第1章 戦時下の交霊会から
他の数多くの霊団と同じようにシルバーバーチ霊団も第二次世界大戦中は平和時に比べて地上との交信にさまざまな困難を味わっている。
メンバーの一人がスペインやエチオピア、中国などでの紛争の時にはとくに目立った問題は起きなかったように記憶するが、なぜ今回の大戦中はそんなに交信が妨げられるのかと質したのに対し、シルバーバーチはこう語った。
(本書の出版は一九四四年であるから、収められた霊言の大半が世界的規模の戦乱の真っ最中であった──訳者)
「人間が次から次へと死に、しかも地上の愛する者との連絡が取れない状態では、全体の雰囲気が不満に満ちた感情で埋め尽くされ、それが霊界との交信の障害となります。私たちは今こうして地上に来ております。その地上の人間が次々と死んでは地上との縁を求めようとすることが障害となるのです。
つまり問題は私たちがこうして地上にいる間のことです。他界した数知れぬ人間が地上との縁を求めます。が、それを受け入れる用意が地上にはありません。そのことが、戦争そのものが生み出す残虐な感情とは別に、大気に不協和音を作ります。交信がうまく行くには雰囲気が平静さと調和、受容的な心に満ちている時です。
残念ながらそう言う人は稀です。そこで私たちはこうしたサークル──霊的実在に目覚め、障害となる思念や欲望や感情によって雰囲気を乱すことのない人々の集まりから発生する霊的なエネルギーを頼りとすることになります。私がいつも皆さんに自信を持ちなさい、心配はいけません。
不安を抱いてはいけませんと言い、毅然とした平静さと不屈の精神で困難に対処するように説き、そうした雰囲気の中にあって初めてお互いが援助し合う条件が整うことを知ってほしいとお願いするのはそのためです。
私たちは物的な存在ではありません。物的世界との接触を求めているところの霊的な存在です。霊の世界と物の世界には懸隔(ギャップ)があり、それを何らかの媒介によって橋渡しする必要があります。私たちが厄介な問題に遭遇するのはいつもその橋渡しの作業においてです。
それを容易にするのも難しくするのも人間側の精神的状態です。雰囲気が悪いと、私と霊媒とのつながりが弱くなり、私と霊界との連絡も次第に困難となります。わずか二、三本の連絡線によってどうにか交信を保つということもあります。
その内霊媒が反応をみせなくなります。そうなると私は手の施しようがなくなり、すべてを断念して引き上げざるを得なくなります。私があなた方の忍耐を有難く思い、変わらぬ忠誠心を維持して下さっていることに感謝するのは、そういう理由からです。
私は当初から、つまり大戦勃発後間もなく交霊会を再開した時からすでに、こうした問題の生じることは覚悟しておりました。一時は果たしてこのまま地上の接触を維持することが賢明か否かを(霊団内で)議論したこともありました。
しかし私はたとえわずかとはいえ私が携えてきた知識を伝えることにより、力と希望と勇気を必要としている人々にとって私の素朴な霊訓が生きる拠り所となるはずだと決断しました。今私は、もし私たちの霊訓がなかったら今なお困難と絶望の中で喘いでいるかもしれない人々に慰めと力になってあげることが出来ることを知って、うれしく思っております。
しかしそれは決してそう易々とできたことではありません。私たちはこれまでの成果を私たちの功績として誇る気持ちは毛頭ありませんが、これまで私たちを悩ませてきた数多くの困難がいかなるものであったかを皆さんにぜひ認識していただきたいと思って申しあげるのです。
インスピレーションの全部が伝わることなどおよそ期待できないように思えたことも幾度かありました。そういう時に際して大切なことは、いつの日か、より鮮明な視野が開けるとともにより大きな理解力が芽生えることを信じて、忍耐強く待つことです。我慢することです。
私たちがお教えしたことをひたすらに実践なさることです。私たちに取って、とても辛い時期でした。しかし私は力の限りを尽くしてきました。活用できる限りの手段を駆使して、少しでも役立つように、少しでも力になってあげられるようにと努力してまいりました。皆さんは地上にいる限りこうした皆さんとの協力関係がどこまで成功したかはお判りにならないことでしょう。
魂の底からの感動を覚えた人の数、皆さんの協力によって成し遂げた成果がどの程度のものであるかは、お判りにならないでしょう。が、せめて私の次の言葉だけは信じてください。世界の多くの土地において無知の闇が取り除かれ、大勢の人々の心に新しい確信が宿されたということです。
次に戦争の犠牲者となった人々の霊界での受け入れ態勢について聞かれて──
「霊界は実にうまく組織された世界です。各自が持って生まれた才能──地上ではそれが未開発のままで終わることが多いのですが──それが自然な発達の過程を経て成就し、それぞれに最も相応しい仕事に自然に携わることになります。
(受け入れ態勢の事ですが)まず戦争の恐怖が地上を揺さぶっていない平和時においては、不可抗力の死の関門を通ってひっきりなしに霊界入りをする者を迎える仕事に携わる男女の霊が大勢おります。迎え方はその人間の種類によってさまざまです。
死後のことについて知っている人の場合、知らない人の場合、知っているといっても程度の差があり、間違っている場合もあります。そうした事情に応じてそれなりの扱い方を心得た者が対応します。そして初め新しい環境に戸惑っていたのが次第に馴染んで来るまでその仕事に携わります。
実は神の叡智の一つとして各自は地上にいるときから死後の環境に少しずつ慣れるように配慮されております。毎夜眠りに落ちて肉体が休息し、まわりの生活環境が静寂を取り戻すと、その肉体から霊体が脱け出て本来味わうべきよろこびの体験をします。
しかしその体験は(肉体に戻った時は)大半の人間が忘れております。一段と高い素晴らしい世界で、愛する人、愛してくれている人とともに過ごしたことが全く脳の意識に感応しません。
しかし死という大きな変化を経て新しい世界へ来ると、親和力の働きによって、そういう形で地上時代から馴染んでいた環境へ赴き、霊的本性に印象づけられていた体験を思い出しはじめます。
最初はゆっくりと甦ってきます。そうなるまでの期間は永い人もいれば短い人もいます。一人ひとり違います。それは霊的知識の発達程度によって異なります。言いかえれば、霊的実在についての認識の程度によって異なります。
正しい認識を持ち、すでに地上時代から死後の世界を当然のことと考えていた人は死後、あたかも手袋に手を入れるように、すんなりと新しい環境に馴染んでいきます。
死後に何が待ちかまえているかを知らずに来た者、あるいは間違った固定観念に固執していた者──大勢の案内者を差し向けなければならないのはこの類の人たちです。
各自の必要性に応じて適当な指導霊がつけられます。まったく知らない人であることもありますが、実は永い間地上生活の面倒を見てきた背後霊の一人であることがよくあります。また血縁関係の絆で引き寄せられる霊もいます霊的な親和性に刺激されてやってくる場合もあります。
さて、以上はすべて平和時の話です。これが戦時下になると、いろいろと問題が厄介となります。何しろ何の準備も出来ていない人間が大挙して霊界へ送り込まれてくるのですから。みんな自分が死んだことすら知りません。気の毒ですが、その大半はしばらく好きにさせておきます。意識が霊界よりもはるかに地上に近いからです。
手出しが出来ないと観念して側でじっと見つめているのは、私たちにとっても悲しいものです。実に心苦しいものです。しかし事情が事情だけに、彼らの方に受け入れ態勢が整うまでは、いかなる援助も無駄に終わってしまうのです。言わば完全に目隠しをされているのと同じで、われわれの存在が見えないのです。
死んだことにも気づかずに死んだ時と同じ行為を続けております。地上戦で死んだ者は地上戦を、海上戦で死んだ者は海上戦を、空中戦で死んだ者は空中戦を戦い続けます。そしてその内──期間はまちまちですが──様子が少し変だということに気づき始めます。
全体としては依然と変わらないのに、気をつけてみるとどうも辻褄が合わない。奇妙な、あるいは無意味なことが繰り返されていることに気づきます。殺したはずの相手が死んでない。
銃を撃ったはずなのに弾丸が飛んでいかない。敵の身体に体当たりしても相手は少しも動かない。触っても気がつかない。大声で話しかけても知らん顔をしている。そしてその光景全体に霧のような、靄のような、水蒸気のようなものが立ち込めていて、薄ぼんやりとしている。
自分の方がおかしいのか、相手の方がおかしいのか、それもわからない。時には自分が幻影に迷わされているのだと思い、時には相手の方が幻影の犠牲者だと考えたりします。
が、その内──霊的意識の発達程度によってそれが何分であったり何時間であったり何日であったり何ヶ月であったり、何年であったり何世紀であったりしますが──いつかは自覚が芽生えます。その時やっと援助の手が差し伸べられるのです。
一人ひとりその接触の仕方、看護の仕方が異なります。自分が死んだことがどうしても信じられない者にもいろいろな方法が講じられます。地上と隣接する界層へ連れていき、そこで自縛霊を扱っている霊団にあずけることもあります。
本人の知っている人間ですでに他界していることもよく知っている人のところへ連れていくこともあります。疑う余地がないわけです。このように同じ目的を達成するにも、さまざまな方法を講ずるのです。
さらには一時的にエーテル体つまり霊的身体を傷められたために看護をしてやらねばならない人がいます。いわゆる爆弾ショックのようなものを受けた者です。
意識が朦朧としており、手当が必要です。こちらにはそうした患者の為の施設が用意してあり、そこで適切な手当てをして意識を取り戻させ、受けた打撃を取り除いてやります。あくまでも一時的な傷害です。そのことをぜひ強調しておきたいと思います。
地上での死因がいかなるものであれ、それが霊体に永久的な傷害を与えることがあるように誤解されては困るからです。そういうことは絶対にありません。そうした傷害はショックの後遺症に過ぎません。正しく矯正すれば跡形も無く消えてしまいます。完全に回復します。
もう一つ強調しておきたいことは、みずから望まない限り、何の看護もされないまま放っておかれる人は一人もいないということです。迎えに来る人が一人もいないのではないかなどという心配はご無用です。縁故のある人がいますし、それとは別に愛の衝動から援助の手を差しのべようと待機している人も大勢います。
誰ひとり見捨てられることはありません。誰ひとり見失われることはありません。誰ひとり忘れ去られることもありません。素晴らしい法則が全ての人間を管理し、どこにいてもその存在は認知されており、然るべき処置が施されます。地理上の問題は何の障害にもなりません。
こちらには距離の問題がないのです。霊界全体が一つの意識となって、全てを知りつくしております。地上と霊界との親和力の作用によって、今どこそこで誰が死の玄関を通り抜けたかが察知され、直ちに迎えの者が指し向けらます」
──爆弾で死亡した子供はどうなるのでしょうか。
「子供の場合は大人に比べて回復と本復までの期間がずっと長くかかります。が、いったん環境に適応すると、こんどは大人より進歩がずっと速いのです。回復期は魂にとって夜明け前の薄明かりのような状態ですが、決して苦痛は伴いません。
そういう印象をもっていただいては困ります。一種の調整期間なのですから・・・つまり魂が新しい身体で自我を表現して行くための調整です。それには地上時代の体験が大きく影響するのですが、子供の体験は限られています。そこで本復までの期間が長びくわけです。
そして念の為に申し添えておきますが、例えば母親が地上に生き残り子供だけが他界した場合でも、地上時代に子供がいなくて母性本能が満たされずに終わった女性がその看護にあたります。こちらへ来てその母性本能を十分に発揮するチャンスが与えられるわけです」
──地上では子供の方が新しい環境への適応が速いですが・・・
「それは純粋に物的要素に関しての話です。今お話ししているのは霊に関ることです。霊が霊的世界へ適応して行く場合のことです。霊的世界は多くの点で物的世界とは大きく異なっており、同時によく似た面もあります。問題は〝自覚〟です。それがすべてであることを理解しなくてはいけません。自覚がすべてのカギです。
私がいつも知識こそ霊にとって掛けがいのない宝であると申し上げていることはよくご存じと思いますが、その知識が自覚を生むのです。こちらは精神の世界です。小さな精神(幼児)もそれなりの適応をしなくてはなりません。
もう一つの要素として償いの問題がありますが、子供の場合は償いというほどのものはありません。子供は地上的体験に欠けていますが、同時に地上的な穢れも無いからです」
──美徳による向上も得られませんね。
「そこに子供としての埋め合わせの原理が働いているわけです。つまり良いに付け悪いにつけ地上的体験がない。しかし、もし長生きしていたら犯していたであろう罪に対する償いもさせられることもないということです」
──その埋め合わせもすぐに行われるのでしょうか。
「それは一概には言えません。子供一人ひとりで事情が異なります。私は今償いの法則があることを指摘しているだけです」
──もしも子供に地上的な悪の要素が潜在している場合、それはそちらへ行ってから芽を出すのでしょうか。
「そのご質問の仕方は感心しません。子供に地上的な悪の要素が潜在するというのは事実に反します。何か例をあげてみてください」
──例えば大人になったら欲深い人間になったであろうと思われる人間が早世した場合、そちらへ行っても同じように欲深な人間になっていくのでしょうか。
「問題を正しい視野で捉えないといけません。こちらの世界で自覚が芽生えると、その時からその人は向上の道を歩むことになります。自覚が芽生えるまでは地上で満たされなかった欲望の幻影の中で暮らします。いったん自覚すると、その〝自覚した〟という事実そのものが、それまでの自我の未熟な側面を満足させたいという欲求に訣別したことを意味します。
〝正しい視野で捉えなさい〟と言ったのは、そうゆう意味です。欲が深いということは、まだ自覚が芽生えていないということを意味し、自覚するまでは、その欲望が満たされると満足するわけです」
──でも幼い子供はまだまだ未熟です。
「私が言わんとしているのは、幼い子供は魂を鍛えるための地上的体験が不足しているために未熟な状態でこちらへきますが、同時に彼らには大人になって出たであろう穢れで魂が汚されていない。そうした事情の中で子供なりの埋め合わせの原理が働くということです。子供は性格に染み込んだ穢れを落とす手間が省けるということを言っているのです」
──善を知るために地上で悪の体験をしに来るのではないのでしょうか。
「違います。善を知る目的で悪いことをしに来るのではありません」
──でも、私達は聖人君子の状態で生れてくるわけではないでしょう?
「それはそうです。しかし恨みを晴らすために、あるいは思い切り貪欲をむさぼることを目的に生れてくるのと、善悪を知らない言わば〝原料〟の状態で生れてきて一個の製品となっていくのとは意味が違います」
──その違いを〝悪行を犯す、犯さない〟で説明できないでしょうか。
「出来ないことはありません。ただ私はあなたの表現の仕方に賛成できないのです。私は人間の魂の発達の目標をあなたのおっしゃる〝聖人君子〟となることだとは思いませんし、又、罪悪の恐ろしさを知るために地上へやって来て人類みんなで悪い事をし合うことだとは考えません。
その考えは絶対間違っています。たしかに中にはある種の悪だくみを抱いて地上へやって来る者もいないではありません。しかし、その数は極めて限られています。真の悪人と言える人間は、幸いにしてきわめて少数です。罪悪の大半は──それを罪悪と呼ぶならばの話ですが──無知、間違った育て方、誤った教育、迷信等から生まれているものです」
──地上で欲の深かった子供は霊界でも暫くは欲深で、その意味で地上的体験をしたことにならないでしょうか。
「あなたがおっしゃるのは、もし子供が生れつき欲が深い場合は、死後もその貪欲性が意識に刻み込まれたままか、ということでしょうか。もしそうでしたら、それはあり得ることです。ですが、寿命が短ければその貪欲性の発現するチャンスも少ないわけですから、それだけ矯正が容易ということになります。
地上では殆ど発現しなかった貪欲性と、五十年も七十年も生きていて完全にその人の本性の一部となってしまった貪欲性とでは大変な差があります」
ここで話題が少し変わって、空襲で一緒に死亡した家族は霊界でも一緒かという質問が出た。すると──
「それは一概には言えません。これは答え方に慎重を要する問題です。落胆される方がいては困るからです。一つには再びいっしょになることを望むか望まないかにかかっています。
死後の世界での結びつきは結ばれたいという願望が大切な絆となるということ、そして地上では死後あっさりと消滅してしまう絆によって結ばれている家族がいるということを理解ください。
もし家族の間に何か共通したしたものがあれば──例えば自然な愛とか情とか友愛といったものがあれば、それによってつながっている絆は切れません。夫婦関係と同じです。地上には結婚というしきたりだけで夫婦である場合がたくさんあります。
霊的には結ばれていないということです。こうした夫婦の場合は死が決定的な断絶を提供することになります。が、反対に霊的次元において結ばれている場合は、死がより一層その絆を強くします。事情によっていろいろと異なる問題です」
──死んだことに気づかない場合はどうなりますか。
「死んだことに気づかない場合はそれまでと同じ状態が続きます。が、こうしたご質問に対しては一概にイエスともノーとも言えないことがたくさんあります。ほかにもいろいろと事情があるからです」
(訳者注──ここではこれ以上のことは述べていないが、他の箇所ではその〝事情〟として、その時点での各自の霊格の差、その後の霊的向上の速さの違い、償わねばならない地上生活の中身──それが原因ですぐさま再生を必要とする場合もありうる──等々があると述べている。
これは他の霊界通信の多くが異口同音に説いていることで、シルバーバーチがさきの答えの中で〝落胆される方がいては困るから〟慎重を要する問題だと言ったのは、総体的に言えば家族的な絆が強すぎて、むしろそれが向上の妨げにさえなっている事情を踏まえてのことであることを理解すべきである。この問題は断片的にではあるが今後もよく出てくる)
──戦死の場合でも、誰がいつ死ぬということは霊界では前もって分っているのでしょうか。
「そういうことを察知する霊がいます。が、どれくらい先のことが察知できるかはその時の事情によって異なります。愛の絆によって結ばれている間柄ですと、いよいよ肉体との分離が始まると必ず察知します。そして、その分離がスムーズに行われるのを手助けするためにその場に赴きます。
霊界の全ての霊に知られるわけではありません。いずれにせよ、死んだ時──地上からみた言い方ですが── 一人ぼっちの人は一人もいません。かならず、例外なくまわりに幾人かの霊がいて、暗い谷間を通ってくる者を温かく迎え、新しい、そして素晴らしい第二の人生を始める為の指導に当たります」