポケットラジオを脇に置いてサンドイッチを食べている。耳が遠いのか少しばかり大きな音量。番組は伊集院光の「日曜日の秘密基地」。立川談志が出ていていつもの調子。最近のニセ保守主義者と似てずいぶん危なっかしい話をしている。「三国志に出てくる樊カイが・・・」ときた。

 と、「項羽、樊カイが『三国志』だって? バカが」と吐き捨てる声が近くから聞こえた。(そりゃ、そうだ。時代が違いすぎる)と嗤いながらふり返ると、声の主はどう見ても高校生、ひょっとすると中学生ぐらいの男の子だった。(ホウ、まさに「後生畏る可し」だ)と少しばかりその声の主を頼もしく思う反面、聴取者・大衆のレベルを見切ったつもりでいる芸人の薄っぺらな「教養」と、とかくに批判のある近頃の若者の「教養」の意外なギャップがひどく可笑しかった。噺家が期すべきは「笑い」であって、「嗤い」ではなかろう。

 夜の日本シリーズは凡戦。ホークスは16安打13点、タイガースは完封。神様、「鉄槌を下す」という願いは取り下げます。シーズンの最後ぐらいは楽しめる野球にして欲しい。(10/19/2003)

 昨日の星野の勇退報道。つくづく星野仙一という男はマスコミの使い方がうまいなあと思った。同時に日本シリーズの前々日(第一報は一昨日の夜、風呂の中で聞いたラジオだった)を狙った勇退発表というのはまさに「ここまでやるか」の世界で、「許せないなぁ」とも思った。真の野球ファンは日本シリーズにこんな「場外ネタ」がからむことをけっして歓迎しないはずだ。シリーズは純粋にゲームの枠の中で楽しみたい、ほとんどすべての野球ファンはそう思っているはずだ。

 おおかたの素朴なファンはこの報道を「洩れてしまった報道」と思うのだろうが、スポーツ紙全紙が一斉に報じていることから考えて、星野がごく限られた人に漏らしたことが伝わり、それをかぎつけた心ない記者がスクープを狙ったなどということでないことは明らかだ。この報道は星野の意志で、星野の黙認のもとに、最大の効果を上げることを十分に計算した上でなされたと思う。

 星野は今シーズン限りで勇退する方がいいと思っていたし、そうするだろうとも思っていた。しかし、彼はおそらく野球人としてのステージのあとのことを考えてこの勇退発表をしたのだろう。そういう野球を食い物にするようなあざとい行動を心から憎む。

 だから、信じたい、野球には野球の神様がおり、このような小賢しい猿知恵に鉄槌を下すことを。その意味で今夜のホークスのサヨナラ勝ちは快事。(10/18/2003)

 注目の藤井道路公団総裁の聴聞は朝10時に始まり夜7時過ぎまでかかった由。

 冒頭、藤井側の代理人は今回の解任手続きが懲戒処分なのか分限処分なのかを問うたという。なるほど、これが懲戒処分だというのなら職務に対する明らかな脱法行為があったということになるし、分限処分だというなら職務遂行が困難と判定される理由の説明が必要なことになる。

 小泉のフリフリ改革のコンテンツとして国交省が用意しているのは、単なる有料道路管理会社の民間会社化のみで、道路建設機能には手をつけないというシナリオ。このシナリオにすんなり移行するためには公団が既に債務超過状態にあるとする「幻の財務諸表」問題には触れたくない、これが国交省のハラだ。だから、まちがっても懲戒処分だなどとはいえない。

 しかし、一方、能力の適格性を問うとするなら、適格性が疑われるような対応が扇大臣在任中にはなく、石原大臣の着任後ににわかに発生したというのも相当の無理がある。ことが石原の藤井に対する個人的な好悪に見えてしまえば、田中真紀子対外務省事務方のような話に転移しかねない。

 さらに2,600万ともいわれる退職金は、懲戒処分ならば出ないが、分限処分ならば少なくともゼロにはならない。じつにまあうまいところをつくものだ。さすがプロは違う。(10/17/2003)

 朝の武蔵野線でのこと。混み合った社内で後頭部に新聞紙らしきものが触れる。振り返らずに手で払いのけるが西国分寺に着くまでの間、二度、三度、繰り返し触れる。西国分寺が近づき、減速したところで振り向いて新聞の主を確かめ、睨みつけた。若い、少しやせ気味の、こちらよりちょっとだけ背の低い、男だった。そのとたんに声が出た。「新聞があたってる、込んでるんだ、気をつけろ」、自分の声なのに自分の声ではないようだった。

 相手は意外に素直に「すいません」といいながら頭を下げた。そして、もう一度「すいません」といった。その時、また、声が出た。「気、つけないと、そのうち、怪我するぞ」。相手がもう一度頭を下げながら「すいません」といった時、男の無防備な頬が目の前に晒された。殴りたいと、そう思った自分を(エッ、どうしたんだ)と思いながら、かろうじて手をあげるのを思いとどまった。

 イヤな感じだった。その男が優男でなければ、睨むだけで声など出さないことははっきりしていた。「すいません」を二度も繰り返さなければ、「怪我するぞ」などという言葉を口にするはずもないこともはっきりしていた。殴りたいなどと思っても、その気持ちを抑える必要すらなかったろう。すべては、相手を威嚇しても、手が出ても、大丈夫とふんだところから出てきている感情なのだ。ああ、イヤな奴だ、オレは。恥ずかしい気もし、半日、気分が悪かった。(10/16/2003)

 ニュートンの運動の方程式「F=ma」を俗っぽく解説するとしたら、動いているものは力を使わなくても動き続けるが、止まっているものは力を使わなくては動かすことができないということになる。

 去年の今頃、拉致問題は動いていた。金正日が「一部の者の冒険主義」といういいわけをしながらも国家犯罪たる拉致事件を認めた以上、否応なく事態は動き始めた。あとはこの動きの中で両国の関係部門がそれぞれが目標とする地点に向かってハンドリングをしてゆくことが求められていた。不幸だったのは、日本政府の中にちょっとばかり外交センスに欠ける、どちらかといえば「愚か」と形容した方がよい「政府高官」がいたことだった。

 彼は「困っているのは北だ。こちらが強硬に出れば、相手は必ず折れてくる」と判断し、拉致問題を認めさせその一部の帰国に道をつけた外務官僚以上の成果を引き出して自分の株を上げるチャンスだと考えた。世の中にはあとからやって来て先行者の成果を横取りする奴がいる。会社などでよく見かける輩。この手の人間にもふたつのタイプがある。イヤな奴ではあるがやはり有能でしっかりプロジェクトを仕上げるタイプと、食い散らかしたあげくにプロジェクトをめちゃくちゃにして犯した失敗を他人のせいにして逃げ去るタイプだ。我が「政府高官」がどちらのタイプであったかは、既に誰もが知っているとおり。

 運動している物体にはイナーシャがある。したがって、所期の場所に向けて押してゆくことは、楽とはいわぬが、静止している物体を動かし目的地に運ぶのに比べれば、はるかに容易い。

 愚かな「政府高官」のつまらない「野心」は、結局の所、拉致問題を完全に止めてしまった。再び動かすことは、ただでさえ最初の一転がりをさせることが難しい北朝鮮マターのこと、非力な「政府高官」にはおそらくできないだろう。この愚かな政府高官、名前を安倍晋三という。(10/15/2003)

 新聞休刊日。拉致被害者5人の帰国から1年。前々から彼らの帰国前夜と帰国日に新聞各紙がどんな「言葉」を使っていたのかが気になって調べてみようと思っていた。朝毎読三紙は縮刷版があるので比較的簡単だがサンケイには縮刷版がない。ナマ綴じがある図書館に頼るしかないのだ。勝手を知った日比谷図書館となると前と違っていまは出かけついでになるが、時間がなかったり忘れてしまったり。

 やっと先週、日比谷図書館に寄った。ところが肝心の帰国当日、15日のサンケイ新聞は朝刊も夕刊も綴じ込まれていない。日比谷のナマ綴じは1〜15日までと16〜月末までの2分冊になっているのだが、「サンケイ2002年10月1〜15日」分冊は14日の朝刊が最後になっている。「どうしてだ?」。

 他紙の縮刷版と見比べてはじめて事情が分かった。去年の10/14は「体育の日」、したがって14日の夕刊はナシ、翌10/15は新聞休刊日で朝刊がなく、各紙は15日の夕刊で拉致被害者の帰国第一報を伝えた。しかし、サンケイは経営上の理由で夕刊を廃止したため、15日は朝夕刊ともナシで、帰国日の報道はできなかった、と、こういうことだった。

 かつて夕刊の廃止についていいわけした際、サンケイ抄の筆者が主観的に「クォリティ・ペーパー」を意識しているのを大いに嗤ったことがあるが、縮刷版は出さず、かつ肝心の日に全休してしまう「全国紙」など「情けない」の一語。もっとも、サンケイが縮刷版を出さない理由は都合の悪いことはどんどんごまかそうというポリシーから来るものらしく、石原三国人発言の際にはこれが非常に役立ったらしい。(石原慎太郎が三国人発言を撤回したことに関する報道をサンケイは最後までニグレクトした)

 拉致被害者帰国頃の報道において確認したかった「言葉」というのは、各紙の意識は「一時帰国」であったのか、それとも「永住帰国」であったのか、どちらだったかということ。結論は、読売やサンケイも含めて全紙とも「一時帰国」と伝えた(政府発表の中では「一時帰国」だった)だけではなく、その他ニュース、トピック記事ともすべて「一時帰国」で一貫していた。

 つまり、5人は再度北朝鮮に戻り家族・子供とも相談の上、永住帰国を含む選択をするということが、サンケイのような新聞でさえ認めていたスタートラインだったわけだ。おそらく、つまらぬ感情に押し流されることなく手順を踏んでいたならば、5人以外の拉致被害者に関する真相の究明が進展していたかどうかは別として、最悪でも彼ら5人はいまごろは家族揃ってこの一周年を迎えていたのではないか。(10/14/2003)

 サンデー・プロジェクトに石原伸晃が出ていた。「バカだなぁ」という哀れみは覚えるものの、親父の慎太郎ほどに腹立たしくは思えない。藤井が道路族議員の実名をあげてその実態を知っていると言っただの、本当のことを言ったら死人が出るなどと脅迫まがいのことを言っただの、それはそれでなかなか興味深い話ではあるが、どこか「告げ口ノブチャン」という匂いがつきまとう。「ねっ、ハルホチャンって、悪い子なんだ、こんなことも、あんなことも、それから、サ・・・」と目を輝かせて言われると、「ああ、そう、そうなの、悪い子だねぇ〜、ハルホチャンは。さ、歯、磨いて寝なさい」と言いたくなってしまう。

 慎太郎同様、伸晃も、一生懸命、自分が思い描く大衆に波長を合わせひたすら拍手を勝ち取ろうとしている。だが、一方はそれなりにムカつかせてくれるのに、どうして、こちらは可哀想にとしか思えないのだろうかと、いろいろ考えたが、よく分からなかった。あえていえば、まだ「芸の磨き」が足りないということなのかもしれない。慎太郎にはここまで言えばこういうウケがとれるという経験に基づくしっかりした計算があり目をパチクリはさせるがウロウロはさせずに「どうだ」という気迫で演じきる度胸があるが、伸晃にはまだそういう大衆を呑んでかかれるほどの経験も計算も胆力もないから必然的に目はウロウロ飛び回るし「ええい、ままよ」の演技は臭すぎて鑑賞に堪えない、と、まあ、そんなところか。(10/12/2003)

 小泉はこの解散を「改革解散」と名付けたそうだ。彼の内閣はネーミングの巧みさで希薄な中味をカムフラージュしてきたテンプラ内閣だが、年を追うごとにそのパワーも凋んできたようだ。「改革解散」ではなにほどのインパクトもない、油の抜けた年寄りみたいな言語感覚だ。

 新聞に載った「解散」命名で一番気ぴったり来たのは内橋克人の「自惚れ解散」。「人気のあるうちに足場を固めたいという下心が見える」というのが命名理由の由。

 それにしても「民営化」すれば、それが「改革」というのはなんとも不思議な話だ。

 かつて国鉄清算事業団という組織があった。国鉄の分割民営化を進めるにあたって、25兆5,000億円の負債と9,250ヘクタールの土地を継承し、87年4月から98年10月まで土地やJR各社の株を売却し借金の返済にあたったのだが、利払い負担で98年の解散時にはしっかりと27兆7,000億円まで赤字を増やしてくれていた。結局、売れなかった土地と年金関係の4兆2,000億円は鉄道建設公団に引き継がれ、残りの23兆5,000億円は国民負担として一般会計から60年かけて返済するということになった。ややこしいキャッチボールを繰り返した果てに最終的には税金で処理をするという、出来レースをちょっと粉飾してみただけのことだった。あげく、すべてがうまくゆくはずの「民営化」で黒字転換できたのは東・西・東海の3社にとどまり、北海道・九州・四国のいわゆる三島JRは赤字のまま。いや、黒字会社も採算の悪い路線はすべて廃止か第三セクターにぶん投げただけのことで、けっして胸を張れる内容ではない。

 道路官僚が用意した大枠はこの国鉄清算事業団方式だろう。高速道路運用というビジネスのみを民営化し、建設に関しては「道路建設公団」が担当、これまでの赤字は「高速道路清算事業団」を一時的な受け皿にし、ほとぼりが冷めた頃に税金で処理をする。

 藤井道路公団総裁への辞任要求理由として、石原伸晃は「財務諸表をめぐるトラブル」しかあげていない。なぜ藤井が正式版と主張する財務諸表そのものの怪しさを突かないのか、なぜ債務超過状態にあるとする文藝春秋掲載の資料の当否についてふれないのか。それはおそらく債務超過状態にあるとする財務諸表を正式に認知すると「道路建設公団」構想に支障が出るからに相違ない。

 こういう「民営化」を「構造改革」などと呼ぶ連中の脳みそを、頭をかち割って、見てみたい。

 ほんとうに国の構造を改革するというのなら、第一次産業から第三次産業に至る産業政策、都市と地方の位置づけ、エネルギー事情を考慮に入れた全体的なモータリゼーションのあり方、・・・、こうした国家全体の骨格から据え直すような真摯な検討が必要になろう。その上で国と地方の税体系はどうするか、それぞれの分担についての合理的な仕組みを作ってはじめて「構造改革」だろう。ところがそんな議論は小泉政権のどこを探しても出てこない。なにが「構造改革」なものか、バカバカしい。(10/11/2003)

 あまり注目を集めなかったようだが、バリ島で開催されたASEAN(東南アジア諸国連合)+日・中・韓の会合において、ASEAN側から我が国に対して東南アジア友好協力条約(TAC)加盟の要望があった由。シンガポール首相ゴー・チョクトンは「中国は大きなゾウ、ASEANはシカ。優しいゾウでも暴れたら心配」と述べ中国を牽制する意味で日本へ誘いをかけたらしい。しかし、小泉首相は「日本はTACへの加盟、不加盟にかかわらず、協力する」と応じて加盟を拒否した。日米安保との兼ね合いが理由とのことだが、ASEAN各国は失望したに違いない。

 もはやアジアにおける中国の存在は動かないものになっている。アジア各国が期待するナンバーツー候補もいつまでもバナナ気分を変えようとしない日本を見限って、そろそろインドにシフトしつつある兆候が見えているという。こういうところでも、この国はそれと意識せずに「第二の敗戦」を迎えている。小泉の視野の狭さは自民党伝統のものとはいえ度し難い。

 そして、きょう、衆議院は解散し、28日公示、来月9日投票と決まった。自民党というコップの中の権力闘争にしか知恵が回らぬ男を首相にしておいてはいけない。(10/10/2003)

 夕刊から。

 17日に訪日するブッシュ米大統領と小泉純一郎首相の首脳会談に関連して米政府高官は8日、「ガイアツの時代は終わりにすべきだ。日本はATM(現金自動出入機)ではない」と語り、イラク復興に絡む財政的な負担は日本が自主的に判断すべきだとの考えを示した。アーミテージ国務副長官が日本側に「寛大な貢献」を期待し、「数十億ドル」という金額も挙げていたことが明らかになったことから、米国の「圧力」が日本で政治問題化することを避ける狙いがあるとみられる。

 「米政府高官」としてあるところをみると、準オフレコ発言なのだろうが、なんともすごい表現をするものだ。ことさらに「ATMではない」と発言するということは、まさに我が国をATMのようなものと考えているからこその発言なのだろう。長年の自民党政権、わけても近年の小泉政権がアメリカをここまで増長させたのだ。

 民主党よ、来るべき総選挙のためにマスコットシールを作ろう。シールの図柄は、西郷隆盛像がよい。西郷がエイプ・ブッシュ(サル面のジョージ・ブッシュ)、愛犬ツンがコイズミ、コイズミの顔は純一郎君お気に入りのライオン・ヘアの似顔にしたらよかろう。ブッシュの愛犬ジュンイチローは頭陀袋のようなものを引きずっている、その袋には「自民党」とでも書いておこうか。

 シールの標語は「アメリカの忠犬に改革なんかできるの?」、もう一行「こんな首相と自民党に投票するの?」。このシールを、ブッシュが物乞いのために来日する日にあわせて、全国津々浦々に貼ろうではないか。(10/9/2003)

 一昨日発表のあった国内8頭目のBSE牛は、これまでのものと比較して大きな違いがあるらしい。@生後30カ月未満での発症例はないとされてきたのに対し生後23カ月目であったこと。A従来確認されている異常プリオンと構造が異なるらしいこと。Bこれまでの7頭はすべて肉骨粉の使用・販売が禁止される以前に生まれていたのに対し禁止後に生まれていること。

 ヨーロッパでは生後24カ月ないしは30カ月未満の牛については無検査の由。今回の発生例は年齢が若いことを考えると、知られているBSEの原初段階である可能性があるかもしれない。いずれにしても日本の検査体制が掛け値のない全頭検査体制であるが故の発見で、リスクの発生当初はともかくいったん滑り出せば、この国はきちんとしたことがやれるということを誇りに思ってもいいだろう。

 カリフォルニア州知事選でアーノルド・シュワルツェネッガー当選。自動車税の撤廃など減税を実行しながら、行政サービスのレベルを確保し、かつ巨額の財政赤字を解消するという手品のようなことが公約通り行えるものかどうか。失職したデービス知事のように1年足らずでリコールされることのないよう頑張るしかないわけだが、トリック撮影なしの世界で、夢見がちなカリフォルニアの選挙民の期待通りのヒーローになれるか否か、ここはひとつ、興味津々、高みの見物をさせていただこう。(10/8/2003)

 クラシックの演奏会場でまま見かける光景、それは演奏が終るや否や競うようにしてする拍手。フライングの拍手に最終楽節の演奏がかぶり、失笑する場面に出くわすこともある。

 藤井治芳はいまや田中均と並んで横綱格の悪役になった。批判をする者にとって、危険を冒す必要のない、じつに「安全な悪役」。だから読売とサンケイは安心して「国民の敵ナンバーワン」をこき下ろし、小泉内閣をヨイショする好機とばかり、いそいそと昨日の朝刊にまるで予定稿のような社説を掲げた。内容は「悪役、藤井治芳が辞めれば、すべてはうまくゆく」かのような安直極まる論調。反批判など夢にも考えない弛緩した精神が文章を物すれば、どれほどひどいものが書けるかという見本のような社説。

 しかし、第一幕だけで終演の拍手をしてしまったのはいかにも間の抜けた話だった。昨日の第二幕までじっくりと観ると、もう少し起きていることがらの奥行きをとらえることができたからだ。

 両紙を除く各紙、朝日・毎日・日経の全国紙、そして東京(中日と共通)、河北新報、信濃毎日、高知、琉球新報などの主要地方紙は、第二幕までの顛末を見届けた上で、けさの朝刊に、藤井の姿勢、石原の技量、小泉の他人事ぶり、などなど・・・ほどほどのパースペクティブの中で問題点を指摘した社説をそれぞれに掲載した。

 読売やサンケイは、平生、「鋭い視点」、「わかりやすい解説」、「現実直視」など自画自賛に余念のない新聞だが、どの程度透徹した眼で小泉内閣という稀代の「改革振り振り内閣」の演技を視ているものかは疑わしいものだ。それはちょうど拍手の先陣を争う通ぶったクラシックファンがどれほど演奏の中味を聴きかつ味わっているものか疑わしいのによく似ている。(10/7/2003)

(以下に昨日と今日の主要紙の社説タイトルを記録しておく)

10/6の社説タイトル 10/7の社説タイトル
朝日 民主党−賽は投げられた
テロ特措法−他にやれることがある
総裁解任−政治ショーでごまかすな
事故の頻発−危うい足元を見直せ
毎日 取り潰しも視野に入れて
政権の選択肢が可能になった
イスラエル 乱暴すぎるシリア領空爆
藤井総裁解任 辞表拒否の背景を見抜け
読売 道路公団人事 総裁更迭を改革推進につなげよ
民主党大会 基本政策に不安が残る船出
SARS 冬場の再流行に万全の備えを
予算改革 硬直性の打破目指す新しい試み
日経 民主党は政権公約武器に自民党に迫れ
再活性化が課題の笹森連合
藤井総裁解任を機に改革の具体化急げ
和平への道崩すシリア空爆
東京 週のはじめに考える 希望持てる国へ一票 道路公団改革 総裁解任は第一歩だ
シリア空爆 中東紛争の拡大許すな
サンケイ 藤井総裁更迭 天下りの"権化"への痛棒
民・由合併大会 「消費税」明記は評価する
日墨FTA 農産物の障害越え早期に
医師名義貸し 大学医局を廃止すべきだ

 予想通りの提灯社説を書いたのは読売とサンケイの二紙だけだった。しかし、せっかくの提灯はムダになってしまった。午前中に辞表を出すと報ぜられた藤井総裁、これに従わなかったばかりか、「石原大臣が『納得できない』と一方的に否定的な見解を述べられたことは総裁としてとうてい了承できない」というコメントを発表し徹底抗戦に出たからだ。

 さらには「公団として作成した財務諸表は扇前大臣の全般にわたるご指導を受けたもの」ということまで言い出した。いかにも食えない男が言いそうなことだが、財務諸表をめぐるゴタゴタを更迭の唯一の根拠とする以上、それがホットな問題である時機を逃せばかえって手強い反撃に根拠を与える。「前の大臣はご了承され、当時、総理もそれをおとがめになりませんでした。あれから特段のことがあったわけでもございませんし、総理ご自身も替わられたわけでもありません。それでも辞めろと仰るなら、替わられた大臣たるあなた様が辞めるべきわけをご説明されるのが、道理というものでございましょう」と開き直られれば、よほどの巧者でも説き伏せることは難しかろう。まして経験も知恵も乏しい石原伸晃ごとき若造が手玉にとられるくらいは十分に考えられること。すべては切るべき馘を切るべき時に切らず、「おいしい」時までとっておいた小泉の小賢しさ(卑しさという方が適切か)が招いた混乱に過ぎぬ。

 すっかり子供の使いになってしまった石原国交相、必死で怒りを押し殺してテレビカメラの前に立ち「解任します」、記者が「法廷闘争になったら」と問うや即座に「受けて立ちます」と応じた。その言葉の短さが立腹はしても有効な反撃の知恵がはたらかぬ悲しさを窺わせる。一方、小泉首相は他人事のような顔つきで「意外だね、辞表を出すと思ったんだけど」といった。

 二人のそのわずかなインタビュー映像の中に、小泉内閣にできる「改革」の限界が露呈していた。(10/6/2003)

 石原伸晃国交相が藤井治芳道路公団総裁の更迭を決めた由。けさのニュースで「異例の日曜日に事情聴取のため総裁を呼んだ」と聞いた時、「なんとまあ、あざといことを」と思った。関心を惹くための小細工ならば、小泉はなんでもやってみせるらしい、勃興期のナチスに似ている。

 藤井の進退などは三ヶ月も前に決まっていたに相違ない。扇が切ってもよい馘をわざわざ新内閣の新大臣に切らせるためにとっておいたのだ。明日の新聞は石原なり小泉内閣への提灯記事で埋め尽くされるだろう。どの程度の国民がこの「改革演技」という毛針にひっかかるだろうか。

 問題は、決定済みの後任総裁が公式に据えられたあと、石原がどれだけ道路官僚が敷いた単なる事業会社民営化路線から踏み出すことができるかなのだが、彼にはおそらく据えられたフレームワーク以上のことはなにひとつできないだろう。それが石原や小泉の限界なのだ。(10/5/2003)

 アメリカがイラクにおける兵員と資金の国際支援を求めるために安保理に提出した決議案に対し、アナン事務総長が「アメリカが今まで通りの復興を続けたいなら、国連は政治的な役割を果たせない」と論評した。勝手に「戦争」をはじめ、十分な計画も準備もなくはじめた占領統治が行き詰まるやヒト・モノ・カネすべてを他国からせびりとろうとし、そのくせ占領のうまみは手放したくないというゴロツキ特有のエゴイズムをたしなめるのは当然のこと。今月末に開催予定のイラク復興支援会議までの間に、アメリカがどれくらい自国のおかれている環境を自覚できるかを興味津々見物させてもらおう。

 もっともブッシュ政権には早くもレイムダック兆候が現れている。今週はじめに伝えられたCIA秘密工作員情報漏洩事件などは、ならず者集団ブッシュ政権ではありがちな些事と見落とされがちだが、その典型例だと思う。なにしろ、気に入らない事実を公表した大使に対する意趣返しとして、連邦情報保護法に触れる(有罪の場合は10年までの禁固の由)リークを政権幹部が行ったというのだから、かりに真相が白日の下に晒されるようなことになれば、民主・共和、リベラル・保守を問わずブッシュ政権を支持するものは誰もいなくなる可能性がある。(10/4/2003)

 イラクの大量破壊兵器を捜索しているCIAのデビッド・ケイ顧問が下院の情報特別委員会に提出した中間報告書の要旨が夕刊に載っている。「総括」はこんな風に始まる。「この報告はイラクのWMD計画に関する最終的な評価ではない。同国のWMD計画は、イラク戦争の終結後も続いた保秘・偽装計画によって入念に隠されてきた。兵器群はまだ見つかっていない。だが、そうした兵器が絶対に存在せず戦争前もなかったと結論を出す段階にはない」。そして大量破壊兵器の調査を妨げる6つの理由が列挙されている。曰く「秘密体制のもとにあった」、曰く「資料が意図的に分散され、破壊された」、曰く「戦後に資料の略奪があった」、曰く「一部の人間が戦前、戦中に資料と関連物資を国外に持ちだした」、曰く「イラクの常備兵器量に比べて量が少ない可能性が高いので見つけにくい」、曰く「イラクの状況が安定しない」。こうしたマイナス要因があるにもかかわらず、「国連による査察からイラクが隠した大量破壊兵器関係の数十もの活動と装置を発見した」とまあ、おおよそこんな感じた。

 部下がこんな報告をしてきたら、ありとあらゆる組織の管理者はこう叱責することだろう、「キミ、ボクが君に命じたのは、できない理由を探すことではなくて、やってくれることだよ、なんのために1200人ものヒトを半年間もキミに預けているんだ」と。すると部下はこういう風に答えるのかもしれない。「わかりました、じゃあ、もともとないものを探し当てることはできません、と、ありのままに報告するしかありませんが、それでもいいんですか」と。「中間報告」というのは、そういう意味なのかもしれない。

 母さん、ぼくのあの大量破壊兵器、どうしたでしょうね、ええ、バスラからバグダッドへゆくどこにでもあるはずだった、あの大量破壊兵器ですよ、・・・。(10/3/2003)

 各紙朝刊には「田中真紀子、出馬へ」が報ぜられている。一昨日の不起訴処分決定を受けて、出馬の意向を固めたということらしい。ところが同じ朝刊の週刊新潮の広告には「『不出馬説』まで流れる『田中真紀子』の不気味な沈黙」という見出しが載っている。

 先週、週刊新潮が「原辞任、来期は江川」と見出しした翌日、「来期は堀内」が発表された。間が悪いとはいえ、ずいぶんブサイクな記事で大嗤い。二週連続でアルツハイマー症のような見出しをうっているところをみると、新潮が相次ぐ名誉毀損裁判敗訴で訴訟費用・賠償金支払い準備のために首が回らず、取材費用は全額カット、もっぱら編集室で記事をでっち上げているという噂は、ほんとうに、ほんとうなのかもしれぬ。

 田中の沈黙は不気味でもなんでもない。バカマスコミが騒いでくれるのを彼女は待っているのだろう。その後の選挙民の反応をじっと観察してから去就を定めるわけだ。つまり田中の「沈黙」は、息を潜めて出馬のための風向きを見ているという、ただそれだけのことに過ぎない。これぐらいのことはarmchair detectiveにでも想像のつくことだ。あとはこれに真紀子批判の味付けをすれば、新潮レベルの与太記事など一丁上がりではないか。(10/2/2003)

 都民の日。都内の公立校はお休み。昔は、清水昆デザインのカッパのバッジを付けていると、都電・都バスが乗り放題だった。「ナントカ放題」とか「タダ」というのは子供にとっては一種のパラダイスのようなものだから、参考書を買いたいなどという理屈をつけ新宿までの京王線の往復運賃をせしめて、家を飛び出したのは小学校の5年のことだったか、それとも6年のことだったか。角筈(懐かしい地名:いまはもう消えてしまった)から乗ったことはたしかなのだが、いったいいくつの線区を踏破したのか憶えていない。信濃町から日赤産院だとか、須田町から半蔵門とか、切れ切れの情景は浮かぶのだが、どうもその日一日のことではなく、前後の記憶も入り交じっている。ものすごく腹が減って、ヘトヘトになってうちに帰り着いたということだけがたしかな記憶。(10/1/2003)

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