セリーグ、開幕。ジャイアンツ−タイガース戦はなんと17−3。なんとまあ、面白くもおかしくもないペナントレースになりそうだ。間違いなく日本のプロ野球はメジャーリーグの後塵を拝するドサまわりに堕するに違いない。(3/30/2001)

 薬害エイズ裁判、安部英に無罪判決。裁判長は永井敏雄。夕刊には判決文の要旨が載っている、週末にでも読んでみよう。

 ニュースなどを総合すると、結局安部一人を有罪とするのは、他の血友病担当医との関係から、法の下の平等に反するということに帰着するようだ。検察側の立証がどのようなものであったのか分らないが、安部を他の医師と同一レベルにおくことは明らかに間違っている。再三テレビなどで流された委員会における安部の強圧的な発言(「いいか風間君、君がそういう主張をするなら、君は終生浮かばれないぞ」というような趣旨の発言)に窺えるのは、学界のボスとして君臨していたことであるし、他の医師の多くは、安部のように私設的な金銭引き受け組織などを設け、ミドリ十字からワイロのようなカネを引き出したりもしていない。

 一般論としては裁判官の判断は尊重しなければならない。しかし、この判決にはスタンドプレイのような匂いがしてならない。(3/28/2001)

 パリーグ、開幕。ライオンズ−マリンズ戦をテレビ観戦。松阪は初回、三振二つをとる上々の滑り出し。その裏に高木のタイムリーやバッテリーエラーなどがあって3点を先制。ところが2回表、先頭の初芝にツースリーから投げたストライクをボールと判定されてからおかしくなってしまった。結局、3−6で逆転負け。

 黒木の方もかなりパラパラの判定に苦しんだ点では同じだったが、何とか立ち直って勝ち投手。松坂との違いはキャリアだったのかも知れない。それにしてもあれほどいい加減な判定では試合の興趣をそぐことおびただしい。審判に面白くしてもらう試合などファンは期待していない。(3/24/2001)

 サンケイ新聞は先日来しきりに社説欄などで歴史教科書に対する韓国・中国、両政府の圧力について批判をしている。系列下の出版社が出す歴史教科書がボツになっては困るという経営的な焦りがあってのことだろうが、その入れ込み方は異常なほどで可笑しい。

 しかし、ものごとにはそれなりの背景と奥行があるもので、中国首脳のものいいにもやはりそれなりの背景はあるものらしい。東京新聞のホームページを見ていたら、中国総局の清水美和という記者名入りでこんな記事が載っていた。

中国の朱鎔基首相は十五日閉幕した全国人民代表大会(国会に相当)の記者会見で「新しい歴史教科書をつくる会」主導の教科書に関し、検定による修正が不十分とし、問題の解決を日本政府に要求した。中国政府が危機感を強めているのはインターネットや商業報道の普及で、日本に対する中国国民の反発がすぐに表面に出て、外交を揺さぶりかねないためだ。政府間の話し合いさえ決着すれば事態が収まった過去の教科書問題の時代とは社会が大きく様変わりしている。

 記事は続けて、西安や南京で起きた日本がらみのトラブルの例や、三菱自動車や松下電器の欠陥製品問題、北京発成田行きの便が成田の雪で関西空港におり中国人旅客に不便があった際の中国国内の報道のされ方などをあげて、感情的に取り上げてことを煽っているような中国のマスコミのさまを伝えている。記事の結びは、

両国関係は貿易は好調だが、日本の対中投資は経済の低迷や対中感情の冷却化もあって最近、下降気味。新世紀を迎え「発展」を至上命題とする中国には日本との経済協力が不可欠で、中国政府は繰り返し両国関係の大切さを強調している。
しかし、中国でも「民意」は無視できない。昨年十月、訪日した朱首相は出発前の記者会見で「歴史問題で日本人民を刺激すべきでない」と語ったことで「軟弱と批判する数百本のメールを受け」(朱首相)、日本のテレビ番組で「私は軟弱でしょうか」と嘆いた。
首脳をも嘆かせた荒々しいうねりが教科書問題で起きないとは限らない。北京の外交関係者は「政府に対日関係を波立てる気がない以上、深刻な事態にはならない」と楽観的だが、中国社会の変化を軽視すると思わぬしっぺ返しを食らう可能性は否定できない。

となっている。どうやら自国のトップや外交機関の「弱腰」をあげつらっておだをあげている、こまった扇動者たちはどこにでもいるもののようだ。(3/17/2001)

 昨日は夕方のプラネタリウム中継で思い出話になったが、最初は日経の読書欄「半歩遅れの読書術」について書くつもりだった。

 書いていたのは、前の一橋の教授、中谷巌。タイトルは「知的な生活 物理学の巨星に本質学ぶ」。彼が薦めている本はハイゼンベルクの「部分と全体」。「・・・(この本は)現代日本の大衆化された『中間社会』に住む人間にとってはまさに清涼剤そのものである。この本の中では、本物の『知的エリートの生活』というものがそもそもどういうものかということが無意識のうちに見事に描かれているからである。大衆化されすぎた現代日本社会からつかの間でも逃れたくなった時には、ぜひ本書をひもとかれることを薦めたい。・・・」とある。

 この一節の前には、「日本では一流大学を出たエリートが通勤電車の中で漫画を読んでいたり、時によってはあられもないピンナップの載った週刊誌を広げている大衆化された社会である。日本にもエリートらしい『知的な生活』を実践している人ももちろんいるが、残念ながらお目にかかることは少ない。『知的生活』とか『エリート教育』というものがどんなものなのか、日本人の多くは知らないのではないだろうか。」とある。

 お説の通りなのだが、中谷先生のこの文章自体、臭味が先立って、どこか知的品格に欠ける。市場原理至上主義は、やはり、気品とは並び立たないものだという当方の古典的な思いこみのせいかもしれない。(3/12/2001)

 7時少し前、思い出してインターネットで、五島プラネタリウムの最終回投影を見た。もう、明け方の空が白んでくるところだった。解説員の声はどこかなじみの声、「明日の日の出は午前5時57分、真東より少し南寄りから昇ってきます。・・・これでこの回の投影を終ります」、それが44年間続いた五島プラネタリウム最後の投影の締めくくりの言葉だった。

 野尻抱影の「宇宙のなぞ」を読んで以来、天文学者になるというのが口癖だった。下高井戸に住んでいた頃、五島プラネタリウムが子供向けに開いていた「星の会」に入った。毎月、第一か第二日曜の朝が例会で、「星の会」の投影を見、その後一般の投影を見るのが楽しみだった。富士山のシルエットの説明から始まって、東京をぐるりと見回すうちに陽は沈み、次第に漆黒の闇にかわり星々が輝きはじめる。説明の導入部はだいたい決まっているのだが、それがまた好きだった。

 ちょっとばかり知識自慢だったから、解説の合間に声を上げたことが一、二度あった。「一角獣座という・・・」、「知ってる」、小うるさい子供をたしなめようとしたのか、「どこだか分るの」、「オリオン座のリゲルと大犬座のシリウスと子犬座のプロキオンで作る三角形のとこ」、「そう、よく知ってるね、じゃ、話をよく聞いてね」。そういうこともあった。

 中学にはいると、**(弟)を連れてゆくようにいわれた。うちからは明大前経由の電車賃を大人分と子供分一往復ずつ計60円もらって、乗るのは玉電だった。玉電は往復割引きで25円。**(弟)の分は払わない。その差額でプラネタリウムの入り口前にある自動販売機でキャラメルを買うのだ。自動販売機は体重計を兼ねていて、キャラメルの箱が出てくるまでの間に体重が読みとれる仕掛けだった。

 **(弟)は、玉電の一番前、運転手の横に立って前方を見るのが決まりだった。運転手が**(弟)に話しかけた。「坊や、小学生?」、「うん」、あわてた。「来年、な、来年、小学生。いまは、幼稚園」、「そうかい」、運転手は笑って答え、切符を渡しておりるときも何もいわなかった。1961年、昭和でいうと36年ごろのことだったと思う。

 東急文化会館にはまた違った想い出もあるのだが、それは書かない。少しずつ、少しずつ、自分の記憶の中にしかないというものが増えてゆく。(3/11/2001)

 国会では森総理に対する不信任案が否決。これほどの無能ぶり、これほどの低支持率、それらすべてのものを自民党も、公明党も、保守党も十分知りながら、それでもまだ政権は倒れないというこの事実。幹が腐り果てても、巻き付いた蔓草が絡み合っているがために倒れない、そんな光景か。(3/5/2001)

 ラグビーの日本選手権、神戸製鋼対サントリー。開始早々12−0と神鋼がリードし、「やっぱり、神鋼か」と思ったところからサントリーが逆転。風上の神鋼、逆に12−19とリードを許して前半終了。後半開始から神鋼が再逆転。それを再度サントリーが追いついて、27−27。トライ数も4つずつで、大会史上初の引分け、両者優勝。(2/25/2001)

 夕刊から。スタンダード・アンド・プアーズが日本国債の評価をトリプルAからダブルAプラスに格下げG7の中ではイタリアと日本だけがトリプルA落ち。経済も政治もすべて格落ち。(2/23/2001)

 夜のBS2テレビ。「世紀を刻んだ歌」の再放送シリーズ、今夜は「花はどこへ行った」だった。ベトナム反戦歌のようになったこの歌、作詞・作曲はピート・シガー。この歌が、生まれ、育ち、すべてに感動的なエピソードに溢れていることをはじめて知った。

 まず、ピート・シガーがこの歌詞の着想を得たのがショーロホフの「静かなるドン」だったことが驚きの始まり。「静かなるドン」の主人公の故郷の老婆が歌った歌に、飛行機を待つピートがわずか20分くらいでメロディーをつけた。そしてピートが作った3番までの歌詞のものを愛唱していたファンが4番と5番の歌詞を付け足して輪廻のように1番に戻るようにしたこともはじめて知った驚き。そしてこの歌をマレーネ・ディートリヒが自らの一生に重ね合わせるように取り上げたことも、サラエボ・オリンピックの金メダリストだったカテリーナ・ビットがピークを過ぎて参加したリレハンメル・オリンピックで想い出のサラエボの現状への気持ちの表現としてこの曲をフリー演技の曲としたことも、はじめて知った。

 いい仕事が別のいい仕事を呼び、その仕事がさらに別の意志表現を喚起してゆく。ここに関わった人々のなんと素晴らしいことか。

   When will they ever learn ?
   When will we ever learn ?

 「いつになったら彼らは分るの、いつになったら私たちは気がつくの」、流転する花・乙女・兵士の行く末を語りながら、その合間にはさまれた単純なリフレインは、この世界で愚行を繰り返す我々に、優しく悲しげに語りかけている。

 この愚かさを象徴するような言説を今朝の新聞から拾ってみよう。

中国傾斜、日本軽視の姿勢が目立ったクリントン前政権とは異なり、ブッシュ新政権は日本をはじめ同盟国をより重視する路線へ転換しようとしている。英国とともにイラクへの空爆に踏み切ったのも、「同盟国を守り、米国の国益を守る」姿勢を強調したものである。ブッシュ大統領は国際政治の冷徹なパワーポリティクスを踏まえて、空爆を決断したのである。

 サンケイ新聞の社説の一部。ハワイ沖の原潜事故から目を逸らすために行われた恣意的な空爆を「国益」だの、「同盟国重視」だの、「冷徹なパワーポリティックス」だのと飾り立てる人間の頭の悪さ、眼のくもり、心の狭さ、精神の貧しさは救いがたい。この社説子のような狭量な精神こそが人々を戦争に近づけ、豊かであるべき一人一人の人生を台無しにしてしまうのだ。

   When will they ever learn ?
   When will we ever learn ?

 いつになったら、彼らは分かるの? いつになったら、わたしたちは気がつくの?(2/20/2001)

 テレビ朝日の「スクープ21」は以前土曜日の夜「ザ・スクープ」というタイトルで放送され、桶川のストーカー殺人事件における上尾警察の怠慢をきちんとした取材で告発した実績を持つ、定評のある番組だ。今晩の「スクープ21」は仙台の筋弛緩剤事件を取り上げていた。タイトルは「仙台・筋弛緩剤混入事件の知られざる真実」

 内容は「北陵クリニック」の診療体制を取材することを通じて、守容疑者の供述、無実主張の周辺を洗い出したもの。事件後、伝えられた「急変の守」現象、守容疑者が勤務しはじめてから容態の急変する患者が続出し救急車の出動要請回数が昨年は前年を大きく上回ったとされる事実のもうひとつの見方が興味深かった。それは昨年4月に救急処置のできる勤務医がクリニックを辞めていたということ。残りの3人の医師は高齢の二人と副院長であった小児科の女医で、彼らは呼吸困難時の気道解放処置ができず、緊急事態の対応力が極端に低下していたというのだ。

 筋弛緩剤の検出などの事実に対する説明はなされていないものの、一方的な警察発表データに寄りかかった形の現在の報道は少し割り引いてみることが必要かも知れない。(2/18/2001)

 一週間前の実習船「えひめ丸」と原潜「グリーンビル」の衝突事故は日米双方のお粗末な舞台裏を暴く形となった。

 まず、かの国の海軍のお粗末。まず、事故は緊急浮上と呼ばれる非常に差し迫った状況下において選択される浮上手順にしたがって実施された浮上に際して発生した。しかし、緊急浮上は火災や船体の損傷などがあったためではなく、海軍PRのために乗艦させていた民間人に対するデモンストレーションの一環として行われたことが明らかになった。さらに、緊急浮上の際に安全確認をするソナー席と、艦をコントロールする操舵席、それぞれに民間人がついており、乗員の補助を受けながら作業に従事していた。つまり、原潜の緊急浮上は、素人を介在させたお遊びの一プログラムとして行われていたということだ。現在も行方の分らぬ9名は一部の軍事マニアの「戦争ごっこ」遊びの余波をくらってしまった。

 そして、この国の宰相のお粗末。事故の第一報を森首相はあるゴルフ場でプレイ中に受けた。内容は「宇和島水産高校の実習船に米海軍の原潜が衝突し、乗員・実習生35名中26名が救助、うち12名が負傷」というものだった。森はその連絡後もプレイを続行し、官邸へ戻ったのは事故発生から5時間後だった。当然出た非難に対して、森は「これは危機管理なんかじゃなくて単なる事故」と応じた。ところがそのゴルフ場の会員権はいっしょにプレイしていた会社社長が購入したものを首相名義に無償で書き換えたものだったことが露見して、話はとんでもないところに転がりはじめた。

 なるほど、一実習船が外国船とぶつかったなら、それは事故かも知れない。しかし、その外国船が軍艦となれば、単なる事故かそうではないのかが問題になろう。さらに、ここしばらくの間、沖縄では米兵の放火犯の引き渡し問題があり、沖縄司令官が県知事を腰抜けと中傷した問題があり、・・・、つまり日米の間には軍がらみの問題が集中的に起きている。そうしたことをトータルに考えたとき、果たしてこの「事故」が「危機」になるかならぬかは微妙なところではなかったのか。きっと、頭の鈍い森には、そういうことは思いも寄らぬことだったのだろうが。(2/17/2001)

 朝刊に人間の遺伝子情報に関する記事があった。日経から引いてみよう。見出しは「人間の遺伝子 最大で3万9000個 想定の半分以下」とある。

 米セレーラ・ジェノミックス(メリーランド州)は11日、人間の全遺伝情報(ヒトゲノム)の解読内容を初公開した。人間の遺伝子数は当初推定の約十万個より少なく、最大でも三万九千個程度であることがわかった。体内で遺伝子をもとに酵素などタンパク質が合成されるプロセスが予想以上に複雑であることを示唆している。ゲノムを利用してがんや糖尿病などの病気の診断・治療技術の開発が今後一段と加速する見通しだ。日米欧政府が進める国際ヒトゲノム計画のチームも同日、セレーラと同様の分析結果を明らかにした。
 セレーラ社によると、ヒトゲノムを構成する約三十億の塩基の95%を99.96%の精度で解読し、遺伝子の総数が26,383−39,114個であることが分った。国際チームは91%を99.99%の精度で解読、遺伝子総数を31,778個(暫定値)とした。3万個前後だとすれば、体の仕組みが簡単なショジョウバエ(約13,000個)の二倍強に過ぎない。
 体内ではこの数の遺伝子で、十万種以上ある酵素やホルモンなどのたんぱく質を作り分けていると考えられる。作り分けのメカニズムを解明することが、病気の原因などを突きとめるうえで課題になる。・・・(後略)・・・

 先週の日曜日、江崎玲於奈の「夢」を書いた。暗に自分のような頭脳は先天的なものであることを前提として、就学時の遺伝子検査により受けられる教育を振り分ける方が効率的であることを主張した発言であった。「自然は限りなく深い」、「遺伝子決定論」は自然に対する畏敬を欠いた、浅はかな知恵ではないかというのがこちらの直感なのだが、果たして江崎の優生学的論理は正しいのだろうか。この記事に見る限り、遺伝子が能力のすべてを決定するなどと考えるわけにはいかないような気がするが。(2/12/2001)

 二晩連続でNHKが「エネルギーシフト」という番組を放送した。昨夜は自然エネルギーによる発電を主にヨーロッパにおける風力発電にクローズアップし、今夜は燃料電池自動車技術を取り上げて化石燃料から水素への移行をわかりやすく伝えていた。

 昨年オランダで開催されたCOP6において、日本は「先進国が途上国に建設する原発もCO2の削減量としてカウントすること」を主張したのだったが、それがどれほど愚かしい主張だったか、この番組は明らかにした。通産省(いまは経産省か)と電力会社は木を見て森を見ない視野狭窄症患者だ。いまだに原発にしがみついて、陳腐な「エネルギーバランス」論を吹聴している東電をはじめとする電力会社は、手前勝手で利己的な理由でこの国の未来を奪っている。(2/11/2001)

 ハワイ沖で宇和島水産高校の実習船に米海軍の原子力潜水艦が衝突。実習船は沈没、行方不明者が9名出ているというニュース。原潜が浮上する際の事故ということで、事故責任は100%原潜側にあるとのこと。それにしても浮上する際の基本的な確認作業にぬかりがあったとは信じがたい話。(2/10/2001)

 福岡高裁の判事の妻がメル友であった男性に新しい交際相手ができたことに嫉妬して、この相手に無言電話、脅迫メールなど一連のストーカー行為をしたとして逮捕された事件がマスコミをにぎわせている。焦点は常軌を逸したその行為にではなく、福岡地検の次席検事が捜査中の事実を直接判事に伝えたこと、逮捕状請求資料のコピーを地裁が訴訟手続き上は何の関係もない高裁に送っていたことなどにしぼられている。法曹関係の身内から縄付きを出すことを恐れたということが理由と思われるだけに、これほどの不正がほとんど無自覚的に行われ、関係者の誰もが異常と思わなかったという「不公正」に怒りが集まっているのだ。機会の不平等などはとっくに失われ、もっとおおっぴらな不平等がまかり通りはじめたということのようだ。(2/6/2001)

 斎藤貴男の「機会不均等を読み終えた。彼のものは「精神の瓦礫−ニッポンバブルの爪痕−」を前に読んでいる。地道なインタヴューの積み上げにより、最近のこの国の社会の様相を的確に捉えるその仕事ぶりに好感が持てる人だ。

 この本は実に衝撃的な発言の紹介から始まっている。

 人間の遺伝情報が解析され、持って生まれた能力がわかる時代になってきました。これからの教育では、そのことを認めるかどうかが大切になってくる。僕はアクセプト(許容)せざるを得ないと思う。自分でどうにもならないものは、そこに神の存在を考えるしかない。その上で、人間のできることをやっていく必要があるんです。
 ある種の能力の備わっていない者が、いくらやってもねえ。いずれは就学時に遺伝子検査を行い、それぞれの子供の遺伝情報に見合った教育をしていく形になっていきますよ。

 教育国民会議座長、江崎玲於奈の言葉である。一見なるほどと思う内容かも知れない。だが、遺伝子がすべてを決めてしまうということは本当に正しいのだろうか。今日現在の遺伝子研究の最前線ではそのようにしか考えられないということなのかも知れない。

 江崎はトンネル効果の発見者としてノーベル賞物理学賞を受けた人である。彼は20世紀の物理学の仕事をどのように見ているのだろう。半導体の研究は量子論とは密接な関係にある。20世紀の量子論研究が我々に教えたことは自然は限りなく深いという事実だった。研究者たちは、これこそ究極の物質構成要素と考えたものがそうではないということを、幾たびも幾たびも思い知らされたのだった。まさに「神の存在を考えるしかない」、それが現実だった。

 遺伝子が人の能力のすべてを決めてしまうなどということを信じない。信じたくないのではなくて信じられないのだ。それほど自然は浅くはない。これはおそらくすべての科学者の共通認識だ。江崎も研究者としての感覚からはおそらく「遺伝子決定論」など信じていないのではないか。それでもなお遺伝子検査による教育機会の振り分けを主張するのはいったいどのような動機に基づくものなのだろうか。この本はその疑問にも答えてくれている。(2/4/2001)

 朝刊に、なるほどねという言葉があったので、書き写しておく。

 二院クラブの佐藤道夫代表は、加藤紘一元自民党幹事長が昨年起こした「反乱」について論評し、返す刀で外交官の体質を厳しく批判した。「加藤さんは外務官僚で、外務官僚というのは修羅場に臨んで決断したことがない。最終決断は本国政府の指示を仰ぐ。あとは何をやっているかと言うと、パーティをやって機密費を使っている。加藤さんも初めてああいう場面に遭遇して、どうしたらいいか分らなかったんじゃないかな。私は最初から、この人はいざとなったらグラグラするんじゃないかなあ、という目で見ていた」

 元検事の見る目はさすがという話。(2/3/2001)

 ダイエーの中内功がグループ内のすべての場面から退任。高度成長と呼ばれた時代が完全に過去のものになった象徴のようなニュース。華々しい成果を上げながら、その業績を裏切らずに舞台を降りるということは易しいことではない。(1/30/2001)

 昨夜、帰り山手線がかなり混んでいた。どうやらあれは事故の余波だったらしい。7時少し過ぎに新大久保の駅で酔ってホームから転落した人を救おうと二人が線路に降りたのだが、間に合わず三人ともはねられて亡くなる事故があったとのこと。助けようと相次いで線路に降りた二人は互いに相知らぬ者どうし、一人は26歳の韓国からの留学生、もう一人は47歳のカメラマン。

 目の前でそんなことがあったとして、助けようと線路に降りるだろうか。降りないとばかりは言い切れないけれど、必ず降りるともいえない。酔っぱらって落ちたと知っていたら、たぶん助けようとは思わないだろう。まして、外国の駅頭でのことだとしたら。

 それにしても、助けに降りたのが韓国人だけでなくてよかった、などと変な感想。(1/27/2001)

 有明海でノリをはじめとする海産物への影響が甚大になり、ここ数日、農水相や自民党幹部などが水門を明けることをにおわせる発言をしている。彼らは数年前、どう言っていたか。「想定しがたい洪水被害がどうだ」とか、「ムツゴロウが可哀想などというセンチメンタリズムにとらわれたバカに遠慮することはない」などと、ずいぶん勇ましいことを言い、工事を強行したのではなかったか。

 はて、バカはどちらだったのだろう。自然のメカニズムに対して浅慮・短慮だった愚か者は、農水省の土木族とおまえたち自民党の土建議員だったことがはっきりしたのではないか。

 それにしてもちょっと不都合があれば水門を開けてもいいなどと言い出す浮ついた心根にハラがたつ。水門を開いたところで、いったんバランスを失った有明海がかつての豊かな海に戻るためには、相当の時間を要することだろう。ある時は政治献金がもらえればよい、そして選挙が近づくと票さえ失わなければよい、軽挙妄動、そのくせいかにも偉そうなもの言いをする、定見なき軽輩。

 浅慮はこの時代に特徴的な愚かさの一つだ。それは自然に対する畏敬を忘れたところから始まっている。拙速は自然を相手にする場面では慎む、これが先人の持っていた知恵だ。(1/25/2001)

 鳥取の赤ちゃん持ち去り事件は昨日解決。交際相手に妊娠したとウソをつげた女性の犯行。つい最近のことだったがアメリカでは同じような事情から妊婦宅をおそい殺害の上、胎児を取り出したという事件があった。妊娠、赤ちゃん、そういう部分に視点がきりきりとしぼられて、普通には考えられないことをする。それが人間なのかも知れない。(1/15/2001)

 このところのニュースは、昨年の暮れに世田谷で起きた一家四人惨殺事件、そして明けてから表沙汰になって仙台の北稜クリニック病院での殺人未遂事件

 世田谷の事件は、デザイナー業を営む夫、自宅で公文教室を開く妻、8歳の女の子と6歳の男の子が、かなり残虐な手口で刺殺されたもの。現金が盗まれてはいるものの預金通帳などは手つかず、妻がやっていた公文教室の関係書類が散乱していたり、殺害の順序が男の子、夫、妻、女の子となっているなど、謎が多い。

 仙台の事件は、準看護士が点滴に筋弛緩剤を混ぜて、女の子を殺そうとしたもの。怖いのは待遇に関する不満が動機で、別に誰でもよかったと供述しているということ。そして露見した件がはじめてではなく、ここ一年の間に何回か試み、数人を死亡させているらしい。(1/13/2001)

(帰宅時の電車の中で・・・)
 ひばりヶ丘で急行から各駅に乗り換えた。向かいの席に座っていた男の携帯電話が鳴った。「はい、誰?」と小声で応ずる男。内股の筋肉が切れているのだろう身の幅の倍くらいも股を広げて座っている。一呼吸してから、横柄な調子が一転した。「ハイ、支店長。ハイ、結構です」、声がうわずり大きくなった。「ハイ、大丈夫です。ハイ、やっていますから」。とにかくオイオイといいたくなるくらい声が大きい。「ハイ、どうもありがとうございます。ハイ、では、みょうにち」。

 応じた男の表情が電話を切ってからも幾分興奮した体で、けっして「ケッ、酔っぱらって」という風には見えなかったところからすると、酔っぱらった支店長氏が酔狂に電話したのではなさそうだった。男の表情は少し満足げ。支店長氏がまじめなトーンでかけてきたのだとしたら、男の大声を嗤うことはできまい。その時、耳の中に、研ナオコがかつて歌ったフレーズが鳴った。

・・・見え透く手口、使われるほど・・・(なかじまみゆき「あばよ」)

 見え透いた手口とは思っても、上司からの電話、勤め人なら、おおかたあんなもんだろう。(1/9/2001)

 夜のニュース。全国各地で開かれた成人式の風景

 高知県では橋本知事のスピーチ中に「帰れ、帰れ」のコール。たまりかねた知事が「静かにしろ」と一喝してから「出ていけ」とやると、「おまえこそ出ていけ」と応酬。声の主は二階席の一角。TBSのニュース映像では羽織袴にひげ面。これが唯一、晴れの舞台のつもりらしい。

 それにしてもわずかの時間も携帯を放さずおしゃべりの垂れ流し。我慢がないとか、公衆の迷惑を考えぬ所業とかのコメントに頷きながらも、この時代そのものがそういう自分勝手な時代である以上、若者だけを非難する資格などないのだとも思う。巨額の借金財政、放射性廃棄物の山を築きつつ運転し続ける原発。いずれも続く世代への迷惑など歯牙にもかけぬ手前勝手な風景ではないか。(1/8/2001)

 暮れにテレビやミニコンポを置いてある棚の掃除をして再接続後のテストでLPをかけてみた。これが思いの外いい音がしたのに味をしめて、このところいろいろレコードをかけている。さっきは調子に乗ってシュトラウスの「ツァラトゥストラ」をかけてみた。さすがにこれは音が割れてしまってダメ。あわててアルビノーニのオーボエ協奏曲にかえた。

 「ミネルバのふくろうは夕暮れ時に飛び立つ」というのはヘーゲルの言葉だそうだ。なるほどジンテーゼが生まれて、はじめて相対立したものの襞までもが見えて来るというものかもしれないが、その夕暮れ時に一日の仕事をなし終えた充実感を味わおうと思うならば、それまで巣の中にじっとしているわけにはゆかない。なそうとすることが目的に適っているのかどうかに心を配りながらも、ふくろうに笑われることは覚悟の上で動かねばならない。それが生活者の掟だ。(1/7/2001)

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