第9章 真理の理解を妨げるもの -宗教的偏見-
シルバーバーチ霊言集が全部で十一冊あることはすでに述べましたが、その十一冊がシルバーバーチ霊言の全てと言うわけではありません。

五十年余りにわたる膨大な霊言を九人の編者(うち二人が二冊ずつ)が自分なりの視点から編纂したもので、むしろ残されたものの方が多いのではないかと想像されます。

従って、霊媒のバーバネルが他界したこれからのちにも何冊か出版される可能性が十分あり、私などもそれを首を長くして待っている一人です。

其れはそれとして、バーバネル自身が著した書物が二冊あります。一冊は、人生を健康で力強く生き抜くためのスピリチュアリズム的処生訓を説いたWhere There is a Will(「霊力を呼ぶ本」潮文社)もう一冊はスピリチュアリズムを現象面と思想面の双方から説いたThis is Spiritualism(「これが心霊の世界だ」同)です。

さて後者の中に「英国国教会による弾圧」と題する一章があります。国教会と言うのはローマカトリック教会から独立したキリスト教の一派で、形式的には英国民の大半がその会員と言うことになっており、文字通り英国の国教と言うことが出来ます。

日本の宗教とは事情が異なり歴史的背景も違いますので比較対象は無理ですが、その本質はこれから紹介するその国教会とスピリチュアリズムとの論争とも闘争とも言える一つの事件を辿っていけば自ずと理解して頂けると信じます。

その火付け役は、ないしは主役として英国の宗教界に一大センセーションを巻き起こしたのが、ほかならぬバーバネルだったのです。

心霊現象の科学的研究が、SPRを代表とする資料の蒐集一本のやりの一派と、その現象に思想的ないし哲学的意義を認めて、いわゆるスピリチュアリズムへと発展させていった一派があることは第五章で述べましたが、

そのスピリチュアリズムの先駆者となったフレデリック・マイヤース、オリバー・ロッジ、コナン・ドイル、アルフレッド・ウォーレス、ウィリアム・クルックスと言った、人類の知性を代表すると言っても過言でない知識人は、みな英国人です。

そうした歴史的背景と同時にバーバネルがハンネン・スワッハーと言う英国ジャーナリスト界の大物を後援者に持ったことが、どれほどスピリチュアリズムの普及を促進したか、その陰の力は量り知れないものがあります。

もっとも普及は必ずしも受け入れを意味しません。そう言うものがあると言う認識に止まる人も多いのですが、その段階まで行くことだけでも、国家的に見て大変な進歩です。

これから紹介するバーネルと国教会の対立は、そう言った事情を背景としていることをまず認識して頂かねばなりません。と同時に国教会も基本的教説においてはキリスト教の他の宗派と大同小異ですから、これをスピリチュアリズムとキリスト教の対立と考えても差し支えないと思います。

1937年の事ですが、自らも心霊的体験を持つエリオット牧師と神学博士のアンダーヒルが当時のヨーク大主教(国教会はカンタベリーとヨークの二大管区に区分され、カンタベリーが全体の中心)であったテンプルに会い、これほどまでスピリチュアリズムが話題にのぼる様になった以上、国教会として本格的に調査研究して態度を明確にすべきではないかと進言しました。

テンプルはカンタベリー大主教のラングと協議し、その進言を聞き入れて、さっそく十名からなるスピリチュアリズム調査委員会を発足させました。

そして二年後にその結果を報告すると約束しました。ここまでは実に見上げた態度だったのですが、約束の二年が過ぎてから、調査結果の報告書(レポート)を巡って宗教的偏見が剥き出しになり始めました。ラングの命令でそのレポートが発禁処分にされたのです。

この時点からバーバネルを中心とするサイキック・ニューズ社のスタッフが活動し始めます。スタッフは、レポートの公開を拒むのは明らかにその内容が心霊現象の真実性を肯定するものに成っているからだと言う認識のもとに、それに携わったメンバーとの接触を求めます。

そして遂に全部ではないが報告書の大部分・・・肯定派七人による多数意見報告書・・・を入手し、それをバーバネルの責任のもとに、思い切ってサイキック・ニューズ紙に掲載しました。

案の定、それは英国内に大変な反響を呼びました。

蜂の巣を突っついたような、と形容しても過言でない程の騒ぎとなり、たまりかねたラング大主教は、張本人であるバーバネルを厳しく非難する一方、国教会とスピリチュアリズムの同盟を求める会の会長であるストバート女史に、何とか騒ぎを鎮めてほしいと頼むほどでした。

報告書を絶対公表すべきであるという意見が足元の国教会内部からも次々と出され、「この調査委員会による結論の公表を禁止させた“主教連中”による心ない非難や禁止令、其れに何かと言うとすぐ“極秘”を決め込む態度こそ、国教会という公的機関の生命を蝕む害毒の温床となって来た了見の狭い聖職主義を良く反映している」と言った厳しい意見が公然と出されました。が国教会首脳は頑として公表を拒否し続けました。バーバネルはその著書の中でこう述べています。

「私はその後テンプル博士がカンタベリー大主教に任命された時、書簡で是非委員会報告書を正式に公表するように何度もお願いした。書簡のやり取りは長期間に及んだが、ついに平行線を辿った。

社会主義の改革運動では同じ聖職者仲間から一頭地を抜いている人物が、こと宗教問題となると頑として旧態を墨守しようとする。現実の問題では恐れることを知らない勇気ある意見を出す人物からの書簡を悉く“極秘”か“禁”の印を押さなければならないとは一体どういうことだろうか」

サイキック・ニューズ紙に掲載された多数意見書は「英国国教会とスピリチュアリズム」と題されて、パンフレッドとしてサイキック・ニューズ社から発行されました。私どもの手元にもそれがあります。

が、もともとバーバネルの意見は報告書を入手することではありませんでした。内容は初めからおよその見当がついており、スピリチュアリズムにとってそれは今更取り立てて意味のあるものではないことは分かっていました。

バーバネルが求めたのは英国国教会が宗教的偏見を超えて心霊現象の真実性を認めると言う、真理探究者としての、あるいは聖職者としての公明正大な態度でした。それが出来ない国教会首脳に対する憤りと無念さが至る所に窺われます。例えば・・・

「この、かつてのヨーク大主教、後のカンタベリー大主教にとっては、その責務への忠誠心の方が死後の存続と言う真理への忠誠心より大事と言うことなのだろうか」

「私の持論は、宗教問題に限らず、人間生活の全てにおいて、伝統的なものの考え方が新しい考えの妨げになると言うことである。

固定的観念が新しい観念の入る余地を与えないからである。いかなる宗教の信者においても、宗教それ自体がスピリチュアリズム思想を受け入れる上で邪魔をするのである」

こうしたバーバネルの既成宗教についての考え方はシルバーバーチとまったく同一です。その理解の便に供する意味で、この後、英国国教会の流れをくむ一派であるメソジスト派の牧師とシルバーバーチとの二度にわたる論争を紹介したいと思います。

論争と言ってもその言葉から受けるほど激しいものではありません。それは多分にシルバーバーチの霊格の高さによる事は明らかですが、同時に、その牧師が真摯な真理探究心を持っていたからでもあります。

そうでなければシルバーバーチが交霊界へ招待する筈はありません。二人の論争を通じて、ひとりキリスト教に留まらず既成宗教全体に共通して言える一種の弊害を認識して頂きたいと思います。尚その青年牧師の立場を考慮して氏名は公表されておりません。

参考までにメソジスト派というのはジョン・ウェスレーと言う牧師が主唱し、弟のチャールズと共に1795年に国教会から独立して一派を創立した宗派です。ニューメソッド、つまり新しい方式を提唱している点からあるのですが、基本的理念においては国教会とは大同小異と見て良いと思います。

ある時そのメソジスト派の年次総会が二週間にわたってウェストミンスターのセントラルホールで開かれ、活発な討論が為されました。がその合間に牧師達の会話の中でスピリチュアリズムのことがしきりにささやかれました。

そのことで関心を抱いた一人の青年牧師がハンネン・スワッハーを訪ね、一度交霊界というものに出席させて貰えないかと頼みました。

予備知識としてはコナン・ドイルのThe New Revelation(新しい啓示)と言う本を読んだだけでしたが、スワッハーは快く招待する事にし、

「その会ではシルバーバーチと言う霊が入神した霊媒の口を借りてしゃべるから、その霊と存分に議論されるが宜しい。納得のいかないところは反論し、分からないところは遠慮なく質問なさる事です。その変わり後でよそへ行って、十分な議論をさせてもらえなかったと言った不満を言わないで頂きたい。

質問したい事は何でも質問なさって結構です。その会の記録はいずれ活字になって出版されるでしょうが、お名前は出さないことにします。そうすれば喧嘩になる気遣いもいらないでしょう。もっともあなたの方から喧嘩を売られれば別ですヨ」

と如何にもスワッハーらしい、ちょっぴり皮肉を込めた。しかし堂々とした案内の言葉を述べました。

やがて交霊会が始まると、まずシルバーバーチがいつものように神への祈りの言葉を述べ、やおらその青年牧師に話かけました。


「この霊媒にはあなたがたの言う“聖霊”の力がみなぎっております。これがこうして言葉をしゃべらせるのです。私はあなた方の言う“復活せる霊”の一人です」

(聖霊と言うのはキリスト教の大根幹である三位一体説・・・父なる神「キリスト神」、子なる神「イエス」そして聖霊が一体であると言いう説の第三位にあるものですが、スピリチュアリズム的に観れば、その三者を、結びつける根拠はありません。実にキリスト教とスピリチュアリズムの違いはそこから発しています。シルバーバーチもその点を指摘しようとしています)

牧師「死後の世界とはどういう世界ですか」

「あなた方の世界と実によく似ております。但し、こちらは結果の世界であり、そちらは原因の世界です」

牧師「死んだ時は恐怖感はありませんでしたか」

「ありません。私たちインディアンは霊覚が発達しており、死が恐ろしいものでないことを知っておりましたから。あなた方が属している宗派の創立者ウェスレーも霊感の鋭い方でした。やはり霊の力に動かされておりました。それはご存じですね」

牧師「おっしゃる通りです」

「ところが現在の聖職者たちは“霊の力”に動かされておりません。

宇宙は究極的には神とつながった一大連動装置によって動かされており、一番低い地上の世界も、あなた方の言う天使の世界とつながっております。どんなに悪い人間も、駄目な人間も、あなた方の言う神、私の言う宇宙の大霊と結ばれているのです」

牧師「死後の世界でも互いに認識し合えるのですか」

「地上ではどうやって認識し合いますか」

牧師「目です。目で見ます」

「目玉さえあれば見えますか。結局は霊で見ているのではありませんか」

牧師「その通りです。私の精神で見ています。それは霊の一部だと思います」

「私も霊の力で見ています。私にはあなたの霊が見えるし肉体も見えますが、肉体は陰に過ぎません。光線は霊です」

牧師「地上での最大の罪は何でしょうか」

「罪にもいろいろあります。が最大の罪は神への反逆でしょう。神の存在を知りつつも、尚それを無視した生き方をしている人々。そう言う人が犯す罪が一番大きいでしょう」

牧師「吾々はそれを“聖霊の罪”と呼んでおります」

「あの本(聖書)ではそう呼んでいますが、要するに霊に対する罪です」

牧師「“改訳聖書”をどう思われますか。“欽定訳聖書”と比べてどちらがいいと思われますか」

「文字はどうでも宜しい。いいですか。大切なのはあなたの行いです。

神の真理は聖書だけではなく、他のいろんな本にでています。それから、人の為に尽くそうとする人々の心には、その人がどんな地位の人であろうと、誰であろうと、何処の国の人であろうと、ちゃんと神が宿っているのです。それこそが一番立派な聖書です」

牧師「改心しないまま死んだ人はどうなりますか」

「“改心”とはどういう意味ですか。もっと分かり易い言葉でお願いします」

牧師「例えばよくないことばかりをしていた人がそのまま他界した場合と、死ぬ前に改心した場合とは死んでからどんな違いがありますか」

「あなた方の本(聖書)から引用しましょう。“蒔いた種は自分で刈り取る”のです。これは真理であり、変えることは出来ません。今のあなたそのままを携えてこちらへ参ります。

自分はこうだと思っているもの、人からこう観て貰いたいと願って居たものではなく、内部のあなた、真実のあなただけがこちらへ参ります。あなたもこちらへ来れば分かります」

ここでシルバーバーチはスワッハーの方を向いてこの人には霊能があるようだと述べ、何故連れて来たのかと尋ねると、

「この人から訪ねてきたのです」と答えます。そこでシルバーバーチがその牧師に向かって

「インディアンが聖書のことを良く知って驚いたでしょう」と言うと、

「よくご存じのようです」と答えます。すると別の列席者が

「三千年前に地上を去った方ですよ」と口添えします。

牧師はすかさず三千年前つまり紀元前十世紀の人間であるダビデの名前を出して、シルバーバーチに、そういう人間がいたことを知っているかと尋ねます。それに対してこう答えます。

「私は白人ではありません。レッドインディアンです。米国北西部の山脈の中で生活していました。あなた方のおっしゃる野蛮人と言う訳です。しかし私は、これまで西洋人の世界に、三千年前の吾々インディアンよりも遥かに多くの野蛮的行為と残忍さと無知とを見てきております。

今なお物質的豊かさにおいて自分達より劣る民族に対して行う残虐行為は、神に対する最大級の罪の一つと言えます」

牧師「そちらへ行くとどんな風に感じるのでしょう。やはり後悔の念と言うものを強く感じるのでしょうか」

「一番残念に思うことは、やるべきことをやらずに終わったことです。あなたもこちらへお出でになれば分かります。きちんと成し遂げたこと、やるべきだったのにやらなかったこと、そうしたことが逐一分ります。逃してしまった好機が幾つもあったことを知って後悔するわけです」

牧師「キリスト教への信仰をどう思われますか。神はそれを嘉納されるのでしょうか。キリストへの信仰はキリストの行いに倣うことになると思うのですが」

「主よ、主よと、何かと言うと主を口にすることが信仰ではありません。大切なのは主の心に叶った行いです。それが全てです。口にする言葉や、心に信じることではありません。

頭で考えることでもありません。実際の行為です。何一つ信仰と言うものを持たなくても、落ち込んでいる人の心を元気づけ、飢える人にパンを与え、暗闇に居る人の心に光を灯してあげる行為をすれば、その人こそ神の心に叶った人です」

ここで列席者の一人が、イエスは神の分霊なのかと問います。それに対してこう答えます。

「イエスは地上に降りた偉大なる霊覚者だったと言うことです。当時の民衆はイエスを理解せず、ついに十字架にかけました。いや今なお十字架にかけ続けております。

イエスだけでなくすべての人間に神の分霊が宿っております。ただその分量が多いか少ないかの違いがあるだけです」

牧師「キリストが地上最高の人物であったことは全世界が認めるところです。それ程の人物が嘘をつく筈がありません。キリストは言いました。“私と父は一つである。私を見たものは父を見たのである”と。これはすなわちキリストが神であることを述べたのではないでしょうか」

「もう一度聖書を読み返してご覧なさい。“父は私より偉大である”と言っていませんか」

牧師「言っております」

「また“天に在します吾等が父に祈れ”とも言っております。“私に祈れ”とは言っておりません。父に祈れと言ったキリスト自身が“天に在します吾等が父”であるわけがないでしょう。“私に祈れ”とは言っておりません。“父に祈れ”と言ったのです」

牧師「キリストは“あなた達の神”と“私の神”と言う言い方をしています。“私達の神”とは決して言っておりません。ご自身を他の人間と同列においていません」

「“あなた達の神と私”とは言っておりません。“あなた達は私より大きい仕事をするであろう”とも言っております。あなた方キリスト者にお願いしたいのは、聖書を読まれる際に何もかも神学的教義に合わせる様な解釈をなさらないことです。

霊的実相に照らして解釈しなくてはなりません。存在の実相が霊であると言うことが宇宙の全ての謎を解くカギです。イエスが譬え話を多用したのはその為です」

牧師「神は地上人類を愛するが故に息子を授けられたのです」

「イエスはそんな事を言っておりません。イエスの死後何年もたってからニケーア会議でそんなことが聖書に書き加えられたのです」

牧師「ニケーア会議?」

「西暦三二五年に開かれています」

牧師「でも私が引用した言葉はそれ以前からあるヨハネの福音書に出ていました」

「どうしてそれが分かります?」

牧師「いや、歴史にそう書いてあります」

「どの歴史ですか」

牧師「どれだかは知りません」

「ご存じの筈がありません。一体聖書が書かれる、そのもととなった書物は何処にあるとお考えですか」

牧師「ヨハネ福音書はそれ自体が原典です」

「いや、それよりもっと前の話です」

牧師「聖書は西暦九十年に完成しました」

「その原典になったものは今どこにあると思いますか」

牧師「いろんな文書があります。例えば・・・」と言って一つだけ挙げます。

「それは原典の写しです。原典は何処にありますか」

牧師がこれに応えきれずにいると・・・

「聖書の原典はご存じのあのバチカン宮殿に仕舞い込まれて以来一度も外へ出されたことが無いのです。あなた方がバイブル(聖書)と呼んでいるものは、その原典の写し(コピー)の写しのそのまた写しなのです。おまけに原典にないものまでいろいろと書き加えられております。

初期のキリスト教徒はイエスが遠からず再臨するものと信じて、イエスの地上生活のことは細かく記録しなかったのです。

ところが、何時に成っても再臨しないので、ついに諦めて記録を辿りながら書きました。イエス曰く・・・と書いてあっても、じっさいに言ったかどうかは書いた本人も確かではなかったのです」

牧師「でも、四つの福音書にはその基本となったいわゆるQ資料(イエス語録)の証拠が見られることは事実ではないでしょうか。中心的な事象はその四つの福音書に出ていると思うのですが」

「私は何もそうしたことが全然起きなかったと言っているのではありません。私はただ聖書に書いてあることの一字一句までイエスが本当に言ったとは限らないと言っているのです。

聖書に出てくる事象には、イエスが生まれる前から存在した書物からの引用が随分入っていることを忘れてはいけません」

こうした対話から話題は苦難の意義、神の摂理、と進み、その間に細かい問題も入りますが、それらはすでに前章までに紹介したことばかりなので割愛します。ともかくここで第一回の論争が終わり、何日か後に再びその牧師が出席して再び論争がはじまります。

最初の質問は、地上の人間にとって完璧な生活を送ることは可能か否か、全ての人間を愛することが出来るか否かと言った、いかにも聖職者らしいものでした。シルバーバーチは答えます。

「其れは不可能なことです。が、そうした努力をしなくてはいけません。努力することそのことが、性格の形成に役立つのです。

怒ることなく、辛く当たることなく腹を立てる事も無いようでは、最早人間でないことに成ります。人間は霊的に成長する事を目的としてこの世に生まれてくるのです。成長又成長と、何時まで経っても成長の連続です。それはこちらへ来ても同じです」

牧師「イエスは“天の父が完全である如く汝も完全であれ”と言っておりますが、これはどう解釈すべきでしょうか」

「だから完全であるように努力しなさいと言っているのです。それが地上生活における最高の理想なのです。すなわち内部に宿る神性を開発することです」

牧師「私が引用した言葉はマタイ伝第五章の終りに出ているのですが、普遍的な愛について述べた後でそう言っているのです。また“ある者は隣人を愛し、ある者は友人を愛するが、汝等は完全であれ。神の子なればなり”と言っています。

神は全人類を愛して下さる。だから我々も全ての人間を愛すべきだと言うことなのですが、イエスが人間に実行不可能なことを命じるとお思いですか」

この質問にシルバーバーチが呆れたように、あるいは感心したような口調で、少し皮肉を込めてこう言います。

「あなたは全世界の人間をイエスのような人間にしようとなさるんですね。お聞きしますが、イエス自身、完全な地上生活を送ったとお考えですか」

牧師「そう考えます。完全な生活を送ったと思います」

「一度も腹を立てたことが無いとお考えですか」

牧師「当時行われていたことを不快に思われたことはあると思います」

「腹を立てたことは一度も無いとお考えですか」

牧師「腹を立てる事はいけないと説かれている、それと同じ意味で腹を立てたことはないと思います」

「そんなことを聞いているのではありません。イエスは絶対に腹を立てなかったかと聞いているのです。イエスが腹を立てたことを正当化できるかどうかを聞いているのではありません。正当化する事なら、あなた方はどんなことでも正当化なさるんだから・・・」

ここで列席者の一人が割って入って、イエスが両替商人を教会堂から追い出した時の話を持ち出します。

「私が言わんとしたのはそのことです。あの時イエスは教会堂と言う神聖な場所を汚す者どもに腹を立てたのです。鞭を持って追い払ったのです。それは怒りそのものでした。それが良いとか悪いとかは別の問題です。イエスは怒ったのです。

怒ると言う事は人間的感情です。私が言わんとするのは、イエスも人間的感情を具えていたと言うことです。

イエスを人間の模範として仰ぐ時、イエスも又一個の人間であった・・・ただ普通の人より神の心を多く体現した人だった、と言う風に考えることが大切です。ありもしないことを無理にこじつけようとするのはよくありません。分かりましたか」

牧師「分かりました」

「誰の手も届かない処へ祭り上げたらイエス様が喜ばれると思うのは大間違いです。イエスもやはり自分達と同じ人間だったと見る方がよほど喜ばれる筈です。自分だけ超然とした位置に留ることはイエスは喜ばれません。人類と共に喜び、共に苦しむことを望まれます。

一つの生き方の手本を示しておられるのです。イエスに出来る事は誰にも出来ることばかりなのです。誰も付いて行けないようだったら、折角地上に降りたことが無駄だったことになります」

この後牧師が自由意思について質問すると、すでに紹介した通り各自に自由意思はあるが、あくまで神の摂理の範囲内での自由意思であること、つまりある一定の枠内での自由が許されているとの答えでした。続いて罪の問題が出され、

シルバーバーチが結論として、罪と言うものはそれが結果に対して及ぼす影響の度合いに応じて重くもなり軽くもなると述べると、すかさず牧師がこう反論します。

牧師「それは罪が知的なものであると言う考えと矛盾しませんか。単に結果との関係においてのみ軽量が問われるとしたら、心の中の罪は問われないことに成ります」

「罪は罪です。体が犯す罪、心で犯す罪、霊的に犯す罪、どれもみな罪は罪です。あなたはさっき衝動的に罪を犯すことがあるかと問われましたが、その衝動は何処から来ると思いますか」

牧師「思念です」

「思念は何処から来ますか」

牧師「(少し躊躇してから)善なる思念は神から来ます」

「では悪の思念は何処から来ますか」

牧師「分かりません」と答えますが、実際は「悪魔から」と答えたいところでしょう。

(シルバーバーチはそれを念頭において語気強くキリスト教の最大の欠陥をつきます。)

「神は全てに宿っております。間違ったことの中にも正しいことの中にも宿っています。日光の中にも嵐の中にも、美しい物の中にも醜い中にも宿っています。空にも海にも雷鳴にも稲妻にも神は宿っているのです。お分かりになりますか。

神とは“これとこれだけに存在します”と言う風に一定の範囲内に限定出来るものではないのです。全宇宙が神の創造物であり、そのすみずみまで神の霊が浸透しているのです。あるものは切り取って、これは神のものではない、などとは言えないのです。

日光は神の恵みで、作物を台無しにする嵐は悪魔の仕業だなどとは言えないのです。神は全てに宿ります。あなたと言う存在は、思念を出したり受けたりする一個の器官です。

どんな恩恵を受け、どんな思念を発するかは、あなたの性格と霊覚によって違ってきます。もしもあなたが、あなたのおっしゃる“完全な生活を送れば”、あなたの思念も完全なものばかりでしょう。が、あなたも人の子である以上、あらゆる煩悩をお持ちです。そうでしょう」

牧師「おっしゃる通りだと思います。ではそうした煩悩ばかりを抱いた人間が死の際になって自分の非を悟り“信じよ、さらば救われん”の一句で心に安らぎを覚えると言うケースがあるのをどう思われますか」

この質問はキリスト教のもう一つの重要な教義である贖罪説とつながってきます。イエス・キリストへの信仰を告白することですべての罪が購われると言う信仰が根強くあり、それが一種の利己主義を生む土壌となっております。

シルバーバーチは折に触れてその間違いを指摘していますが、ここでもイエスの別の言葉を二、三引用した後、こう語ります。

「神の摂理は絶対にごまかせません。傍若無尽の人生を送った人間が死に際の改心でいっぺんに立派な霊になれるとお思いですか。魂の奥深くまで沁み込んだ汚れが、それくらいのことでいっぺんに洗い落とせると思いますか。

無欲と滅私の奉仕生活を送ってきた人間と、我儘で心の修業を一切疎かにしてきた人間とを同列に並べて論じられるとお考えですか。“済みませんでした”の一言ですべてが許されるとしたら、果たして神は公正と言えますか。如何ですか」

牧師「私は神はイエス・キリストに一つの非難所を設けられたと思うのです。イエスはこう言われ・・・」

「お待ちなさい。私はあなたの素直な意見を聞いているのです。素直にお答え頂きたい。本に書いてある言葉を引用しないで頂きたい。イエスが何と言ったか私には分かっております。私はあなた自身はどう思うかと聞いているのです」

牧師「確かにそれは公正とは言えないと思います。が、そこにこそ神の偉大なある愛の入る余地があると思うのです」

そこでシルバーバーチが、もし英国の法律が善人と悪人とを平等に扱ったら、あなたはその法律を公正と思うかと尋ねると、牧師は自分はそうは言って居ないと弁明しかけますが、再びそれを遮って

「自分が種を蒔き、蒔いた物は自分で刈り取る。この法則から逃れることは出来ません。神の法則をごまかすことはできないのです」

牧師「では悪の限りを尽くした人間が今死に掛っているとしたら、私はその人間にどう説いてやればいいのでしょう」

「シルバーバーチがこう言ったとその人に伝えて下さい。もしもその人が真の人間、つまり幾ばくかでも神の心を宿していると自分で思うのなら、それまでの過ちを正したいと言う気持ちになれる筈です。

自分の犯した過ちの報いから逃れたいと言う気持ちが何処かにあるとしたら、その人は最早人間ではない。ただの臆病者だと、そう伝えて下さい」

牧師「しかし罪を告白すると言うことは、誰にでもは出来ない勇気のある行為だとは言えないでしょうか」

「それは正しい方向への第一歩でしかありません。告白したことで罪は拭われるものではありません。その人は善いことをする自由も悪いことをする自由もあったのを敢えて悪い道を選んだ。自分で選んだのです。ならばその結果に対して責任を取らなくてはいけません。

元に戻す努力をしなくてはいけません。紋切り型の祈りの言葉を述べて心が安まったとしても、それは自分を誤魔化しているに過ぎません。蒔いた種は自分で刈り取らねばならないのです。それが神の摂理です」

ここで牧師がイエスの言葉を引用して、イエスは決してそんな意味で言っているのではないと説きます。すると又牧師が別の言葉を引用しますが、シルバーバーチも別の言葉を引用して、罪はあくまでも自分で償わなければならないことと説きます。

そしてキリスト教徒が聖書一つに拘ることの非を諭して次のように語って会を閉じました。

「神は人間に理性という神性の一部を植え付けられました。あなた方も是非その理性を使用して頂きたい。大きな過ちを犯し、それを神妙に告白する・・・それは心の安らぎになるかもしれませんが、罪を犯したと言う事実そのものはいささかも変わりません。

神の理法に照らしてその歪みを正すまでは、罪は相変わらず罪として残っております。いいですか。それが神の摂理なのです。イエスが言ったという言葉を聖書からいくら引用しても、その摂理は絶対に変えることはできないのです。

前にも言ったことですが、聖書に書かれている言葉を全部イエスが実際に言ったとは限らないのです。そのうちの多くは後の人が書き加えたものです。イエスがこうおっしゃっている、とあなた方が言う時、それは“そう言ったと思う”という程度のものでしかありません。

そんないい加減なことをするより、あの二千年前のイエスを導いてあれほどの偉大な人物にしたのと同じ霊、同じインスピレーション、同じエネルギーが、二千年後の今の世にも働いていることを知って欲しいのです。

あなた自身も神の一部なのです。その神の温かき愛、深遠なる叡智、無限なる知識、崇高なる真理がいつもあなたを待ち受けている。何も神を求めて二千年前まで遡ることはないのです。

今ここに在しますのです。その神の真理とエネルギーの通路となるべき人物(霊媒・霊能者)は今も決して多くはありません。何故そんな昔のインスピレーションにばかり縋ろうとなさるのです。何故イエス一人の言った事に戻ろうとなさるのです。

何故全知全能の神を一個の人間と一冊の書物で全部表現出来るとでもお思いですか。私はイエスよりずっと前に地上に生を享けました。すると神は私には神の恩恵に浴することを許して下さらなかったと言うことですか。

神の全てが一冊の書物の中の僅かなページで表現できるとお思いですか。

その一冊が書き終えられた時を最後に、神はそれ以上のインスピレーションを子等に授けることをストップされたとでもお考えですか。聖書の最後の一ページを読み終わった時、神の真理の全部を読み終わったことになると言うのでしょうか。

あなたもいつの日か天に在します父のもとに帰り、今あなたが築きつつある真実のあなたに相応しい住処に住まわれます。神の子としてのあなたに分かって頂きたいことは、神を一つの枠の中に閉じ込めることは出来ないと言うことです。神は全ての存在に宿るのです。

悪癖の固まりのような人間にも、神か仏かと仰がれるような人間にも同じ霊が宿っているのです。あなた方一人一人に宿っているのです。

あなたがその神の御心を我が心とし、心を大きく開いて信者に接すれば、その心を通して神の力と安らぎとが、あなたの教会を訪れる人々の心に伝わることでしょう」