第14章 シルバーバーチの祈り(付)に関する一問一答
ああ神よ、あなたは大宇宙を創造し給いし無限の知性に御(オワ)します。間断なき日々の出来ごとの全パノラマを統御し規制し給う摂理に御(オワ)します。全存在を支える力に御(オワ)します。物質的形態に生命を賦与し、人間を動物界より引き上げて、いま所有せるところの意識を持つに至らせ給いました。
私たち(霊団の者は)はあなたという存在を絶対的法則──不変して不可変、そして全能なる摂理として説いております。あなたの摂理の枠を超えて何事も起こり得ないからでございます。宇宙の全存在はその摂理の絶対的不易性に静かなる敬意を表しております。
あなたの霊的領域においてより大きな体験を積ませていただいた私たちは、あなたの御力によって支配されている全生命活動の完璧さに対する称賛の念を倍加することになりました。
私たちは今、そのあなたの仔細をきわめた摂理の一端でも知らしめんとしている者でございます。それを理解することによって、あなたの子等があなたがふんだんに用意されている生命の喜びを味わうことが出来るようにと願うゆえに他なりませぬ。
私たちは又、無知と言う名の暗闇から生れる人間の恐怖心を追い払い、生命の大機構における〝死〟の占める位置を理解せしめ、自分の可能性を自覚させることによって、霊的本性の根源である無限の霊としての自我に目覚めさせんものと願っております。
それは同時に彼らとあなたとのつながり、そして彼ら同志のつながりの霊的同質性を理解させることでもございます。
あなたの霊が地球全体をくるんでおります。あなたの神性と言う糸が全存在を結びつけております。地上に生きている者はすべて、誰であろうと、いかなる人間であろうと、どこに居ようと、絶対に朽ちることのない霊的なつながりによってあなたと結ばれております。
故にあなたと子等との間を取り持つべき人物などは必要でないのでございます。生まれながらにして、あなたからの遺産を受け継いでいるが故に、あなたの用意された無限の叡知と愛と知識と真理の宝庫に、誰でも自由に出入りすることが許されるのでございます。
私たちの仕事は人間の内奥に宿された霊を賦活し、その霊性を存分に発揮せしめることによって、あなたが意図された通りの人生を生きられるように導くことでございます。
かくして人間はいま置かれている地上での宿命を完うすることでしょう。かくして人間は霊的存在として義務を果たすことになることでしょう。
かくして人間は戦いに傷ついた世の中を癒し、愛と善意を行きわたらせる仕事に勤しむことでしょう。かくして人間はあなたの真の姿を遮ってきた暗闇に永遠に訣別し、理解力の光の中で生きることになるでしょう。ここにあなたの僕インデアンの祈りを捧げ奉ります。
──〝祈り〟に関する一問一答──(前巻及び本書の中に断片的に出ていたものをここにまとめて紹介する-訳者)
──霊界側は祈りをどう見ておられるのでしょうか。
「祈りとは何かを理解するにはその目的をはっきりさせなければなりません。ただ単に願いごとを口にしたり、決まり文句を繰り返すだけでは何の効果もありません。テープを再生するみたいに陳腐な言葉を大気中に放送しても耳を傾ける人はいませんし、訴える力を持った波動を起こすことも出来ません。
私たちは型にはまった文句には興味はありません。その文句に誠意がこもっておらず、それを口にする人みずから、内容には無頓着であるのが普通です。永いあいだそれをロボットのようにそれを繰り返してきているからです。真の祈りにはそれなりの効用があることは事実です。
しかしいかなる精神的行為も、身を持って果たさねばならない地上的労苦の代用とはなり得ません。
祈りは自分の義務を避けたいと思う臆病者の避難場所ではありません。人間としてなすべき仕事の代用とはなりません。責務を逃れる手段ではありません。いかなる祈りにもその力はありませんし、絶対的な因果的連鎖関係を寸毫(スンゴウ)も変えることはできません。
人のためにという動機、自己の責任と義務を自覚した時に油然として湧き出るもの以外の祈りをすべて無視されるがよろしい。その後に残るのが心霊的(サイキック)ないし霊的行為(スピリチュアル)であるが故に自動的に反応の返ってくる祈りです。
その反応は必ずしも当人の期待した通りのものではありません。その祈りの行為によって生じたバイブレーションが生み出す自然な結果です。
あなた方を悩ます全ての問題と困難に対して正直に、正々堂々と真正面から取り組んだとき──解決のためにありたけの能力を駆使して、しかも力が及ばないと悟った時、その時こそあなたは何らかの力、自分より大きな力を持つ霊に対して問題解決の為の光を求めて祈る完全な権利があると言えましょう。
そしてきっとその導き、その光を手にされるはずです。なぜならあなたの周りにいる者、霊的な目を持って洞察する霊は、あなたの魂の状態を有りの侭に見抜く力があるからです。たとえばあなたが本当に正直であるか否かは一目瞭然です。
さて、その種の祈りとは別に、宇宙の霊的生命とのより完全な調和を求めるための祈りもあります。つまり肉体に宿るが故の宿命的な障壁を克服して本来の自我を見出したいと望む魂の祈りです。これは必ず叶えられます。なぜならその魂の行為そのものがそれに相応しい当然の結果を招来するからです。
このように一口に祈りと言っても、その内容を見分けた上で語る必要があります。
ところで、いわゆる〝主の祈り〟(天にまします我らが父よ、で始まる祈アy文マタイ6・9~13、ルカ11・2~4-訳者)のことですが、あのように型にはまった祈りは人類にとって何の益ももたらさないことを断言します。単なる形式的行為は、その起源においては宿っていたかもしれない潜在的な力まで奪ってしまいます。
儀式の一貫としては便利かもしれません。しかし人間にとって何の益もなりません。そもそも神とは法則なのです。自分で解決できる程度の要求で神の手を煩わすことはありません。それにナザレのイエスがそれを口にした(とされる)」時代から二千年近くも過ぎました。
その間に人類も成長し進化し、人生について多くのことを悟っております。イエスは決してあの文句の通りを述べたわけではありませんが、いずれにしても当時のユダヤ人に分かりやすい言葉で述べたことは事実です。
今のあなた方には父なる神が天にましますものでないことくらいはお判りになるでしょう。完璧な摂理である以上、神は全宇宙、全生命に宿っているものだからです。
その宇宙のどこを探しても完璧な法則が働いていない場所は一つとしてありません。神は地獄のどん底だけにいるものではないように、天国の一番高い処にだけ鎮座ましますものでもありません。
大霊として宇宙全体に普遍的に存在し、宇宙の生命活動の一つとなって顕現しております。〝御国の来さまんことを〟などと祈る必要はありません。地上天国の時代は何時かは来ます。
必ず来るのです。しかしそれがいつ来るかは霊の世界と協力して働いている人たち、一日も早く招来したいと願っている人たちの努力いかんに掛っております。そう言う時代が来ることは間違いないのです。
しかしそれを早めるか遅らせるかは、あなた方人間の努力いかんに掛っていると言うことです。(このあと関連質問が出る―訳者)
──モーゼの十戒をどう思われますか。
「もう時代遅れです。今の時代には別の戒めが必要です。人間の長い歴史のいつの時代に述べられたものであっても、それをもって神の啓示の最後と思ってはいけません。啓示というものは連続的かつ進歩的なものであり、その時代の人間の理解力の程度に応じたものが授けられております。
理解力が及ばないほど高級すぎてもいけませんが、理解力の及ぶ範囲が一歩先んじたものでなければなりません。霊界から授けられた叡知はいつも一歩先んじております。そして人間がその段階まで到達すれば、次の段階の叡知を受け入れる準備ができたことになります。
人類がまだ幼児の段階にあった時代に特殊な民族の為に授けられたものを、何故に当時とは何もかも事情の異なる今の時代に当てはめなければならないのでしょう。もっとも私には〝十戒〟ならぬ一戒しか持ち合わせません。〝お互いがお互いのために尽くし合うべし〟──これだけです」
続いて好天や雨乞いの儀式が話題となった。
──悪天候を急に晴天にするにはどんなことをなさるのでしょうか。
「急きょ人間が集まって祈ったからといって、神がどうされるということはありません。神は神であるが故に、大聖堂や教会においてそういう祈りが行われている事実を知らされる以前から、人間が必要とするものについてはすべてを知り尽くしております。
祈りというものは大勢集まって紋切り型の祈アy文や特別に工夫をこらした文句を口にすることではありません。祈りは自然法則の働きを変えることはできません。
原因と結果の法則に干渉することはできません。ある原因に対して寸分の狂いもない結果が生れるという因果律を変える力は誰にもありません。
祈りは魂の活動としての価値があります。すなわち自己の限界を悟り同時に(逆説的になりますが)内部の無限の可能性を自覚し、それを引き出してより大きな行為へ向けて自分を駆り立てる行為です。魂の必死の活動としての祈りは、魂が地上的束縛から脱してより大きな表現を求める手段であると言えます。
そうすることによって高級界からの働きかけに対する受容力を高め、結局は自分の祈りに対して自分がその受け皿となる──つまりより多くのインスピレーションを受けるに相応しい状態に高めるということになります。
私は祈りを以上のように理解しております。大自然の営みを変えようとして大勢で祈ってみても何の効果もありません」
──キリスト教では悪天候を世の中の邪悪性のしるしとみなしていますが・・・
「私は世の中が邪悪であるとは思いません。罪悪への罰として神が雨を降らせるとは思いません。自然現象は人間の生活とはそんな具合には繋がっておりません。第一、三か月前と一週間まえとで世の中の邪悪性に差があるわけではないでしょう。
それは相も変わらず、エコひいきと復讐心と怒りを抱く人間神の概念の域を出ておりません。神とは生命の大霊です。この大宇宙を支えている力は、人間が集団で祈ったところでどうなるものでもありません。人間にできることはその大宇宙の摂理がどうなっているかを発見し、それに自分を調和させ、できるだけ多くの人間ができるだけ多くの恩恵を受けられるような社会体制を作ることです。
そうなった時こそ生命の大霊が目覚めた人間を通じて顕現されていることになります。私はそういうふうに考えております」(先に出た地上天国とはこのこと―訳者)
──人類にもいつかはそういう時代が来ると思われますか。
「程度問題ですが、来ることは来ます。しかしそれも、そう努力すればの話です。人類は、宇宙の摂理を福利のために活用できるようになるためには、まず自己の霊性に目覚めなくてはなりません。宇宙には常に因果報応の摂理が働いております。どんなに進化しても、これ以上克服すべきものが無くなったと言う段階は決してまいりません。
知識を獲得することによっていかなる恩恵を受けても、それには必ずもう一つ別の要素が付いて回ります──知識に伴う責任の問題です。その責任はその人の人格によって程度が定まり、同時に人格の方も知識によって程度が定まります。
かくして知識が広まるとともに人格も成長し、人生が豊かさと気高さを増し、生きるよろこびと楽しさを味わう人が多くなります。
いま皆さんの脳裏に原子の発見のことがあるようですが、人間がこれで全てを知り尽くしたと思っても、その先はまだまだ未知の要素があります。これから先も、人間が生命そのものをコントロールできるような立場には絶対になれません。
ますます宇宙の秘密を知り、ますます大きなエネルギーを扱うようになることでしょう。しかしその大きさに伴って責任も自覚して行かないと、そのエネルギーの使用を誤り、自然を破壊し、進化が止まってしまうことも考えられないことはありません。が実際にはそういう事態にはまずならないでしょう。
進化は螺旋形を画きながら広がっていきます。時には上昇し時には下降することもありますが、ぐるぐると円を画きながら、どんどん、どんどん広がりつつ進化しております」
──霊界では雨乞いのような祈りは問題にしないということでしょうか。
「しません。たとえ誠心誠意のものでも、何の効果もありません。法則は変えられないのです。自然現象をいろいろな予兆と結び付ける人がいますが、あれはすべて迷信です。私たちが訴えるのは知識であり、理性です」
──医師と看護婦に力を貸すための祈りが多くのスピリチュアリスト教会で行われておりますが、いっそうのことその医師や看護婦が心霊治療家になれるよう祈る方が賢明ではないかと思うのですが・・・
「その方がずっと賢明でしょうが、そう祈ったから必ずそうなるものと言うものではありません。地上世界には祈りについて大きな誤解があります。いかに謙虚な気持からであっても、人間から見てこうあるべきだと思うことを神に訴えるのが祈りではありません。
神は全知全能ですから、医師その他が霊力についての知識を持つことが好ましいことぐらいは知っております。それを祈りによって神に訴えたところで、それだけ医師や看護婦が心霊治療家に早変わりするものではありません。
祈りとは魂の行です。より大きな自我を発見し、物的束縛から脱して、本来一体となっているべき高級エネルギーとの一体を求める為の手段です。
ですから、真の祈りとは魂が生気を取り戻し、力を増幅する為の手段、言い変えれば、より多くのインスピレーションと霊的エネルギーを摂取する為の手段であると言えます。
それによって神の意思との調和が深められるべきものです。自己を内観することによってそこに神の認識を誤らせている不完全さと欠陥を見出し、それを是正して少しでも完全に近づき、神性を宿す存在により相応しい生き方をしようと決意を新たにするための行為です」
──それが出来ないときはどうしたらよいのでしょう。
「どうしても出来ないと観念された方は祈らない方がよろしい。祈りとは精神と霊の〝行〟です。それを通じて宇宙の大霊と一体を求める行為です。もしそれが祈りによって成就出来ない時、幾ら祈ってもうまくいかない時は、それはその方が祈りによってそれを求めるのが適さない方であることを意味しています。
祈りは行為に先行するものです。つまりより大きい生命との直結を求め、それが当人の存在を溢れんばかりに満たし、宇宙の大意識と一体となり、結果として霊的強化と防備を得て奉仕への態勢固めをすることです。これが私が理解しているところの祈りです」
・訳者註──シルバーバーチは〝祈らない方が良い〟とのべて、その具体的な理由は述べていないが、筆者の師である間部詮敦氏はシルバーバーチと全く同じことを述べて、その理由を〝そうした不安定な状態で精神統一を続けていると邪霊に憑かれ易いから〟と言われた。
そして具体的に精神統一の時間を十五分、ないしは三十分程度とし、それ以上は続けない方が良いと言われた。
これに筆者の私見を加えさせていただけば、人間はそれぞれの仕事に熱中している状態が最も精神が統一がされており、それが祈りと同じ効果をもたらすものと信じている。宇宙の大霊との合体を求めての祈りなどと言われても、普通一般の日常生活において、それを求めること自体が無理であり、無用でもあろう。
大体そうしものは求めようとして求められるものではなく、生涯に一度あるかないかの特殊な体験──絶体絶命の窮地において、守護霊その他の配慮のもとに〝演出される〟ものであると筆者は考えている。
それを敢えて求めようとするのは、霊的法則をよくよく理解している人は別として、きわめて危険ですらある。と言うのは、神人合一と言われる境地にもピンからキリまであり、シルバーバーチも〝高僧が割然大悟したと言っても高級界からみれば煤けたガラス越しに見た程度に過ぎない〟と言っているほどである。
ところが本人はそうは思わない。煤けたガラス越しにでも実在を見たのならまだましも、単なる自己暗示、潜在意識の反映にすぎないものを持って悟りと錯覚し、大変な霊格者になったような気分になっていく。そこが怖いのである。
地上の人間はあくまで地上の人間らしく、五感を正しく使って生活するのが本来の生き方であって、霊的なことは必要な時に必要なものを体験させてくれるものと信じて平凡に徹することである、と言うのが筆者の基本的生活態度である。
シルバーバーチが祈りについて高等なことを述べたのは質問されたからであり、だから、出来ないと観念した人は祈らない方が良いと言うことにもなった。
シルバーバーチ霊は三千年も前に地上を去り、すでに煩悩の世界を超脱した、日本流で言えば八百万の神々の一柱と言うべき高級霊であることを忘れてはならない。