第3章 死後の後悔
「皆さんは他界した人がぜひ告げたいことがあって地上へ戻ってきても、有縁の人たちが何の反応も示してくれない時の無念の情を想像して見られたことがあるでしょうか。大勢の人が地上を去ってこちらへ来て意識の焦点が一変し、初めて人生を正しい視野で見つめるようになり、何とかして有縁の人々にうれしい便りを伝えたいと思う、その切々たる気持ちを察したことがおありでしょうか」

ある日の交霊会でシルバーバーチは出席者にこう問いかけて、人間がいかに五感の世界だけに浸り切り、いかに地上生活の意義を捉えそこねているか、そしてそれが原因となって死後の生活にいかに深刻な問題を生じさせているかに焦点を当てた。

「ところが人間が一向に反応を示してくれません。聞く耳を持たず、見る目も持ちません。愚かにも人間の大半はこの粗末な五感が存在の全てでありそれ以外には何も存在しないと思いこんでおります。

私たちは大勢の霊が地上へ戻って来るのを見ております。彼らは何とかして自分が死後も生きていることを知らせたいと思い、後に残した人々に両手を差しのべて近づこうとします。やがてその顔が無念さのこもった驚きの表情に変わります。もはや地上世界に何の影響も行使できないことを知って愕然とします。

どうあがいても、聞いてもらえず見てもらえず感じてもらえないことを知るのです。情愛に溢れた家庭においてもそうなのです。その段階になって私たちは、誠に気の毒なのですが、その方たちにこう告げざるを得なくなります──こうした霊的交流の場へお連れしない限りそうした努力は無駄なのですよと」

以上の話は一般家庭の場合であるが、シルバーバーチはこれを宗教界の場合にも広げて、宗教的指導者もご多分にもれないことを次のように語る。

「私はこれまで何度か地上で教会の中心的指導者として仰がれた人たちに付き添って、かつての信仰の場、大聖堂や教会を訪ねて見たことがあります。彼らはこちらへ来て誤りであることを知った教義がそこで今なお仰々しく説かれ続けているのを見て、そうした誤りと迷信で固められた組織を存続させた責任の一端が自分達にもあることを認識して悲しみにうなだれ、重苦しい思いに沈みます」

──針のむしろに座らされる思いをさせられることでしょう。

「罪滅ぼしなのです。それが摂理なのです。いかなる大人物も自分の犯した過ちは自分で責任を取らねばなりません。各自が自分の人生への代価を自分で支払うのです。収支の勘定は永遠の時の流れの中で完全な衡平(ツリアイ)のもとに処理され、だれ一人としてその法則から逃れることはできません」

──その人たちはどうすれば過ちを正すことになるのでしょうか。

「間違った教えを説いた人々の一人一人に会わなければなりません」

──説教をした相手の一人ひとりに会わねばならないのでしょうか。

「そうです」

──でも、その時までにすでに本人が真理に目覚めていることもあるでしょう。

「そう言う場合は、それだけその宗教家はラクをすることになります」

──正しいことをしていると信じていた場合はどうなりますか。その点も考慮されるのでしょうか。

「もちろん考慮されます。常に動機が大切だからです」

──その場合でも一人ひとりに会わなければならないでしょうか。

「魂がそう信じていたのならその必要はありません。が、現実はそうでない人が多いのです。名誉心と思いあがり、所有欲と金銭欲が真理よりも優先している人が多いのです。いったん一つの組織に帰属してしまうと、いつしかその組織に呑み込まれてしまい、今度はその組織がその人間をがんじがらめに束縛し始めます。そうなってしまうと(心の奥では信じていない)古いお決まりの教説を繰り返すことによって理性をマヒさせようとし始めるものです。

私たちが非難するのは、誤りとは知らずに一生懸命説いている正直な宗教家のことではありません。心の奥では真実よりも組織の延命を第一と心得ている者たち、言いかえれば今もし旧来のものを棄てたらこれから先自分の身の上がどうなるかを心配している者たちです。

間違っているとは知らずに説いている人を咎めているのではありません。自分の説いていること、行っていることが間違っていることを知りながら、なおかつ詭弁を弄して、これ以外に民を導く方法が無いのではないか。説くべき教えが他に無いではないか。と開き直っている人たちです。

しかし例えそうとは知らずに間違った教えを説いていた場合でも、過ちは過ちとして正さなければなりません。その場合は罪滅ぼしとは言えません。魂そのものが良心の咎めなしに行ったことですから、一種の貢献としての喜びさえ感じるものです」

ここでかつてのメソジスト派の牧師が訪ねた。

──私もこれまでに説教した相手のすべてに会って間違った教えを正さなければならないということでしょうか。

「そうです。その時点までにその相手がまだ真実に目覚めていなければ──言いかえればその魂があなたの間違った教えによって真理の光を見出すのを遅らされていれば、それを正してあげないといけません」

──そうなると大変です。私は随分多くの人々に説いてきましたから。

「他の全ての人と同じようにあなたも自分のしたことには全責任を取らなければなりません。でも、あなたの場合はそうご心配なさることはありません」

別のメンバーが口添えしてこう述べた。

──この方は牧師をおやめになられてから多くの人たちのために献身しておられ、その人たちが力になってくれるでしょう。

「その通りです。永遠・不変の公正は決してごまかしが利きません。私がいつも見ているとおりの摂理の働きをあなたにもぜひお見せして、公正の天秤がいかに見事なつりあいを保っているかをご覧に入れたいものです。神の摂理は絶対に誤りを犯さないことを得心なさることでしょう。

人に法を説くものが重大な責任を担っている事はお分かりでしょう。私はたびたび言っております──あなた方は知識を手にされた。しかし同時にその知識に伴う責任も担われた、と。

一般の人よりも高いものを求め、さらにその人たちを導き教えんとする者は、まず自らが拠って立つ足場をしっかりと固めなくてはなりません。

厳しい探求も吟味もせず、あらゆる批判に耐えうるか否かを確かめもせず、自分の説いていることが真実であるとの確信もないまま、そんなことには無頓着に型にはまった教義を説いていれば、その怠慢と無とん着さに対する代償を払わなければなりません」

このことに関蓮して、別の日の交霊会で興味深い死後の事実が明かされた。メンバーの一人が、最後の審判の日を待ちながら何世紀もの間暗い埋葬地で暮らしている霊(自縛霊の一種)を大勢い救ってあげた話を聞かされたが、そんな霊が本当にいるのかと尋ねた。

「それは本当に話です。それが私達にとって大きな悩みのタネの一つなのです。そういう人たちはその審判の日をただ待つばかりで、その信仰に変化が生じるまでは手の施しようがありません。

死んだら大天使ガブリエルのラッパが聞こえるまで待つのだと言う思念体を事実上地上の全生涯を通じて形成してきております。その思念体をみずから破壊しない限り、それが一つの思想的牢獄となって魂を拘留しつづけます。

死んだことを認めようとしない人も同じです。みずからその事実を認めない限り、私たちはどうしようもないのです。

自分がすでに地上の人間でないことを得心させることがいかに難しいことであるか、あなた方には想像もつかないでしょう。あるとき私は地上でクリスタデルフィアン(※)だった人と会って、えんえんと議論を交わしたことがあります。彼は私を見据えてこう言うのです──〝こうして生きている私がなぜ死んでいるとおっしゃるのでしょう〟と。どうしても私の言うことが信じてもらえず、〝復活〟の日まで待つと言い張るのです。そしてそこに留まっていました」

(※奇しくもスピリチュアリズム勃興の年である一八四八年に設立されたキリスト教系の新興宗教。バイブルを唯一の教義として既成神学の三位一体説を否定し、キリストの再臨とエルサレムを中心とするキリストによる祭政一致の地上王国の到来を信じた─訳者)

──何をして過ごすのでしょうか。

「ただ待つだけです。こちらには〝時間〟というものがないことを忘れないでください。もし自分が待っているという事実に気がつけば、その思念体が破れるはずなのですが──自分でこしらえた牢獄なのですから。ですが、こうした事実を地上の人間に伝えるのは大変です。

あなた方がお考えになるような時間が無いのです。なぜなら、私たちの世界は軸を中心に回転する天体ではありませんし、昼と夜を生じさせる太陽もないからです。昼と夜の区別がなければ昨日と今日の数えようがないのでしょう」

──時間的な刻みはなくても時間の経過はあるのでしょう。

「ありません。まわりの出来ごととの関連によって成長と進化を意識していくのでして、時間が刻々と過ぎてゆくというのとは違います。魂が成長し、それにつれて環境が変化していきます。

時間というのは出来事との関連における地上独自の尺度に過ぎません。あなたが無意識であれば時間は存在しません。出来ごととの関連が無くなるからです。夢を見ている間も出来ごととの関連が普通とは変化しています。肉体に繋がれている時よりも出来事が速く経過するのはそのためです」